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アテネ五輪代表メンバーから落選。その時、鈴木啓太は何を思ったか

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2019年11月13日 06:41  webスポルティーバ

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私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第10回
アテネ五輪に出場できなかった主将の胸中〜鈴木啓太(3)

 アテネ五輪アジア最終予選を突破し、日本はアテネ五輪の出場権を獲得した。鈴木啓太はキャプテンとして、大きな仕事をひとつやり終えたことに安堵していた。

「やっぱり(連続出場中の)五輪への扉を閉ざすわけにはいかないし、(監督の山本)昌邦さんは『アテネ経由ドイツ行き』とずっと言っていた。アテネ五輪に出場しないことには、それも始まらない。これは、自分たちの将来を賭けた戦いだったんです」

 だが、鈴木がある意味、彼自身の”本当の戦い”に置かれたのは、出場権を獲得したあとだった。

 五輪には、最終予選で貢献した選手全員が行けるわけではない。そもそも登録メンバーが18名と少なく、本番では23歳以上の選手を3人登録することができるオーバーエイジ枠もある。五輪に行く18名のメンバーに生き残ることは容易なことではなかった。

 最終的な登録メンバーを決める前に、沖縄合宿が行なわれた。そこで、鈴木は山本監督の自分に対する接し方が、最終予選の時とは異なることに違和感を覚えていた。

「最終予選の時は、僕に(山本監督が)とくに話をしてくることがなかったんです。それは、僕に対する信頼の証だと思っていたんですよ。でも、沖縄ではやたらと話かけてくるんです。『なんか変だなぁ』って思っていたら、(同時に)試合でもスタメン出場がなくなった。『これはもしかすると(自分は)アテネに行けないかも』って思いました」

 アテネ五輪のメンバー発表の日、鈴木は所属する浦和レッズのスタッフ、選手らとランチに出かけた。その際、不安が募り、注文したパスタがなかなか喉を通らなかった。

 クラブハウスに戻って程なくすると、田中マルクス闘莉王と田中達也だけが会見に呼ばれた。鈴木はアテネ五輪のメンバーから漏れたのである。

「ほんと、悔しかったですね。アテネ五輪に行けないことが、すごく恥ずかしかった。自分は絶対的な選手じゃなくて、19番目の選手だった……」

 涙は出なかった。

 自分の代わりに入った選手とは、どう転んでも敵わない差があったからだ。

 選考メンバーには、複数のポジションをこなせる選手と、オーバーエイジ枠で小野伸二という絶対的な選手が名を連ねていた。

 鈴木がクラブハウスを出て、ひとりで駐車場に歩いていくと、後ろから馴染みの記者が追いかけてきた。鈴木が自動車のドアを開けて乗り込もうとしたら、その記者がそこで泣き崩れた。

「『泣きたいのはこっちだから』って思ったんですけどね(苦笑)。それから夜、母に電話で(落選を)報告した時、(母が)すごく励ましてくれたんですよ。明るい声だけど、泣いているのはわかって……。その時、そうやって応援してくれる人たちを悲しませて、『自分はなんて罪深いんだろう』って思った。こうなったのは、自分に実力がないからで、もっと力をつけて、(どんな監督にも)絶対に必要とされる選手になろうと思いました」

 どのチームでも、どんな指揮官にも、試合で起用される選手――そのためには、何が必要なのか。

 それが、アテネ五輪のメンバーから落選して以降、鈴木の大きなテーマになった。

 翻(ひるがえ)って、2004年アテネ五輪。日本は、初戦でパラグアイに3−4、2戦目もイタリアに2−3と敗れて、最終戦のガーナ戦に1−0と勝利したものの、グループ最下位に終わった。前回大会のシドニー五輪で日本が残したベスト8という結果を越えることはできなかった。

 しかしそのアテネ世代が、それから6年後の2010年南アフリカW杯において、真価を発揮した。松井大輔、大久保嘉人、阿部勇樹らが海外で経験を積み、さらに闘莉王、駒野友一、今野泰幸らも成長し、日本代表の中軸を担うようになっていたのだ。

 同代表は、初戦のカメルーン戦に勝って勢いに乗り、2002年大会以来となるベスト16入りという結果を残した。鈴木は、同じアテネ世代の面々がW杯で活躍する姿を見て、「もう”谷間の世代”とか言わせねぇぞ」と思ったという。

「僕はアテネ五輪には行けなかったけど、その代表チームがグループリーグを突破できなくて、『だから”谷間の世代”なんだよ』って言われたことが本当に悔しかった。

 でもその後、みんなクラブの”顔”としてプレーしていたし、南アフリカW杯でアテネ世代が中心となって戦って、結果を出した。『もう”谷間”じゃない。自分ら世代も結果を出しているだろ』って、胸を張って言えるようになりました。結構、時間がかかったけどね(苦笑)」

 実は、鈴木も南アフリカW杯出場を目標としていた。2006年ドイツW杯後、イビツァ・オシム監督が日本代表を率いて、鈴木も同代表チームに選出された。オシム監督が言う「水を運ぶ人」として、主力選手のひとりでもあった。

 だが、オシム監督が脳梗塞で倒れ、岡田武史監督がそのあとを受け継いだ。と同時に、鈴木自身も扁桃炎という病に見舞われた。それ以降、調子が戻らず、日本代表から離れていった。

「五輪も、W杯も出たかったですよ。2010年のW杯に出るというのは、高校1年生時に抱いた夢だったんです。それを目標にしてやってきたのに、出られなかった……。もっとも、W杯の場合、アテネ五輪の時のように(代表メンバーから)直前に外れるというのではなく、早い段階で(代表チームから)フェードアウトしていたんで、五輪ほどのショックはなかったですけどね」

 アテネ五輪、南アフリカW杯と、日の丸をつけて世界大会に出る夢は叶わなかった。それでも、鈴木が前を向いていけたのは、浦和レッズという帰る場所があったからだ。

「浦和レッズは、自分とって、いろんな意味で大きかったですね。サポーターに認めてもらう、サポーターが『こいつがいてよかった』と思われるような選手になろう――そう思って、努力し続けることができたので」

 鈴木は、2009年から浦和のキャプテンになった。それから3年間、キャプテンとしてチームをけん引していった。

 その他、松井、闘莉王、阿部、大久保、駒野、今野、石川直宏、山瀬功治、那須大亮、徳永悠平、茂庭照幸、森崎和幸、森崎浩司……同世代の選手も、各クラブの中心となって奮闘を続け、前田遼一、佐藤寿人、そして大久保がJリーグの得点王に輝くなど、「谷間の世代」と言わせない活躍を見せた。

「”黄金世代”は、日本サッカー界では”異常な世代”なんです。だって、これまで”黄金世代”を超えるような世代って、出てきていないじゃないですか。僕らは『谷間』って言われたけど、他の世代と同じですよ。”黄金世代”が『エベレスト世代』で、他は普通。

 でも結果的に、僕らの世代からも代表やクラブで活躍した選手がたくさん出たのはよかったな、と思っています。僕らの世代は、ジェットエンジンではなく、地道に上がっていく世代だったんです」

 鈴木は、2015年に引退。現役時代には、自らの夢を実現することはできなかった。しかし、浦和でサポーターの期待を背負って戦った時間は、非常に貴重な経験だった。

 今後は、そうした経験を生かして、サッカーに限らず、日本のアスリートたちを支援していくという。

「アスリートの腸が世界の健康を変える――そんなチャレンジをしていく」

 鈴木の次なる夢である。

(おわり)

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