『空の青さを知る人よ』が示した岡田麿里のネクストステージ 『さよ朝』以降の作風から考える

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2019年10月18日 08:01  リアルサウンド

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『空の青さを知る人よ』(c)2019 SORAAO PROJECT

 2018年に公開された映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』(以下、『さよ朝』)で監督デビューを果たした脚本家の岡田麿里。2019年夏から秋にかけ、岡田が脚本を手がけた作品が多く公開されている。岡田原作の漫画をテレビアニメ化した『荒ぶる季節の乙女どもよ。』では全12話の脚本のほか、映画『惡の華』や『空の青さを知る人よ』でも脚本を担当している。今回は『さよ朝』以降の岡田の脚本作品を考えていきたい。


参考:『惡の華』原作ファンも納得の仕上がりに 脚本・岡田麿里×井口昇監督が生み出す、思春期の機微


 岡田の脚本の特徴の1つとして挙げられるのは、生々しい性を表現する点だ。岡田は生々しい性表現を、時に日常描写として、あるいはキャラクター描写の核として活用してきた。『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(以下、『あの花』)の主要キャラクターである安城鳴子のあだ名を“あなる”とすることで、登場人物たちがあなるという言葉が卑猥な言葉であると認識しないほどに幼い頃からの仲であったことが伺える。また高校生になった安城鳴子があだ名で呼ばれることを忌避することで、キャラクターの成長だけでなく友人としての距離感が遠くなったことを表現しているのだ。


 他にも岡田がシリーズ構成と全話脚本を担当した『放浪息子』では、自分の体の性と心の性の不一致に悩む少年少女たちの思いを繊細に汲み取り、シリアスな性の悩みの描写にも真正面から取り組んでおり、卓越した手腕を発揮している。


 その特徴は『荒ぶる季節の乙女どもよ。』でも発揮されている。この作品は、知識としての恋しか知らず、男性の視線や女子生徒の性体験談を汚らわしいものと捉えてしまうほど潔癖な文芸部員の女子高生5人が物語の中心となり、男子の純粋な好意や大人の性欲まじりの視点、クラスメイトの妊娠騒動などに翻弄されながらも成長していく様を描いている。女子の目線だけでなく、主人公の小野寺和紗に思いを寄せる典元泉が自分の部屋で自慰に耽る場面を和紗に目撃されてしまう描写を入れるなど、男性としても肝が冷えるような性表現を真正面から描く。


 異性愛、教師と生徒の恋愛、同性愛、概念としての性などの多様な性に迫っており、内容はシリアスな部分もある。しかし、塚田拓郎監督のインタビューで語るように漫画的な表現やキャラクターの可愛らしさを生かすように演出されており、視聴者が深刻に捉すぎないような工夫もされている。


 『荒ぶる季節の乙女どもよ。』とセットで着目したいのは『惡の華』だ。テレビアニメ化も果たした押見修造の人気原作を実写映画化した作品であり、岡田は原作の持つ青少年の鬱屈した感情や、性の悩みを抑えることなく過激な性表現を生かす脚本を書いている。中学生の主人公、春日高男がクラスのマドンナである佐伯奈々子や、孤立している仲村佐和の存在を気にしていると、同級生が高男をからかう姿に自分の学生時代を思い返してしまう人もいるのではないだろうか。同じ文学好きの主人公ということもあり共通するものが多く、文学少女の性の悩みをポップに描いたのが『荒ぶる季節の乙女どもよ。』であるのに対して、文学少年の性の悩みをシリアスに描いたのが『惡の華』と言えるだろう。


 『荒ぶる季節の乙女どもよ。』の5話では、文芸部員の菅原新菜がロリコンの舞台演出家、三枝に好意を寄せられた過去が明かされる。しかし三枝は「菅原新菜の少女性を愛しており、その肉体に手を出して少女性をなくしてしまえば魅力がなくなってしまう」と話す。これは生身ではなく、概念としての少女を愛しているということだ。この考え方は『惡の華』にも共通する。理想のマドンナである佐伯奈々子と、自身を破滅に導くとわかりながらも仲村佐和に惹かれてしまい翻弄される春日高男は、2人の理想の女性像という概念に振り回されていると言える。『惡の華』に登場するもう1人の少女、常磐文を理想の女性という概念から解き放たれた後の現実の女性と解釈すると、『荒ぶる季節の乙女どもよ。』で描かれた概念や知識としての性に翻弄されながらも、現実の性を体感し成長する姿と共通するものがある。


 岡田作品のもう1つの特徴としてあげられるのは親、特に母親との確執だ。シリーズ構成を務めたオリジナルテレビアニメの『true tears』や『あの花』『心が叫びたがってるんだ。』(以下、『ここさけ』)でも親子の確執は重要な問題として描かれていた。初監督作品である『さよ朝』に関してはその親子の関係性をメインのテーマに設定しており、このテーマに並々ならぬ思いがあることを伺わせる。


 しかし『空の青さを知る人よ』では、親子の問題は全くと言っていいほど描かれない。冒頭にて、主人公の相生あおいの両親は事故で亡くなったことが明かされ、姉である相生あかねが育ててきたこと、そしてあおいが、幼さゆえに姉を頼り独占し、自分のせいで姉が町に縛られてしまったという後悔の思いが描かれている。過去の作品では、主人公が子供目線から親へと並々ならぬ感情をぶつける様が描かれたが、今作ではその視線は描かれないのだ。


 岡田は2017年に『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』という自伝を発表しているが、その中でも登校拒否を重ねていた時代や母親との確執について明かしている。インタビューでは『あの花』はその時代を引きずっていたと答えており、岡田が親との確執を多く描いていたのも自身の体験からくるものだろうと想像できる。しかし『さよ朝』において母と子の結びつきを描くことでそのテーマに対して1つの区切りがついたのではないだろうか。


 自伝の中で岡田は『心が叫びたがってるんだ。』というタイトルについて、長井龍雪監督と意見を戦わせながらも、このタイトルにしたいと主張したと明かしている。その理由について岡田は「誰かに、どこかに、叫んでぶつけたいことがある訳じゃない。ただ、ひたすら叫びたいという欲求だけはある。胃の中に沈殿する、もやついた名前のない魂のようなもの。それを吐き出したい」と語っている(『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』P.253)。


 『あの花』『ここさけ』『さよ朝』と経て、岡田の中にあった思いが少しずつ吐き出された先にあるのが『空の青さを知る人よ』だと感じさせられた。その結果、過去作にあった親との確執やセクシャルな単語が少なくなり、苦手意識を持っていた人でも楽しめながらも、岡田の魅力を損なわない物語となっている。10代の観客であれば、あおいが恋や進路に悩む姿に共感するだろう。


 また『とらドラ!』や『あの花』などの長井監督と岡田が脚本を務めた作品を10代の頃にリアルタイムで楽しんでいた人も多くはアラサーとなり、あかね達が自分と同じような悩みを抱いていることに共感し、映像の快感とともに昇華されるシーンを経て鑑賞後は勇気付けられる作品になっている。若者の思いを描いてきた長井監督の作風と岡田の脚本の魅力が発揮されており、老若男女問わず多くの方に受け入れられ愛されるであろう。アニメ監督や漫画の原作など多くの挑戦を続ける岡田の活躍に今後も目が離せない。


■井中カエル
ブロガー・ライター。映画・アニメを中心に論じるブログ「物語る亀」を運営中。


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