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薩摩藩が首位! 幕末「雄藩最強ランキング」

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2019年10月16日 07:00  AERA dot.

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写真「幕府・雄藩ランキングBEST10」
「幕府・雄藩ランキングBEST10」
 週刊朝日ムック『歴史道VOL.6』では、幕末を大特集。代表的な雄藩のなかから厳選した9藩と幕府を、「政治・外交力」「経済力」「軍事力」「人材」「モチベーション」の5つの項目でランキングした。ちなみに雄藩とは江戸時代に勢力を誇った大藩のこと。僅差ではあったが首位に立ったのは薩摩藩、2位は長州藩だった。幕府を抑えたこの二藩の実力を分析してみよう。

【薩摩・長州の主役たちが勢ぞろい!当時の写真はこちら】 

*  *  *
●第1位 薩摩藩

「婚姻政策で幕府との結びつきを強め、幕末の雄藩のなかで傑出した存在となる」

○薩摩藩
国名/薩摩国(鹿児島県) 藩庁/鹿児島城(鹿児島市)
主な藩主家/島津氏 石高/77万石
■政治・外交力、軍事力など3項目で満点の評価を得た

 幕末の薩摩藩主島津斉彬は、水戸藩の徳川斉昭、越前藩の松平慶永(春
嶽)のほか、老中阿部正弘とも結んで幕政改革を図るとともに、公武合体によって幕藩体制を安定化させようとするなど、政治・外交力を存分に発揮していた。

 しかも、薩摩藩の政治・外交力は、公的な面にとどまらない。島津斉彬の養女天璋院篤姫は、13代将軍徳川家定の御台所になっており、私的な面でも幕府との結びつきは強かった。幕政は、名目的には将軍による親裁で行われたが、実質的に大奥の意向を無視することができたわけではない。

 大奥を統轄するのが、将軍の正室たる御台所の役割であったから、薩摩藩は、天璋院を介しても、政治・外交力を発揮することができたのである。公的・私的な幕府とのつながりをもっていた薩摩藩の政治・外交力は卓越しており、そのため満点の20点をつけた。
 
 薩摩藩の公式的な石高は、俗に「77万石」と称された。ただし、薩摩藩の藩域の多くは火山灰が堆積したシラス台地であり、稲作には適していない。実質的な石高は、その半分程度であったともいわれる。いずれにしても、経済力は高くはなかった。しかも、江戸時代を通じての財政は悪化の一途をたどっており、江戸時代後期には500万両の借金を抱えていたともいう。

 ただ、家老調所広郷(ずしょひろさと)による藩政改革により、薩摩藩は、琉球王国との貿易により利益を得ただけでなく、奄美群島のサトウキビを用いた黒砂糖を専売するなどして、莫大な利益をあげていた。そのため、差し引きすると、経済力は17点と評価する。

 薩摩藩では、余剰金を借金の返済ではなく、軍事費に投じていた。富国強兵・殖産興業を図ろうとする島津斉彬は、近代工業化のための集成館を設立し、武器や弾薬の製造にも乗り出している。もともと薩摩藩は他藩よりも人口に占める武士の割合が多く、しかも火器による戦闘を強く意識していた。そこに十分な量の銃砲が整備されたのであるから、軍事力は文句なしの20点満点である。
 
 人材についていえば、薩摩藩では、学芸を主とする造士館、武芸を主とする演武館といった藩校を設けており、文武両道による育成が行われていた。また、島津斉彬の時代には、下級武士の大久保利通や西郷隆盛が登用されるなど、能力によって政治にも参加することができていた。ただしお遊良騒動(注)など、藩政の実権を握る権力争いから足の引っ張り合いもあったことを含め、人材は18点となる。

 藩内では凄惨な権力争いもあったが、大久保利通や西郷隆盛らが政治の実権を握ったあとは、討幕で藩論が統一されていく。15代将軍徳川慶喜により「討薩表(とうさつのひょう)」が出されたことで、結束力は高まった。その点をふまえ、モチベーションも19点とした。

(注)藩主の後継をめぐり正妻の子・斉彬を擁立する一派と、側室お遊羅の子・久光を擁立する一派が対立したお家騒動。

●第2位 長州藩

「幕末に有能な人材を多数輩出するが、急進派の過激な行動が評価を下げた」

○長州藩
国名/長門国(山口県)藩庁/萩城(萩市)・山口城(山口市)
主な藩主家/毛利氏 石高/36・9万石
■藩内の急進派と保守派が対立。一時は朝敵とされてしまう

 もともと長州藩では、急進的な尊王攘夷論を唱えた改革派だけでなく、幕府と協調するべきだとする保守派も存在していた。そうしたなか、藩主の毛利敬親は、藩士の言いなりだったことから、「そうせい侯」と揶揄されることが多い。ただ、どちらかの一派が政権を握れば、藩内が混乱するわけで、藩主として慎重な態度をとり続けた結果とみることもできる。
 
 改革派は、尊王攘夷派の公家に接近し、長州藩は京都の政局に影響を及ぼしていった。とはいえ、朝廷には公武合体派の公家もおり、長州藩が朝廷を掌握できたわけでもない。文久三年(1863)の八月十八日の政変で、長州藩は会津藩を中心とする公武合体派によって追放された。そして、翌元治元年(1864)、復権を図ろうとして上洛したが、禁門の変に敗れ、「朝敵」とされてしまう。

 こののち、幕府による追討を受けることになった長州藩では、改革派が政権を奪い、討幕へと傾いていく。藩として政治・外交力を発揮できたのは、改革派が保守派を一掃した後のことである。長州藩は、薩摩藩との薩長同盟により、討幕の中心勢力になった。とはいえ、薩長同盟は密約同盟であり、藩として政治・外交力を誇示するには至っていない。そのため、政治・外交力は低く、16点とする。

 長州藩の石高は、名目的には36万石余であったが、江戸時代を通じて瀬戸内海沿岸の干拓を行っており、水田面積を増やしていた。そのため、幕末における実質的な石高は、支藩を含めれば100万石近くになる。しかし長州藩には、他の藩と同様に借金もあり、幕末には200万両におよんでいたらしい。そのため、村田清風などによる藩政改革が行われ、倹約に努め、藩財政は改善された。こうした点から、経済力は18点をつけた。
 本来ならば、藩政改革によって生じた余剰金は、借金の返済にあてるところであるが、長州藩では、これを軍事費に注ぎ込んだ。結果、それほど経済力が高かったわけではない長州藩が、近代的な兵制を導入し、軍備を整えることができたのである。尊王攘夷を実行した長州藩は、イギリスを中心とするフランス・オランダ・アメリカの列強4カ国とも戦端を開く。

 この馬関(ばかん)戦争には敗北するものの、欧米列強との実戦経験に
より、軍事力は高められた。こうしたことをふまえ、軍事力は19点とした。長州藩の人材が満点の20点なのは、多様な逸材がいたためである。尊王攘夷の精神的な支柱となった吉田松陰に師事した久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允らが藩政を左右するようになっていった。

 幕末の政治・外交では中心になりえなかった長州藩であったが、明治維新後には、伊藤博文・山縣有朋らが新政府を牽引している。二度にわたって幕府との戦争を戦った長州藩は、幕府を敵とすることで戦意を高めた。そのため、モチベーションも満点の20点とする。

(文/小和田泰経)

※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.6』から抜粋

このニュースに関するつぶやき

  • 薩摩藩が一番ですね���塼���å�
    • イイネ!8
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  • …会津藩は別に雄藩って訳でも無かったのに、京都守護職で幕末事変の矢面に立たされた上、薩摩に裏切られ慶喜にイモ引かれて全責任を押し付けられたせいで雄藩と呼ばれる程の奮闘をせざるを得なかったのが切ない。
    • イイネ!34
    • コメント 10件

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