【男たちの挽歌】古田敦也、最後の1年

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2019年10月23日 13:12  ベースボールキング

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ベースボールキング

フェンスによじ登り、スタンドのファンと最後の別れを惜しむヤクルト・古田兼任監督=神宮
◆ 昭和の野村から平成の古田へ

「えっ? 古田敦也が監修の日本野球機構公認ゲーム?」

 先日、近所のブックオフでスーパーファミコンの中古カセットを見つけた。『古田敦也のシミュレーションプロ野球2』だ。あーそう言えばあった、本人が選手データを監修したのがウリで、オープニング映像にオリックス時代のイチローが出てきて……と記憶が甦る。

 パッケージはイラストの古田に、プレー中のマスク姿写真の古田と、もちろん怒涛の「背番号27」推し。凄い、今の球界の捕手でこんな個人名を冠したゲームを出せる選手はひとりもいないだろう。その場でスマホから発売日を調べてみると、1996年8月24日。95年にヤクルトは日本一になり、古田はオフに当時の人気アナウンサー中井美穂と結婚。97年にも日本一となり、ペナントと日本シリーズのダブルMVPに加えて正力松太郎賞に輝くので、まさにキャッチャー古田の全盛期に発売された野球シミュレーションゲームだ。

 でもゲームはリアル路線と思いきや可愛いらしいキャラの試合演出が謎だったよな……じゃなくて、90年代の古田は大げさではなく、捕手のイメージそのものを変える存在だった。

 師匠の野村克也監督とは真逆の明るいキャラクターに、のび太君風のメガネ姿とスリムな体型。92年に連載開始、あだち充の人気漫画『H2』で主人公の国見比呂とバッテリーを組む野田敦は、メガネをかけたキャッチャーである。昭和の名捕手がノムさんなら、平成を代表する捕手は古田敦也だと思う。

 だが、21世紀に入るとプロ野球選手会長時代に見せた涙と、選手兼任監督の「代打、オレ」が話題を呼ぶ。だからこそ、その印象が強烈すぎてキャッチャー古田の晩年の成績はあまり記憶にない……そんな野球ファンも多いかもしれない。平成最強捕手は、どんな「最後の1年」を過ごしたのだろうか?


◆ ヤクルト黄金期の礎

 ちなみに古田は将棋好きで有名で、チーム内のヤクルト名人戦を制覇。99年3月のスカイパーフェクTV『囲碁・将棋チャンネル』では、清水女流四冠とお好み対局(二枚落ち)が行われた。将棋と配球の読みの共通点を聞かれ、ID野球の申し子はこう答える。

「打者は顔色や態度に出しませんから、読む材料が少ないんですよ。この打者はどういう傾向があるのか、前の打席どうだったのかのデータをもとに、その場の状況から判断するんです。将棋のようにあんまり先を読むようなものではないですね」

 さすが度胸の良さとロジカルさを併せ持つ男。トヨタ自動車時代の88年ソウル五輪では、野茂英雄らとバッテリーを組み銀メダル獲得。89年ドラフト2位でヤクルトに指名されると、いきなり106試合に出場、2年目には打率.340でセ初の捕手で首位打者に。翌92年には30本塁打を放ちチームの14年ぶりのリーグ優勝に貢献した。日本一に輝く93年の盗塁阻止率.644(企画数45、盗塁刺29)という驚異の日本記録は、今も破られていない。その後も、背番号27はヤクルト黄金期をど真ん中で支え続けた。


◆ 新たな時代へ

 捕手の概念を変えたように、球界のシステムでも古田が一石を投じたものは数多い。若手時代の90年代前半から、オフになると野球以外で話題を振りまいていた。

 当時の日本球界ではまだ珍しい代理人同席での契約更改を球団に求め、テレビゲームに登場する選手の肖像権使用料についても話し合いを要求。同時期にJR東日本のイメージキャラクターにも選ばれ、92年の『週刊ベースボール』には「知的で信頼感があって、しかも親近感もある」と広告業界関係者のコメントが掲載されたが、ヤクルト選手が本社以外のテレビCMに登場するのは初だったという。リアリスト古田は、そのクレバーなイメージ通りに旧態依然とした球界の慣習破りに挑戦したのである。

 のちに後輩たちに食事もあまり奢らないケチらしいとネタになったが、もう思考そのものが良くも悪くも昭和の体育会系のノリではなかったのだろう。しかも、98年に33歳で日本プロ野球選手会長に就任した古田は、当時から機構側やオーナー側に対して一歩も引かない激しいバトルを繰り広げていた。

 2000年の公式戦増加を巡る交渉時には、年俸増額やオールスター1試合制等を提示し、最終的にストライキも辞さないと発言。いち早くセ・パ交流戦の実現についても言及している。さらに代理人制度、ドラフト制度、FA制度と時代に合った改革を目指し、遠慮なく提案し続けた。もちろん選手側が絶対的に正義で、経営側が悪なんて単純な図式ばかりではないが、このスタンスはやがて04年球界再編時の“闘う選手会長”へと繋がっていく。


◆ 古田敦也のメガネ

 なお古田は立命館大4年時のドラフトで、日本ハムから上位指名を確約されながら、直前でまさかの指名漏れを経験している。しかも、「メガネをかけている捕手は大成できない」なんて理不尽な理由で、集まったマスコミに対して「申し訳ありませんでした」と頭を下げた22歳の青年の屈辱。あの時の球界の大人たちに対する不信感が、闘う選手会長の原点にはあったのかもれない。とは言っても、その弱点であったはずのメガネも、Jリーガーの中山雅史が表紙を飾る『小学五年生』94年4月号の「プロ野球選手 オレの武器」というコーナーに「古田敦也のメガネ」でしっかり登場するのだから恐ろしい。

 記事によると、スイスで開発されたコンピューターで自分の顔87カ所を計ってもらい、顔にピッタリ合ったメガネの形を選択。レンズはフレームのないリムレスタイプ。耳にひっかけるイヤーピース部分は二重構造でクッションの役目を果たし、プレー中に衝撃を受けても外れることがない。メガネのツルやブリッジを支える部分は「ウルテム」という新素材でジャンボジェットの機体にも使われているスグレもの。レンズのポリカーボネートは耐衝撃度が普通のプラスチックの10倍でカナヅチでたたいてもビクともしません……って長いよ! ジャパネットたかたの社員研修かよ! 小学五年生の読書は誰もついて来れないよ! 

 なんつって絶叫したくなる規格外のハイテクメガネを手に入れた古田はベストナイン9回、ゴールデングラブ賞10回と圧倒的な結果を残し、チームを5度のリーグ優勝、4度の日本一へと導いた。断固たる意志で球団合併を阻止して1リーグ制が回避され、交流戦が始まった05年には40歳で捕手としては恩師・野村克也以来となる史上2人目(当時)の通算2000安打も達成。キャリアに一区切りついたと思ったら、オフには平成初の選手兼任監督の誕生である。


◆ 選手兼任監督という重責

 1年目の06年は3位も、2年目の07年は球団21年ぶりの最下位に転落。下半身や右肩の故障もあり自身の出場機会は激減し、打率.244で35試合出場(先発マスク20試合)に終わった06年オフの契約更改では選手分年俸1億8000万円減での6000万円サインが話題に(監督分年俸は1億円)。皮肉なことにヤクルトにおいて捕手・古田の穴はあまりに大きかった。

 そして、2007年10月7日。神宮球場の広島戦で監督辞任と選手引退の最後の日を迎えるわけだ。3万3027人の大観衆が詰めかけ、スタンドには盟友・池山隆寛や当時メジャーリーガーの岩村明憲の姿もあった。

 42歳の背番号27は「5番捕手」で先発出場すると、ともに黄金時代を築いた石井一久や高津臣吾らとバッテリーを組み、3打数無安打で迎えた最終打席は前日に引退セレモニーを終えた同期入団の佐々岡真司がマウンドへ。両軍ファンから大歓声が送られる中で遊ゴロに倒れ、試合後のセレモニーでは「18年間、ありがとうごさいました。また会いましょう!」と爽やかにグラウンドを去った。

 書籍『古田の様』(金子達仁著/扶桑社)によると、兼任監督になって1年目のオフ、右肩の腱の約90%が切れているため手術を予定していたが、監督として秋季キャンプに参加することを優先させ、手術はキャンセルしたという。結果、現役最終年はわずか10試合の出場。やはり兼任監督の重責は選手寿命に影響を及ぼした。Tシャツまで作られた話題の「代打、オレ!」は2シーズン計19回と少なかったが、19打数7安打の打率.368と結果を残している。

 さて、その古田擁する野村ヤクルトと長嶋巨人の対戦は乱闘や危険球退場で荒れる遺恨試合が多かったが、緊張感溢れるライバル関係の中で、95年12月に行われた古田の結婚披露宴に巨人からひとりだけ出席した選手がいた。同じ昭和40年生まれの元甲子園のスター、水野雄仁である。

(次回、水野雄仁編へ続く)

【古田敦也92年・07年打撃成績】
92年(27歳):132試合 打率.316 30本塁打 86打点 OPS.997
※ゴールデングラブ賞とベストナインを獲得。

07年(42歳):10試合 打率.333 0本塁打 0打点 OPS.757
※引退試合は「5番捕手」で出場。最終打席は遊ゴロ。

▼ 古田の主要部門打撃成績
文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)

このニュースに関するつぶやき

  • 捕手・古田敦也 → 打者のハーフスイングでジャンプしながら人差し指を回し主審と塁審にスイングをアピールする姿が印象深い。
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