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『お嬢ちゃん』で魅せた名演 萩原みのり、ガールズジェネレーションを牽引する新世代の女優に

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2019年10月16日 11:31  リアルサウンド

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リアルサウンド

 一人の俳優の名前が世に知られることは、社会がひとつの語彙を獲得することに似ている。マリリン・モンローやジェームス・ディーン、ジョーカーを演じ死んでいったヒース・レジャー、松田優作や萩原健一、山口智子や窪塚洋介という俳優の名前は、時にその個人の固有名詞であることを超えて、いつしか社会の中で「それがどのような人間であるか」を説明する形容詞として使われ始める。


参考:ほか場面写真多数


 二ノ宮隆太郎監督による映画『お嬢ちゃん』は、萩原みのりという1人の若い女優の名を多くの観客に知らしめることになった。映画『枝葉のこと』で知られる二ノ宮監督はスカパー!のドラマ『I”s』をきっかけに萩原みのりを知り、彼女を主演にして映画を撮ろうと決意したと語る。主演女優に名指された萩原みのりはその時所属していた事務所を辞め、女優を続けるか、それとも故郷に帰るのかの選択に迷っている状態だった。


 映画『お嬢ちゃん』は「みのり」という主演女優と同名の1人の女性を描いた映画である。父親に対する葛藤を抱え、祖母と鎌倉で暮らす21歳の女性。映画はその主人公の社会への違和感、不適応を主題に描かれていく。映画を宣伝することは元々簡単なことではないが、とりわけこの映画を言葉で説明することはとても難しい。「どいつもこいつもくだらない」というコピーで、社会に物申す女の物語、と説明する映画の宣伝に嘘はないし、間違ってもいない。映画冒頭で萩原みのり演じる主人公が友人を性的被害に合わせた男に詰め寄るシーンはフェミニズムや#MeTooの文脈と明らかに重なる。


 しかし映画は、主人公みのりの人物像、そして周囲に複雑な陰影を加えていく。エンターテインメントの中でなら、女性が悪い男を爽快にやっつける物語は定番と呼べるほどいくつも存在する。格闘技、あるいは法律知識を用いて可憐な女性が悪漢に勝利することはフィクションの中ではたやすい。しかしこの映画はそうした虚構のガス抜きを目的にしていない。描くのは現実の中でガスが蓄積する構造、その曖昧で混沌とした社会のありようである。キャプテン・マーベルやワンダーウーマンのようなスーパーパワーを持たず、暴力への恐怖を抑えながら、見上げるほどの大男に謝罪を迫る主人公と怒声で返す男の険悪な雰囲気に、被害をみのりに訴えた友人はもういいと彼女の袖を引く。映画の中で状況は常に混濁し、その複雑さと曖昧さの中で主人公みのりは翻弄されていく。


 萩原みのりという21歳の女優の演技力の高さは、その社会の曖昧さに呼応するような主人公の内面の表現の複雑さ、繊細さに現れる。見上げる大男と対決する場面も、優しい祖母のジェンダー観に反抗する場面にも、萩原みのりの演技は言葉として発音するセリフの上に、言葉にならないもうひとつの無意識の情報を、声や身体の言語として重ねていく。暴力に怯える本能と、暴力に対する怒り。優しい祖母を傷つけたくない気持ちと、その抑圧に対する反発。言語化された台詞と言葉にならない感情の2つが、一人の女優の中で和音のように重なって1つの重層的な演技になり、物語は曲がりくねる川のように流れていく。


 混沌を描く映画、という意味で、僕は今年上半期の話題をさらった今泉力哉監督の映画『愛がなんだ』を思い出していた。『愛がなんだ』という映画が「相手が自分を愛さないと知りながら、人はなぜ他者を愛してしまうのか」という魂の混沌を描いた映画だとしたら、『お嬢ちゃん』は周囲の男性から美人として欲望される一人の女性がなぜこの世界の男を誰一人愛せないのか、衣食住足りるこの国でなぜ魂の飢えに苦しむのかという混沌を描いた表裏の作品に見える。


 萩原みのり演じる主人公は確かにこの映画の中で何度か激しい怒りを見せるのだが、それは社会問題を解決する正義というより、心の器をなみなみと満たした感情の混沌がついにダムの決壊のように零れ落ちた結果だ。発露してこぼれた怒りは、コップを満たす複雑な感情のほんの一滴であり、残りの言語化できない感情は主人公・みのりの魂の器をまだいっぱいに満たしている。この映画は言いたいことをズバズバと言うヒロインに観客が留飲を下げる映画ではなく、言語化できない留飲、言葉にできない無意識を抱えながら、それでも生きていく女性について描いた映画である。萩原みのりの演技は観客にはっきりとそれを伝えることができる。手足を投げ出すような歩き方も、かすかな眉間のシワも、台詞とは別の身体言語として主人公の複雑な混沌を映し出す。 


 率直に言って今になれば、これほど力のある若い女優が今までなぜもっと決定的に大きな注目を浴びなかったのかは不思議だ。もちろん萩原みのりは今までいくつもの映画やドラマに出演し、映画『ハローグッバイ』では久保田紗友とダブル主演もつとめている。出演作を見返すと、今回の主人公のようにインパクトのある役柄でこそないが、商業映画の要求にプロの役者として応える高い演技力を見せている。それでも本人が『映画秘宝』11月号で語るところによれば、同世代の女優たちの活躍にコンプレックスを抱え、新作映画のキャスト発表から目を背けるような日々があったという。力のある者にいつも光が当たるとは限らない。でもたぶん、その日々はもう終わる。


 10月5日の新宿K’sシネマ『お嬢ちゃん』上映には、二ノ宮隆太郎監督と並んで萩原みのり本人が上映後の舞台挨拶に登壇した。映画の中で演じた「みのり」に比べ、髪型を変え、劇場の満席を喜ぶ主演女優の萩原みのりはとても楽しそうで、そして嬉しそうに見えた。映画の役と本人の差異は、映画の中の「みのり」が素のまま労せず演じた役ではなく、繊細に構築された演技であったことを観客に示していた。客席の質問に萩原みのりは「他の演じてきた役に比べて、みのりという役は自分という幹を枝のように伸ばして演じた役だ」と答えた。たぶん「みのり」は萩原みのりの一部でありながら、彼女のすべてではないのだろう。映画界に共有された「俳優・萩原みのり」という新しい言葉は、映画の中の「みのり」を語義の1つに含みながら、まだ見せていない多様で広い意味を持つように見える。もうすでに、その名前は彼女一人の固有名詞ではなく、映画が獲得した新しい形容詞として映画ファンの間を飛び交い、そしてやがては社会の中に流れ始めるだろう。


 新宿K’sシネマで上映中の三週間限定上映には今泉力哉監督が駆けつけて二ノ宮隆太郎監督と対談し、寄せ書きに映画への賛辞を書き残して行った。『お嬢ちゃん』の予告編には今泉監督による「こういう映画をつくりたい。いつか必ず。その時は二ノ宮隆太郎と萩原みのりをキャスティングして」というコメントが流れる。雑誌やWEBサイトには彼女のインタビューが掲載され、すでに多くの監督や関係者の注目が集まっている。ゴルディアスの結び目のように何重にもからまったこの社会に生きる魂の混沌を描く映画監督たちにとって、萩原みのりの演技はその混沌を語り、解きほぐすための新しい語彙だ。πという記号が小数点以下を何万ケタも記述することなく円周率を扱うことを可能にするように、萩原みのりは誰もが抱えながら正確に言語化することのできない混沌を記述するための代数として、映画の中で自分自身を証明することができる。


 萩原みのりの公式ツイッターでは、その日の衣装で楽しげに舞う彼女の動画を見ることができる。黒いエレガントなロングドレスに、足を痛めるハイヒールやパンプスではなく、スポーティなハイカットの白黒スニーカー、というコーディネートが映画女優の舞台挨拶として一般的なのかどうか、ファッションに疎い僕にはわからない。でも、まるでボクサーのリングシューズのようにも見えるその靴は、映画の中で苦闘する女性を演じた主演女優の萩原みのりにとても似合っているように思えた。舞台挨拶で小柄な二ノ宮隆太郎監督が悪童のように露悪的な冗談を言うたびに、そのハイカットスニーカーを小気味よく鳴らしてドン引きのステップバックをしたり、手を上げて質問する観客の方向に踵を帰す主演女優の軽やかなフットワークに、僕は何となく「蝶のように舞い蜂のように刺す」というボクシング界の古い言葉を思い出していた。


 『お嬢ちゃん』にはすでに女性の観客からの共感の声が多く寄せられている。だが「男性の視点も入れなくてはと思った」と語る二ノ宮隆太郎監督の脚本と演出に、「ここは自分の感覚と違う」と感じる女性の観客もたぶんいると思う(二ノ宮隆太郎監督の優れたところは、主人公の周囲の「くだらない」男たちの描き方が実に人間らしくリアルなところで、とりわけ三人組の一人であるにやけたナンパ師を演じた寺林弘達の演技は素晴らしかった)。でも萩原みのりという新しい女優、その演技が含むメッセージはたぶん、映画のストーリーを越えて多くの人に響くと思う。すでに多くの名を成した男性監督たちが萩原みのりに注目し、今泉力哉監督の次回作『街の上で』の出演も決定しているが、山戸結希監督のプロデュースによる短編映画オムニバス企画『21世紀の女の子』で競作した気鋭の女性監督たちも彼女を放ってはおかないだろうし、「私ならこうは書かない、萩原みのりをもっと生かせる」と思う女性クリエイターは多いはずだ。萩原みのりの演技は彼女たちの物語を語るために現れた新しい語彙であり、女性の心の影を描くための深い色彩を持った新しい絵の具なのだから。憎まれ口を叩きながら「どんどん俺の手の届かないところに行くんだろうな」と舞台挨拶で笑う二ノ宮隆太郎監督はそれを予期するように、まるで萩原みのりに舞台の上でハチが刺すように打たれて、来るべき未来の女性監督たちに自分が見いだした主演女優を受け渡そうとしているようにも見えた。


 実を言えば、萩原みのりは既に4年前、18歳の時にある一人の女性監督に出会っている。2014年の伊参スタジオ映画祭シナリオ大賞を史上最年少で受賞した一人の女子高校生は、大学受験を終えたその1年後に「高橋名月」という弱冠18歳の新人映画監督となり、自らの受賞脚本『正しいバスの見分けかた』を25分の短編映画として群馬県で撮影する。出演者は中条あやみ、岡山天音、葉山奨之、そして萩原みのり。高校生たちによる関西弁の静かな話し言葉だけで構成されるこの会話劇は、後に中条あやみが出演することになる『セトウウツミ』の映画やドラマよりも先に脚本が書かれ、撮影されている。


 それは一言で言えば透明な川の水を撮るように、流体力学のようなコミュニケーションだけを撮影した映画であり、ボーイミーツガールとガールミーツガールが交差する新しい世代の、たった25分の青春映画である。後にスターダムに駆け上がっていく中条あやみたち4人の若き日を記録した記念碑的な作品でありながら、25分という上映時間のネックで一般公開されないまま4年間眠り続けていた映画は、この夏に新宿シネマートで限定公開された。そこで22歳になった高橋名月監督に終映後のロビーで聞いたところでは、萩原みのりは中条あやみの関係者から「事務所は違うのだが、とても演技が上手い子がいる」と紹介されてキャスティングされたのだそうだ。実際に萩原みのりはこの映画で、愛知県出身ながら短期間に習得した関西弁を駆使して暴走族の妹「中島さん」を見事に演じている。この映画のあと、中条あやみはスターダムに駆け上がり、高橋名月監督は日大芸術学部で大学生として映画を学ぶ。そして萩原みのりは本人が語るように迷いの日々を送る。たぶんその日々は彼女の演技のボキャブラリーを深めたのだが。


 『お嬢ちゃん』新宿K’sシネマの舞台挨拶の終わりに、観客を見送る萩原みのりに『正しいバスの見分けかた』について質問すると、彼女は意外そうな顔で今回の役を演じる上では特に意識をしなかったと答えた。だが僕には『正しいバスの見分けかた』で彼女が演じた人物、中条あやみが演じる心身に不調を抱えて宇宙人を目撃する少女・鮫島に不思議な距離感で寄り添い、「おおむねええ人やで」と表現される「中島さん」は、この映画の「みのり」とどこか通じているように思えた。萩原みのりは、18歳の自分を同い年の女性監督がたった2日間で撮影したあの美しい25分間の映画を、女優を辞めようかと悩んだ期間に思い出しただろうか。同性の心の影に寄り添う「中島さん」は、彼女の女優としての将来を予言していたように見えるのだが。そしていつか、かつて18歳だった監督と女優が再び映画を撮影する日は来るのだろうか。


 新しい書き手たちが新しい語彙に出会い、新しい文章を書き始めている。ガールズジェネレーション、新しい女優と新しい女性監督の時代がそこまで来ている。蝶のように舞いハチのように刺す(Float like a butterfly, sting like a bee. )、と言ってのけたカシアス・クレイ、後にモハメド・アリと名乗ることになる若き挑戦者は、その名台詞を吐いた直後の試合で、王者ソニー・リストンの史上最強と言われたハードパンチを変幻自在のフットワークでことごとく空を切らせ自滅させる。それはボクシングが強さとタフさを競う男らしさの決闘から、フットワークとスピード、そして戦略のゲームへと転換する歴史的な転換点となる試合だった。そのよく知られた挑戦者の名台詞の後には、実は続きがある。”Your hands can’t hit what your eyes can’t see.”お前の手は、お前の目に見えないものを殴ることができない。


 僕たちの目には、高橋名月や萩原みのりたち、新しい世代がたぶんまだよく見えていない。でも彼女たちの世代には、きっと僕たちのことがよく見えているだろう。そしていずれ彼女たちの作る映画が僕たちを打ち抜くとき、ようやく僕たちにも彼女たちの姿が見えるはずだ。「俺は混沌の代理人だ(I’m an agent of chaos)」というのは映画『ダークナイト』でヒース・レジャーが演じるジョーカーが吐いた映画史に残る名台詞なのだが、言うまでもなく、混沌は男性の側にだけ存在するわけではないのだから。 (文=CDB)


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