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アーカイブが繋げる未来 『わたしは光をにぎっている』が映す、失われつつある「東京」

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2019年11月15日 10:01  リアルサウンド

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リアルサウンド

写真『わたしは光をにぎっている』(c)2019 WIT STUDIO/Tokyo New Cinema
『わたしは光をにぎっている』(c)2019 WIT STUDIO/Tokyo New Cinema

 山村暮鳥の「自分は光をにぎつている」(詩集『梢の巣にて』)という詩から引用されたタイトルを背負った、中川龍太郎監督の最新作『わたしは光をにぎっている』は、上京してきた20歳の主人公の視点から移り変わりゆく街並みを記録する映画であると同時に、現在数多いる若手俳優の一角として輝きを放つ松本穂香という女優が、次のステップへと進もうとしている今この一瞬を記録した映画である。2019年だけでも本作を含めて3本の主演映画が公開され、その一方で完全に端役に徹した映画も3本公開されるという不思議なフィルモグラフィを持つ松本にとって、この映画は間違いなく代表作として語り継がれる作品になることだろう。


参考:ほか場面写真はこちらから


 物語は、長野県の野尻湖近くで民宿を営む祖母と暮らす主人公の宮川澪が、祖母の入院と同時に民宿をたたみ、東京の下町・立石にひとりで上京してくるところから始まる。彼女は父親の友人である三沢が経営する銭湯・伸光湯に居候しながら、慣れない都会で仕事を探し始める。しかし口数の少なく不器用な性分もあって、やっと見つけたスーパーの仕事もすぐに辞めてしまう。そして、祖母の言葉に諭されるようにして伸光湯で働くようになった澪は、近所の人々と交流を持つようになるのだが、やがて区画整理によって伸光湯がなくなることを知らされることに。


 都内では近年、もう来年に迫った東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会と、その後の国際的な都市としての発展を目論んだ再開発が極めて急速に進められている。都心部では商業施設やオフィスビルなどの超高層ビルが次から次へと建てられ、いわゆる下町と呼ばれるエリアではタワーマンションの建設が相次ぐ。いずれにしても街全体の景観がガラリと生まれ変わり、それまで築かれてきたその街の歴史は紛れもない“過去”のものとされ、やがて忘れ去られてしまうことだろう。本作の舞台でもある葛飾区の京成立石駅周辺も同様で、線路を挟んだ北側と南側に合わせて3つの都市計画が、今まさに進められている最中なのである。


 中川監督は自身が育った川崎市の登戸周辺の再開発によって、慣れ親しんだ景色が跡形もなく消えてしまったことをきっかけに、本作を着想したのだという。今でこそ“映画”というコンテンツは物語という一種のスペクタクルを享受することをメインとして機能しているが、その根源を辿っていけば、ある時代・ある場所の情景を記録するための装置として生まれたものに他ならない。それこそオリンピック然り、象徴的なイベントごとや事件、人々の言葉を記録するドキュメンタリー映画もあれば、失われようとしていく人々の暮らしなどの文化を映したロバート・フラハティのような記録映画も数多く存在してきた。


 そしてもちろん、本作のような劇映画でもそれは同じだ。その時にしか観ることができない演者の輝きとロケーションはしっかりと焼き付けられる。おそらく数年と待たずして、この映画に登場する立石駅前の雑多な街並みは見ることができなくなる。それは街に限った話ではない。劇中の最も重要な場所として登場する銭湯という空間は、都内ではここ数年で半減し、いま現在も少しずつ減り続けている。他にも個人経営の民宿や食品スーパー、澪が東京で知り合う自主映画を撮っている青年・銀次の誘いで足を踏み入れる映画館の映写室という場所も映画のデジタル化が進むにつれて減りつつあり、同じシーンで銀次から手渡されるフィルムカメラについては言わずもがなであろう。失われゆく街の景色と、失われゆく文化の両方が、この映画には確実に記録されたのだ。


 また終盤には、立石の街を生きる人々の姿が印象的に映し出されていく。一般的な劇映画に見られるような、クライマックスらしいクライマックス、物語的な起伏が本作には存在しない。それは、これから先も世界の至る所で街が生まれ変わるときに同じような物語が繰り返されるのだという普遍性を暗示し、それと同時に純粋に人と街が生きたことを記録したいという作り手の願いを感じさせるものがある。しかも、映し出される人々は皆希望に満ちた表情をしている。慣れ親しんだ空間が失われ、変わっていくという寂しさを繰り返しながら生きることを、この映画は一方的に批判せずに、前向きに捉えようとしているのではないだろうか。


 例えば銭湯のロケーションに使われているのは、東京都清瀬市の埼玉県との県境に程近くにある場所。ここから少し歩けばたどり着く東所沢駅の周辺には、まもなくポップカルチャーの一大拠点と銘打たれた再開発施設が誕生する。また映画館のシーンで使われているシネマジャック&ベティのある横浜の黄金町周辺は、戦後に生まれた違法風俗店の名残が多く残された場所だったが、この数年でアートを用いて街全体が活性化し、すっかり数年前とイメージが変わった街でもある。いずれも“変化する”ことを前向きに捉えるような場所を撮影地に選んだという点は本作の何よりも見逃せない部分であり、中川龍太郎という映画監督が懐古主義に陥らずとも愛すべき過去を愛し、目指すべき未来を目指せる作り手であることの何よりの証明なのではないだろうか。 (文=久保田和馬)


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