ホーム > mixiニュース > スポーツ > 野球 > 落合「オレ流」は新人時代から

落合博満は新人時代から「オレ流」全開だった!

75

2019年11月19日 16:00  AERA dot.

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

AERA dot.

写真新人時代から「オレ流」を貫いた落合博満氏(C)朝日新聞社
新人時代から「オレ流」を貫いた落合博満氏(C)朝日新聞社
 落合博満といえば、即座に“オレ流”と返ってくるほど野球ファンにはおなじみの代名詞だが、そのルーツは「8回退部した」という伝説のある高校(秋田工)時代まで遡ることができる。そして、ロッテのルーキー時代も当然オレ流だった。

【写真】平成で最もカッコいいバッティングフォームは、この選手!

 社会人の東芝府中で頭角を現した落合は、1978年に全日本の3番として世界選手権に出場するなど、24歳の遅咲きながら、アマ球界屈指の強打者として注目され、同年のドラフトでロッテに3位指名された。担当の城之内邦雄スカウトは、巨人時代に“エースのジョー”と呼ばれた名投手で、変化球に強く、外角球を右中間に飛ばす落合が「投手にとって嫌なバッター」だったことが決め手になったという。

 落合も無口で朴訥な城之内に好感を抱き、「ワシもロッテも賭けに乗ったんだね。だから、ダメでもともとと気軽に思って入ったんだよね。野球がダメでもこの世の中、いろんな職業があるんだもの。何やってもメシくらいは食べていけるからね」(岡邦行著『プロ野球これがドラフトだ!』 三一書房)と、これまたオレ流らしい動機のプロ入りだった。 

 そして、結果的に自由度の高い球団・ロッテに入ったことが幸いする。実は、落合は77年のドラフトで阪神が獲得を約束しながら指名漏れ。翌78年も巨人が指名するはずだったのに、江川卓の“空白の一日”事件により、ドラフトをボイコットした結果、指名できなくなったエピソードも知られている。もし、阪神や巨人に入団していたら、アッパースイングのフォームを無理矢理矯正され、おそらく、その後の落合はなかっただろう。

 ロッテでも入団早々、山内一弘監督から「お前のフォームじゃ、インコースが打てないから、プロは無理だなあ」と矯正を命じられたが、「やってもみないうちから、そんなことわかるものか。どうせダメなら、自分の好きなようにやっていこう。生まれつきの打法が、急に直るもんじゃないから、あくまで自分流でいこう」(自著『なんと言われようとオレ流さ』 講談社)と、あくまでオレ流を貫く。

 通算2271安打、396本塁打を記録した“打撃の職人”で、“教え魔”の異名もとる山内監督の言うことに耳を貸さないのだから、ルーキーイヤーは当然のように2軍スタート。最初は打球が全然前に飛ばず、ファームの試合でも5打席連続三振を喫するなど、“プロの壁”にぶち当たった。だが、オレ流を変えるつもりは毛頭なかった。

 そんな苦闘の日々にあって、4月17日のイースタントーナメント1回戦、巨人戦(後楽園)では、打順も5番から4番に昇格。プロ初登板初先発の江川から初回に中越え先制タイムリー二塁打、3回に左前安打と2打数2安打1打点を記録。江川降板後にも2安打を放ち、6打数4安打2打点の大当たりだった。

“江川を痛打した男”は、5月29日の南海戦(川崎)で代打として1軍デビューを果たし、同31日の南海戦でプロ初本塁打を記録。7月21日のジュニアオールスター(横浜)でも全イ軍の4番として4打数3安打1打点をマークし、打撃賞を獲得したが、1年目の1軍成績は打率2割3分4厘、2本塁打に終わった。

 翌80年も開幕直前のオープン戦で左足を負傷し、2軍スタートとなった落合は、26歳という年齢もあり、モチベーションが下がりかけたが、5月14日の大洋戦(等々力第二)が2年目の飛躍への大きな転機となる。

 大洋の先発は、南海時代にリリーフエースとして活躍した佐藤道郎。右肩を痛め、2軍で調整中ながら、切れのある球で格の違いを見せつけ、ロッテ打線を6回まで3安打1失点に抑えたが、唯一の失点が、2回に落合に浴びた一発だった。現役最終年で力が衰えていたとはいえ、「一流の投手」から本塁打を打つことができた落合は「佐藤さんのような投手と毎試合対戦できる1軍に上がりたい」と前向きな気持ちを取り戻す。

 この本塁打こそが「落合博満の原点」となり、同31日の巨人戦(会津若松)から6月7日の日本ハム戦(等々力第二)までイースタン新の5試合連続本塁打を記録。7月の後半戦から1軍に定着した落合は、打率2割8分3厘、15本塁打の成績を残した。

 そして、翌81年には、打率3割2分6厘で初の首位打者を手にする。プロ3年目の快挙は、「打撃の先生」との出会いがもたらした結果でもあった。

 同年のキャンプの特打ちで、たまたま控え捕手の土肥健二と隣り合わせた落合は、腕のしなりを利用し、バットをこねることなく、素直に送り出す一連の動作を見て、「いい打ち方だな」と魅せられた。最初は真似ることから始め、自分のものに練り上げたこの“神主打法”が後に3度の三冠王を生む原型となった。

 人から教わることを嫌い、山内監督の指導をも拒んだ落合が、唯一学んだ“師匠”が、実働14年で497安打、規定打席に達したことが一度もない土肥だったのは意外な事実だが、落合は言う。「名のある選手だから見るところがある。名のない選手だから見るところがない、というもんじゃないんだ」(『豪打列伝2』 文春文庫)。オレ流ならではの名言である。(文・久保田龍雄)

●プロフィール
久保田龍雄
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2018」上・下巻(野球文明叢書)。




このニュースに関するつぶやき

  • 一流打者は、デッドボールを受けた時にわかる。 二流打者は、激怒しピッチャーに襲いかかる奴もいれば睨んだり暴言を吐く。 一流打者は、激怒せず平然と一塁に向かう。 清原はよー激怒してた。イチローは平然と一塁
    • イイネ!0
    • コメント 0件
  • 教え魔の山内監督からの教えを拒んだのは本当らしいけど、それで関係が険悪になる事は無く、現役を続けて行くにつれて山内さんの教えが体に染みついているのを感じた、落合さんは講演会で感謝していた。。
    • イイネ!16
    • コメント 0件

つぶやき一覧へ(45件)

あなたにおすすめ

ランキングスポーツ

前日のランキングへ

ニュース設定