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「都電よごくろうさまでした!」 渋滞頻発の51年前「北千住」を走り抜けた昭和の情景

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2019年10月19日 07:00  AERA dot.

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写真「都電よごくろうさまでした」の看板が見える千住四丁目終点は日光街道を上る自動車洪水の中。21系統の都電の脇に止まるのは「トヨペットクラウン」MS50系ワゴンといすゞ「ベレット」。その背後が日野自動車の初期キャブオーバートラックTC30系(撮影/諸河久:1968年1月23日)
「都電よごくろうさまでした」の看板が見える千住四丁目終点は日光街道を上る自動車洪水の中。21系統の都電の脇に止まるのは「トヨペットクラウン」MS50系ワゴンといすゞ「ベレット」。その背後が日野自動車の初期キャブオーバートラックTC30系(撮影/諸河久:1968年1月23日)
 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。東京から各地を結ぶ街道は、中央区日本橋を起点として放射状に広がっていた。今回は日光街道の終点「千住四丁目」と中山道の終点「志村橋」、それに清洲橋通りの終点「葛西橋」の都電風情を点描してみよう。

【現在の同じ場所はどれだけ変わった!? 本文中の葛西橋、志村橋などの貴重な写真はこちら(全6枚)】

*  *  *
■昔の街並みが消え去った北千住終点

 北千住線は千住大橋〜千住四丁目1900mを結ぶ路線で、日光街道(国道4号線)に敷設され、1928年7月から運行されていた。当初の29系統(千住四丁目〜土州橋)から22系統になり、戦後は21系統として千住四丁目〜水天宮前を結んでいた。

 江戸期の千住は品川、内藤新宿、板橋と同じ江戸四宿の一つで掃部宿(かもんじゅく)とも呼ばれ、独特の文化圏を形成していた。

 都電が走っていた昭和の時代は高速道路網が未整備で、都電終点の北側に位置する千住新橋は自動車交通の難所だった。現在は首都高速や東北自動車道が整備され、千住新橋の架け替えも完了して道幅が広がるなど、当時の大渋滞は大幅に緩和されている。

 旧景は北千住線が廃止される前日の撮影で、商店街のアーケードには「都電よごくろうさまでした」の横看板が掲出されていた。この21系統は1968年2月25日から三ノ輪橋〜水天宮前に運転短縮され、1969年10月25日に全線が廃止されている。

 千住四丁目終点跡は大変貌していた。1973年には千住大川町横断歩道橋が竣工。1980年代に入ると道路拡幅工事が始まり、画面右側の街並みがセットバックされた。画面左側には、当時の家並が少しは残っていると思っていたが、高層マンション群が建ち並び、都電惜別の看板が掲げられた往年の商店街は消滅していた。

■三軒家と呼ばれていた新河岸川畔の志村橋終点。

 都電41系統(志村橋〜巣鴨駅前)は都電最後の新設系統だった。中山道(国道17号線)に敷設された志村線は、志村坂上から志村橋まで1900mの軌道延伸工事が1955年6月に完成。41系統として運行を開始している。1966年の路線廃止まで僅か11年であったが、延伸に力を注いだ沿線住民から愛された系統だった。

 志村橋の停留所名は、すぐ北側を流れる新河岸川に架かる「志村橋」から命名された。往年の新河岸川は物資輸送の重要な水路で、江戸と川越城下を結んでいた。この界隈はその当時、酒屋、農家、舟戸の渡しの家屋が三軒あったところから「三軒家」と呼ばれていた。1964年の訪問時、志村橋終点から中山道の南西側に「三軒家百貨店」屋号で食料品店が盛業しており、昔の地名が引き継がれていた。

 志村橋終点跡に来てみると、旧停留所は周囲の雰囲気でそれとなく推測できた。旧景に写っている「志村橋外科」の動静が気になり、近隣の「錦寿司」でお話を伺えた。ご主人から、志村橋外科医院は介護施設に建て替わったことを教えていただいた。この建物を画面左端に入れて定点を割り出せた。画面右端の工事現場では「警視庁志村警察署」の新庁舎の建設が進められていた。

■葛西橋終点「都電に揺られてハゼ釣り詣」

 清洲橋通りに葛西橋線が敷設されたのは、戦時中の1944年5月だった。城東電気軌道から引き継いだ砂町線の境川から葛西橋に至る1300mの新設路線で、沿線の軍事工場へ通う通勤者の便をはかるため、資材不足を克服して延伸された。

 当初は41系統(葛西橋〜錦糸堀)で運転され、戦後の1947年から29系統(葛西橋〜須田町)になった。朝夕の通勤時には境川を左折して日本橋に向かう臨時便も運転された。

 葛西橋停留所の先を道なりに300mほど進むと、1928年に竣工した荒川放水路に架かる旧葛西橋があった。往時は路線バスも通行する片側一車線の木橋脚・鉄製桁の橋で、300m下流に現在の葛西橋が完成した1963年まで使用されていた。

 旧葛西橋界隈はハゼ釣りの名所で、シーズンともなれば橋上に釣り人が絶えなかったという。橋詰には多くの釣具屋や船宿が盛業していた。

 1965年に撮影した葛西橋の終点風景を観察すると、周辺には多くの商店や飲食店が軒を連ね、生活感に溢れる終点だった。発車待ちしている29系統の都電は、途中の錦糸堀車庫行の方向幕を掲示している。軌道の途切れた先に城東警察署葛西橋西派出所(現在は旧葛西橋交差点角に移転)の建物があった。

 54年ぶりに葛西橋の終点跡を訪ねた。都電終点に代わって、都バスの「旧葛西橋」停留所が道路左側に設置されている。旧画面右側の商店街は、都電廃止後の道路拡幅でセットバックされて、すべての家屋が建て替えられていた。旧景に大きく写っている「清水釣具商会」が盛業中なのを幸いに、店主の清水晃さん(77歳)のお話を伺った。

「(都電の)終点があった時分は、都電で乗り付けた釣り客が、早朝から釣り餌を買いに来ました。釣り支度を済ませると、旧葛西橋の橋上を目指して足早に歩いてゆきましたよ」

 など、往時の思い出を懇切に語ってくれた。

 近隣の老舗「ナカヤ」の前に立つと「砂町名物アンパン」を焼く香ばしい匂いが漂ってくる。旧画面右端の「赤玉パチンコ店」は閉業し、一階では整骨院が開業していた。

 葛西橋から都電が姿を消して47年になる。古老が語る「都電に揺られてハゼ釣り詣」の終点逸話は、昭和時代の憧憬として令和の時代に語り継がれている。

■撮影:1968年1月23日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経て「フリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。2019年10月に、東ドイツ時代の現役蒸気機関車作品展「ハッセルブラド紀行/東ドイツの蒸気機関車」を「KAF GALLERY」(埼玉県川口市)にて開催(14日まで)。

このニュースに関するつぶやき

  • 学校に通うのに王子から都電を使っていたから愛着があるな 親父は若い頃に都電の軌道にオートバイのハンドルを取られて転んだから都電が嫌いらしい(笑)
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  • この写真の都電。架線はシンプルカテナリーに見えるが?。
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