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ドイツW杯、稲本潤一は選手として我慢すべき一線を越えてしまった

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2019年12月07日 06:11  webスポルティーバ

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私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第11回
なぜ「史上最強」チームは崩壊したのか〜稲本潤一(2)

 2006年ドイツW杯初戦、日本はオーストラリアに1−3と逆転負けを喫した。その後、クロアチア、ブラジルという強豪との対戦を残していることを考えれば、勝たなければいけない相手だったが、その相手から勝ち点3を奪えなかったことで、チーム内には大きな衝撃が走り、選手たちの内面は闇に覆われた。

「(初戦敗戦後の)翌日の朝食とか、みんな、めっちゃ暗かった。初戦で厳しい逆転負けを食らったんで、仕方がないんだけど。自分は『次、まだ取り返せる』と思っていたけど、残りの対戦相手を考えると、『結構キツいなぁ』とも思った」

 稲本潤一は、当時のことをそう振り返った。

 事実、その時のチームには重苦しい空気が流れていた。勝てなかったレギュラー組と、サブ組とで温度差が生じ、両者の間にはすきま風が吹き始めていた。

 選手たちが練習に向かうと、スタンドには多くのファンが駆けつけていた。ジーコ監督は、練習公開を基本としているので、その日も例外ではなかった。

 練習は、静寂ムードのなか、最初のうちは選手たちの声だけが響いていた。しかし、シュート練習が始まって、しばらくすると、スタンドからピッチに向かって罵声が飛んできた。

「何、外してんだよ!」「ちゃんと決めろよ!」

 稲本は、そうした野次やブーイングを聞いて、面食らったという。

「正直あれは、そんなに簡単に入るようなシュート練習じゃないんですよ。自分らは集中してやりたかったけど、そういう声が飛んでくると、やっぱりプレッシャーになる。W杯は、普通の親善試合や大会とは違う。初戦に負けたからこそ、ポジティブな応援を期待していた自分がいたから……」

 ファンにとってみれば、選手たちの奮起を促すためのゲキだったかもしれない。だが、その声に選手たちは敏感に反応し、さらに追い込まれていった。それほど初戦のショックが大きく、メンタル的にも回復できていなかったのだ。

 そうした状態のなか、2戦目のクロアチア戦を想定した紅白戦も行なわれた。それは、とても”練習”とは思えない、激しい戦いになった。

 選手同士が激しく言い争って、他の選手たちが止めに入るシーンも見られた。サブ組からは「レギュラー組をしっかりサポートする」といった意識が徐々に薄まり、そこには対抗意識すらあったかもしれない。

「紅白戦では、『レギュラー陣を食ったろうか』くらいの勢いと厳しさでやっていた。こっち(サブ組)は本気でやっていたんで、もうバチバチの戦いやったね。(サブ組としては)やっぱり試合に出たいという気持ちが強かったし、紅白戦でこっちがよければ、(試合に出る)チャンスがあるんじゃないかって思っていたんで」(稲本)

 選手としては、当然の心理だろう。

 W杯に出場し、試合に出たくない選手などいない。また、稲本らがプレーしていた欧州では、監督へのアピールとして、戦う気持ちを前面に出してプレーするのは当然のこと。つまり、サブ組は当たり前のことをしていただけ、とも言える。

 だがこの時は、次戦に向けて、チーム一丸となって盛り上げていかなければいけない状況でもあった。

「やっぱり(試合に)負けると、いろんな声が出るんですよ。(当時は)紅白戦でも、サブの自分らのほうが勝っていたから、『僕らが(試合に)出たほうが勝てるんちゃうか』と思っていた。初戦で敗れて、その思いを強くした選手もいたんじゃないかな。

 自分も含めてみんな、チームを第一に考える意識が足りていなかったかもしれない。それは、日本代表の選手としては恥ずかしいことやけど、当時は若かったんで、(みんな)自分のことばかり考えていた。

 自己犠牲の気持ちを持って『チームを立て直していこう』とする選手、それから、率先して『(選手みんなが)まとまってやろうや』と言う選手も、レギュラー組にも、サブ組にもおらんかった。そもそもこのチームは、そういう人選をしていなかったからね」

 決勝トーナメント進出を果たした2002年日韓共催W杯では、中山雅史や秋田豊らベテランが率先してチームを盛り上げ、引っ張っていく姿を見せた。フィリップ・トルシエ監督は、日本にはそういう人材が必要なことをわかっていた。

 だが、ジーコ監督はその成功例を踏襲しなかった。海外組を中心に、能力が高い選手を招集してチーム編成をした。才能ある若手と中堅の実力派が融合し、タレントも豊富だったゆえ、ファンやメディアの期待も大きかったが、チームの中心である中田英寿らをイジって場を盛り上げる、中山のような存在がこのチームには欠けていた。

「そういう存在が、サブ組にいないとダメなんですよ。初戦を失ったあと、『もう1回、盛り上げていこう』とか、試合に出ている選手が言っても、どうしてもサブ組の選手には響かない。(ドイツW杯の時も)ゴンさん(中山)のような存在がいて、(チームを)ビシッと締めてくれたら、『また次に向けてやろうぜ』って、チームがひとつになれたと思う」

 そう赤裸々に語る稲本も、当時は相当苦しんでいたのだろう。

 日韓W杯では、ロシア戦で日本を勝利に導く歴史的ゴールを決めて、一躍時の人となった。その活躍でフラムへの移籍を勝ち取り、その年のバロンドールにもノミネートされた。ドイツW杯にも出場し、さらなる飛躍のチャンスをつかみたい――それは、稲本に限らず、選手なら誰しも考えることだ。

 しかしこの時、稲本は選手としてもっと我慢すべき点があったと考えている。

「当時は自分のことばっかり考えていた。それは、やっぱり試合に出たら『自分のほうが絶対にやれる』っていう自信があったからやと思う。(当時)そういう選手ばっかりベンチに座っていた」

 稲本は、1999年ワールドユース(現U−20W杯)で”サブ組”を経験している。同大会に出場したU−20日本代表は決勝まで駒を進めたが、稲本は1試合もスタメン出場がなかった。プレーした3試合はすべて途中出場。準決勝のウルグアイ戦では、途中出場してわずか11分で交代、という憂き目にも合っている。

 それでも、稲本は不平不満を漏らすことなく、サブとしてチームを後方支援していた。世界大会を勝ち上がるために、サブが果たすべき役割の重要性を肌で感じることができた。その経験がありながら、ドイツW杯ではなぜ、稲本は「自分が」という気持ちを抑えることができなかったのだろうか。

「ワールドユースの時は、ケガをしていたという現実があったから、サブ組でもやれたと思うんです。他のサブのメンバーも(チームを)盛り上げてくれていたし、そういうなかで、一緒になって『チームを支えようや』という気持ちになれた。

 でも、ドイツW杯の時は、万全でプレーできる状態やったし、『主力として戦えるもんや』と思っていた。その自信もあった。それに、ワールドユースでは同年齢の選手たちばかりで、お互いの考えがよくわかっていたけど、A代表ではいろんな世代の選手がいて、みんな、それぞれで(違った)考え方がある。ワールドユースのようなノリで、なかなかチームはひとつにならへんかった」

 ジーコ監督はチームの変化に気づいていたが、積極的にメスを入れることはなかった。しかも、クロアチア戦の直前、これまで継続して採用してきた3バックから、いきなり4バックに変更した。

 ほぼぶっつけ本番となるシステム変更に、選手たちは戸惑いを隠せなかった。チームはギスギスした雰囲気のまま、試合のホイッスルを迎えようとしていた。

(つづく)

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