『本気のしるし』は“男女の関係”をどう描いた? 深田晃司監督が目指したドラマの脱ステレオタイプ

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2019年12月09日 10:01  リアルサウンド

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『本気のしるし』深田晃司監督

 メ〜テレ制作によるドラマ『本気のしるし』。東海3県(メ〜テレ、毎週月曜深夜0時54分〜)とテレビ神奈川(毎週水曜よる11時〜)のみと、地上波での放送は限定されているが、TVer、GYAO!では1話からの一挙配信もスタートし、じわじわと話題を呼んでいる。


 本作を手がけたのは、映画『淵に立つ』で第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞を受賞し、今年7月には新作映画『よこがお』が公開された映画監督・深田晃司。オーディションで選ばれた森崎ウィンと土村芳演じる辻一路と葉山浮世という男女の偶然の出会いから、ゆるやかに日常が壊され、転落していく様子が描かれていく。


 深田監督にとって初のドラマとなる本作。2000〜2002年にかけて青年コミック誌『ビッグコミックスペリオール』(小学館)で連載されていた原作に20歳の頃に出会い、当時から映像化を熱望していたという。「恋愛サスペンス」と言いながらも一筋縄ではいかない男女の関係が描かれた本作にどう取り組んでいったのか。じっくりと話を聞いた。


■「青年誌のヒロインの典型である浮世が現実にいたら……」


ーー深田監督は原作の『本気のしるし』を読んでいて今回念願の映像化だったと聞きました。原作のどんなところに惹かれたのでしょうか?


深田晃司(以下、深田):『夢かもしんない』や『りびんぐゲーム』など、昔から星里もちる先生の漫画は読んでいました。とにかくストーリーテリングが面白くて、いわゆるラブコメではあるのですが物語構成がかっちり作られているんです。それで「星里もちる先生の新刊」として2000年頃に『本気のしるし』を読んだ時に、ラブコメのラブの部分は残っているけれどコメディの部分が全くないところが引っかかって。『本気のしるし』というタイトルの凄みと相まって、当時夢中で読んでいました。


ーー確かに本作をジャンル分けするなら、「ラブコメディ」ではなく「ラブサスペンス」になりますね。


深田:最初に惹かれたのは、これからどうなるんだろうというヒリヒリするようなサスペンス部分でした。当時から映像化するとしたら、映画だと時間的に原作を損なうことになるし、転がっていく要素がすごく連続ドラマっぽいなと思っていましたね。当時はそういうストーリー構成に興味があったのですが、今思うと人間の描き方が一面的ではなく、日常生活をそつなく送りながらどこかで闇みたいなものを抱えている人たちや、浮世という女性の面白さに惹かれていたのかもしれません。星里先生の作品の中で僕が『本気のしるし』に異様さを感じたのは、星里先生にとって自己批評的、あるいは自己否定的とさえ思えたからだと思います。浮世はいわば男好きのするような、男性にとって都合のいい危険な女性ですよね。ドキッとさせるような隙のある発言をして、男性はどんどん引き込まれていってしまう。この女性像はある意味青年誌のヒロインの典型でもあります。青年誌のヒロインは、基本的には男性の恋愛のために存在するキャラクターであり、ある種の娯楽として消費されていく。でも、そういった女性が現実にいると、やっぱりそんなに朗らかなものではないし、その女性自身も周りも傷ついていく。青年誌で描かれているジェンダー観は、現実とは齟齬があるし、非常に歪んでいます。星里先生がどこまで意識的だったのかはわかりませんが、たとえば藤子・F・不二雄先生が大人向けのSF短編になると、子ども向けに描いている自身の世界観を徹底的に否定していくような内容を描いていたのと近いのかもしれません。


ーー女性をどう描くかというのは、とても今日的なテーマですよね。


深田:当時から映像化したいといろんなところで言いふらしていたんです。それで2016年に戸山剛さんというプロデューサーが原作を読んでくれて企画が通って、三谷伸太朗さんが脚本を担当してくれることになりました。19年も前の原作ですし、例えば『ONE PIECE』のような老若男女が知っている作品でもないので、今回こうやってやりたいと思ってくれたのは、メ〜テレさん的にも、今の時代に響く内容だというテレビ局としての直感があったんじゃないかなと思っています。


ーー深田監督が恋愛に主軸をおいた作品は作るのは、今作が初めてでは?


深田:そうですね。『ほとりの朔子』や『海を駆ける』も若者たちの恋愛事情みたいなものは描いていますが、『本気のしるし』はある意味「恋愛しかない」とも言える作品です。ただ、恋愛と言っても、それはコミュニケーションの延長線上にあるものだと思っているので何か特別意識したことはありません。コミュニケーションの行き違いや齟齬を描くという点ではこれまでの作品も基本的には同じです。


■「オーディションで重視したのは“自分の言葉で話してるか”」


ーー一見すると浮世は「魔性の女」的、辻は「クズ男」的な言動をとるんですが、そう一括りもできないキャラクターで。これまでドラマで描かれてきたようなある種ステレオタイプな男性像・女性像、あるいは男女の関係性みたいなものにはあてはまらない面白さがありました。


深田:そこは原作のすごさで、それをドラマでもできたのは俳優のみなさんの力が大きいと思います。実写のドラマや映像において、どこでステレオタイプが作られてしまうかというと、やはり土台となる脚本と、それから、俳優の演技がある種の型にはまろうとしてしまうことがすごく多いんです。


ーー今回、森崎ウィンさんも土村芳さんもオーディションで選ばれているんですよね。


深田:はい。もちろんベースとしては単純に芝居がうまいというのもあるんですが、それに加えて脚本を解釈する力や、それを言葉にする時にある種のクリシェではなくて自分の言葉で話してるか、という部分を重視しています。辻は一見すると清潔感のある爽やかな外見でありながら、その奥に闇を抱えているという両方を体現できる人がいいなと思い、森崎さんにお願いしました。また、浮世に関しては、キャリアのある方や十分に演技の巧い人もたくさんオーディションに来てくれたのですが、当初の予想通り難航しましたね。オーディションではいくつかのシーンをやってもらって、特に重要だったのは第3話のファミレスのシーン。辻に向かって「私、辻さんに油断してるのかな」というすごく隙のある発言をする場面を演じてもらいました。ビールを飲んで酔っ払っているというのも含め、どうしても多くの方は恋愛の駆け引きみたいに見えてしまったんです。そこを土村さんはすごくナチュラルに、自然とそういう発言が出てきたように演じてくれて、それが決め手になりましたね。


■「ドラマを見ていると、すごく古い芝居だと思うことが多い」


ーー浮世も辻も、本心がどこにあるのか全然わからなくて、だからこそ引きこまれてしまいます。


深田:そもそも、僕は普通に生きていても、人が何を考えてるかってわからないと思うんです。隣にいる夫婦、家族、友達だって、笑っているから今嬉しいんだろうなと想像することはできても、その心の奥底で何を考えてるかわからないというのが、僕にとっての世界の認識なんです。なのでドラマであっても映画であっても、役者にはそういうふうにカメラの前に立っていてほしいし、それができる人を選んだつもりです。自分としてはそれこそ「自然主義的」に描いていると思っています。


ーーモノローグや劇伴を使わなかったり、また長回しやロングショットを多用したりと、映画的な手法をたくさん取り入れていますよね。


深田:それも特に意識したわけではなく、僕にとってはいつも通りにやっているところです。


ーー深田監督の作品として見ていると何も違和感はないのですが、ドラマというフォーマットで見ていると少し異様さは感じました。通常のドラマだともっとわかりやすく進んでいくことが多いので。


深田:自分はそんなにドラマを見ないのですが、たまに見るとやっぱり結構厳しい、全部がそうではないですが、自分にとっては耐えがたいと感じるものも多いです。それに対し、「ドラマだから別にいいじゃん」というふうには言いたくない。映画よりドラマの方が圧倒的に見ている人が多く影響力が強いからこそ、「人をどう描くか」は重要だと僕は考えます。ドラマの演技を見ていると、すごく古い芝居だと思うことが多いんですね。よく「19世紀以前の演技だ」という言い方をしていて、『本気のしるし』の撮影前にも俳優たちに同じ話を共有しました。いわゆる昔のハリウッド映画などでも、良くも悪くもわかりやすい演技が多いんです。その人が今何を考えてるのか、どういった社会的立場なのかということを、演技で身体化して説明している。でも、現実に生きている人間が、自分はこういう性格だからこう喋ろうとか、こういう感情を持っているからこう振る舞おうとすることはあまりないですよね。20世紀以後に無意識という概念とともに発見された考え方、人間観というのは、「自分の気持ちなんて自分にさえわかりもしない」という、自分自身の気持ちや性格をきちんとコントロールすることなんてできやしない、というものであると僕は思っています。そういった点で、ドラマにおける人間の描き方、捉え方、俳優の演じ方は非常に類型化されてしまっているし、一時代前の人間観につきあわされるような退屈さを感じます。そういったものが主流になってしまうと、映画作家としての自分としてはすごく困るし、自分の作風でも見たいと思ってくれる人を増やさなくてはいけない。だから今回ドラマを作るからといって、その典型にあわせるようなことはできないし、それは自分自身の世界観、人間観に嘘をつくことにもなってしまいます。


■「社会の中で生き抜くための擬態のようなもの」


ーー確かに浮世という女性は最初はいわゆる「魔性の女」的な存在で男性を翻弄していくのかと思っていたら、もっと複雑な状況にあって、だんだん男性たちに翻弄されている側の人に見えてきました。


深田:そこがまさに浮世の現代性ですよね。浮世は女性が男社会の中で持たざるを得ない両面を持っていると思います。ある種すごく古典的な女性像で、浮世は男性社会の中で受け身に生きざるを得ない。結婚したら家庭に入るとか、働くにしても長くは難しかったり、女性が社会的に責任のある立場にいるだけで目立ってしまい、どうしても受動的に生きざるを得ない。そう生きることを求められてしまう。と当時に、そういうところから外れて、周りを振り回すと途端に「魔性の女」や「ファム・ファタール」という形で特別視される。どちらも女性をどうカテゴライズするかという男性的な価値観ですよね。浮世は、その両方の側面を1人で体現している面白さがあると思っていて。原作にあるその要素を2019年にドラマ化するにあたって、より慎重にフォーカスしていく必要があると考えました。


ーー浮世は経済的に自立もしていなくて、弱い立場にある人だと感じました。さらにそこを周りの男性たちに消費されていくような構造になっていて。


深田:浮世は周りの男性との関係性の中で、無意識に男性を引き込むような発言を繰り返してその距離感を縮ませたり離したりしながら生きていくんです。彼女のコミュニケーションの取り方は、この社会の中で生き抜くための擬態のようなものなんじゃないかなと。そうやって生きてきた悲しさを浮世からは感じました。


ーー浮世の「私、男の人にいいって言われますから」という一言はそれを象徴していますね。


深田:浮世自身も戦略的にやっているわけではなく、そういうふうに発言したり振る舞うことで男社会の中でなんとか生きていけると無意識的に選んでしまっているんでしょうね。


■「断罪するのは、表現の役割ではない」


ーーその点でいうと、北村有起哉さん演じる脇田は浮世のために借金を肩代わりする辻に「下心じゃないのか」「見返りを求めてるんじゃないか」というふうに追及していて、辻と浮世の関係に強い関心を持っていますよね。脇田さんの役割についてはどう考えていますか?


深田:脇田さんは一番引いたポジションにいる人だと思っています。この日本における男女の格差や扱われ方の違いに気付いて、俯瞰的にこの物語を見ていて、ものすごいリアリストでもある。男女の関係を、恋や愛というような綺麗なことで装飾しようとしても結局その根っこにあるのはもっとドロッとした欲望、欲情や支配欲、所有欲なんじゃないかという部分を見透かしてしまっている人ではないかと。


ーー辻はそれに対して「お前らみたいに欲望にしたがって生きているわけじゃない」と対抗します。


深田:辻もそうは言うけど、それが本音であるかどうかは辻自身でもわからないで言ってるんだろうと思っています。脇田の方が特権的な立場から人間を俯瞰して批評的に話しているんだけど、実際に生きる人間というのは、みんな辻のようにその狭間で鬩ぎ合ってますよね。欲望だけではないし、そこに清らかな愛があると思いたいし、むしろ思い込んで生きているだけかもしれない。その鬩ぎ合いみたいなものを辻は体現しているんじゃないかなと。


ーー辻も、浮世を支配するような、あまり倫理的には褒められたものではない欲を向けているように見えるんですが、作品としてはそこを裁くようなスッキリ感があるわけでは決してないですよね。


深田:そうですね。辻の浮世との向き合い方も様々な解釈ができると思います。それまでの平凡な生活を変えてくれる刺激物としての浮世に惹かれているのかもしれないし、細川先輩(石橋けい)に言われたように自分を優位に立たせてくれる女性としての浮世に惹かれているのかもしれない。辻が峰内(忍成修吾)と浮世を奪い合うところでも、やっぱり2人の男性が自分にとって都合の良い女性を傍に置いておくために奪い合っているようにも見える。辻と浮世の関係は純愛のように手放しに肯定できるものではないと思います。ただ原作もそうですが、ドラマとしてもそれを否定するわけではなく、そういった色んなドロドロしたものも含んでいるのがそもそも私たちが生きることである、というふうにしたかったんです。それを断罪するのは、表現の役割ではないと僕は思っています。物語の中では辻は細川に「そのぐらい罰を受けなさい」とは言われるんだけど、作品としては辻に罰を与えたり、良し悪しの判断はしないというのが原作の面白さであって、自分自身の考えや映画作りとしても、そこは共感し合える部分でした。


■「不安感を残したまま終われれば」


ーー恋愛は道徳的なものやルールからは漏れてしまうものもありますし、もっと複雑に折り重なっているものなんだと感じました。


深田:「恋愛関係」と一言で言ったところで、そこにはものすごく複雑なレイヤーがあると思っています。ただ単純に男女が好意を持ち合って恋愛をするというだけではなくて、例えば社会的にはそういった男女は結婚して夫婦という規定された関係をとることが正しいと思われている。でも、やっぱりそんなに単純化できるものじゃないですよね。むしろ、男女が夫婦となって生きることが正しいという物語が描くこと自体が抑圧になるかもしれない。本来表現というのは、正しいとされることに対してむしろ疑っていかなければならないと思っています。『本気のしるし』の原作は、ものすごい揺さぶりをかけている作品だと思うんですね。だからこそドラマの方でも、辻と浮世の核にあるのは男女の関係だけど、そこに対してただ恋愛という言葉ではくくれない複雑なレイヤーを見せていくことができればいいなと思っています。


ーーどういう形で物語に幕を下ろすことになるのか気になりますが、最終回に向けて見どころを教えてください。


深田:普段の自分の映画作りもそうですが、映画で描く2時間、ドラマで描く10話の中で、その関係性や物語が綺麗に完結して終わってしまうのはすごく嘘くさいと思っています。人生でそんな瞬間ってないんですよね。絶対に死ぬまで何かが続いていってしまうし、今クライマックスが来ているような気持ちになっても、その後も時間はだらだらと続いていってしまう。『本気のしるし』の原作の方は見事に綺麗な終わり方をしたなと僕は感じましたが、ドラマ化するにあたって、この2人の関係が完全に円環が閉じるように完結してしまわないで、たまたまその時間が切り取られたにすぎず、この先にも続いていくかもしれない、どう変わっていくかわからないという不安感を残したまま終われればと思っています。(取材・文=若田悠希)


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