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「七五三詣」なぜ7歳までしか祝わない?

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2019年11月16日 07:00  AERA dot.

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写真※写真はイメージです
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 この季節、どの地域の神社仏閣を訪れても「七五三詣」の幟(のぼり)やポスターを目にすることになる。お子さんがおいでの方に七五三の意味の説明は不要だろうが、簡単に言えば「3・5・7歳の子どものすこやかな成長を祈願してお参りをする」ということである。

 それでは、なぜこの季節なのか、なぜ「3・5・7歳」の子に限るのかはご存じだろうか?

●江戸の文化が全国へと

 答えから言えば、始まりは江戸時代、徳川五代将軍・綱吉の時代に起こった行事である。ということは、江戸の風習であり、これが全国へと広まったのはかなり後の時代になる。関西には「十三詣(まい)り」というもっと古くからの慣習があるし、七五三の行事のひとつとして組み込まれながらも残っている各地方独特の風習もあることから考えても、「七五三詣」は江戸発祥であったが故に全国へ広まった慣習と言えるだろう。

●すべてはわが子の成長を祈念する親心

「七五三詣」を厳密に言えば、おもに数え年3歳の男児と女児、5歳の男児、7歳の女児が対象の行事で、それぞれ「髪置きの儀」「袴着(はかまぎ)の儀」「帯解きの儀」と呼ばれていた。「髪置きの儀」とは、江戸時代には3歳までは髪の毛を剃る習慣があったが、これを終わりにする意味を持つ。「袴着の儀」は男児が「袴」を着る年に達したこと、「帯解きの儀」は女児が着物の付けひもをやめて大人に近い幅広の帯を締める年に達したことをそれぞれ祝う意味が込められている。

 これは、古来、多くの子どもが疫病などに罹患し、7歳までに命を落とすことが珍しくなかった時代背景に大きく由来している。7歳を過ぎれば、親はまずひと安心したのである。

●始まりは五代将軍・綱吉の長男

「七五三詣」は、綱吉の長男・徳松が3歳の「髪置きの儀式」を行うにあたり、吉日を探していたところ二十八宿(にじゅうはっしゅく)の鬼宿日(きしゅくにち)が11月15日であったことから、この日を祝いの儀式にしたことに由来する、という説が有力である。というのも「髪置き」「袴着」「帯解き」の風習は、早いものでは平安時代から男女の区別なしに吉日に行われていたものだが、江戸中期以降、これらをまとめて11月15日に行う習慣が広まっているからである。

 さて、上記の聞きなれないいくつかの言葉を説明しておこう。「二十八宿」とは、東西南北の天球を28に分ける、天文学や占星術などで用いられた考え方で、現在でも似たような形の占いが残っている。また「鬼宿日」とは、婚礼以外はすべて大吉の日と言われていて、鬼が宿に居て出歩かない日という意味で用いられている。この日が大吉日である理由は、インドではお釈迦さまの誕生日は陰暦の4月15日となっていて、毎月15日が鬼宿日として定着したから。つまりお釈迦さまの誕生日である15日は鬼すらも出歩かない大開運日という意味となる。

●「七つ前は神のうち」の勘違い

 ちなみに「七つ前は神のうち」というフレーズがあるが、これは明治から昭和にかけて活躍した民俗学者・柳田国男氏の言葉らしい。いつの間にか、これが古代からの観念のように語られているが、実際は古来ある「服忌(ぶっき)」における慣習によるところが大きい。実は上記の徳松は5歳で早世した。没した翌年、綱吉は服忌令を定めている。例えば、父母が亡くなった時は忌が50日、服が13カ月と定められ、50日間は出仕(勤めに出ること)ができず、13カ月は祭り事や神事などには参加できないというルールを明文化したのである。古代からあったこの服忌の考え方を、武家社会ではじめて法令としてお上が定めたのである。

 服忌令では、服喪の範囲と期間が定められ、慣例であった7歳未満と老人(時代によってさまざまな年齢に)を除くことも制定された。成年に比べて死が身近であった幼児と老人を含むすべての人に上記ルールが当てはめられた場合、人は常に服喪期間となる可能性があり、それを避けるための知恵である。これが現在では「七つになる前の子が神に召されても仕方がない」という意味へと転じてしまったようだ。

 徳松が亡くなったことで、綱吉が仕事を控えなくてはならないことになっては一大事である。なにしろ「生類憐れみの令」の生みの親だ。明文化した理由も、長男の服忌を慣習だけで無視することが憚られたからかもしれない。

 かくして、子どもの厄よけと成長祝いの行事は全国的に広まっていった。もっとも七五三という名前で呼ばれるようになったのは明治時代で、江戸時代には「祝児詣(いわいごもうで)」などと呼ばれていたようだ。これに目をつけた商売人たちが、寺社の境内近くで飴を売り始めた。浅草の飴売り七兵衛が紙袋に「千年飴」と記して売り始めたのが最初だとか、大阪の商人が江戸で売ったのが始まりだとか、千歳飴の始まりは神田明神だとか各種の話がある。いずれも、めでたい色を合わせた紅白飴で、外袋に鶴亀、松竹梅の縁起物が描かれ、やがては寺社からの縁起物として扱われるようになった。今では、千歳飴は食品売り場の季節グッズに、また神社仏閣では個性豊かな「七五三詣」の授与品が用意されるようになっている。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

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