ホーム > mixiニュース > コラム > 太宰治が温泉宿で執筆するときの正装とは?

太宰治が温泉宿で執筆するときの正装とは?

2

2019年12月13日 16:30  AERA dot.

  • 限定公開( 2 )

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

AERA dot.

写真「漱石の間」には今もファンが訪れる/修善寺温泉「湯回廊 菊屋」
「漱石の間」には今もファンが訪れる/修善寺温泉「湯回廊 菊屋」
 寒さが日ごとに厳しくなり、温泉に行きたくなる季節が到来した。

 かつて文豪たちも温泉で様々な時を過ぎしている。生涯で100カ所を超える温泉旅館を旅した与謝野晶子や1年のほとんどを温泉宿で過ごしたこともある川端康成。志賀直哉は城崎温泉で名作「城の崎にて」を書き、斎藤茂吉や島崎藤村、田山花袋などは各地の温泉にゆかりの宿があるほど温泉を旅した。

【この記事の写真の続きはこちら】

 発売中の 『文豪が泊まった温泉宿50』(週刊朝日編集部)では、50人の文豪たちと温泉宿の奇妙なかかわりが書かれている。本書の中から、文豪と温泉宿の関係がよくわかるエピソードをクイズ形式で紹介する。

Q1.漱石が修善寺「菊屋」の梅の間を愛した理由とは?

 子供時代の天然痘に始まり、肺結核、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病など、多くの病気にかかった夏目漱石は明治43年6月、胃潰瘍のため入院。退院後の8月6日、医師の勧めに従い療養生活に入る。選んだのは修善寺温泉の名宿「湯回廊 菊屋」だった。宿泊したのは2階の「梅の間」。現在も「漱石の間」として利用されている、漱石お気に入りの部屋だ。

 だが、療養3日目には床に伏し、胃痙攣や胆汁の嘔吐を繰り返すなど、容体は悪化の一途をたどる。8月24日夜には800gの大吐血をして、脳貧血から意識を失うという危険な状態に陥った。駆け付けた医師たちが十数本のカンフル注射をして一命をとりとめた。これが文学史にも残る「修善寺の大患」である。

 東京への帰還が許されたのは10月。約2カ月の闘病だった。一度は死にかけ、2カ月の時を過ごした「梅の間」について、漱石は「寝ていると頭も足も山なり。好い部屋ならん」と書いている。頭側と足側の窓、どちらにも山が見えるこの部屋を、大文豪はたいそう気に入っていた。

【正解】2方向に山が見える景色が気に入ったから

 Q2.絵も嗜んだ武者小路実篤が絶対に描かなかった素材は何?

 志賀直哉とともに白樺派文学を牽引した武者小路実篤は、時に立つこともままならないほど重い神経痛に悩んでいた。あちこちの温泉に通ったが症状は改善しなかった。そんなときに紹介されたのが伊豆長岡温泉の「いづみ荘」だ。昭和元年ごろ訪れると、病状は見る見るうちに回復。以後二十数年間、実篤はいづみ荘をひいきにし、何度も長期滞在した。

 この宿で書いた作品も多い。『棘まで美し』や、菊池寛賞を受賞した名作『愛と死』などの小説や、多数の絵を描いている。実篤の絵は、「仲良きことは美しき哉」など、平易な口語表現の短詩に果物などの静物画が添えられる作品が多く、愛好家は多い。実は実篤が初めて絵を描いたのが、このいづみ荘である可能性が高い。宿の大女将によると実篤はある日、柿か野菜の絵を描き「四十何歳の男、初めて絵を描く」と記していたことを覚えている。

 宿泊中、毎日のように画作に熱中し、近所で採れた野菜や果物の絵を描いた実篤だが、大女将によると、唯一描かなかった素材がある。匂いももちろん、見ることさえ嫌がったというトマトだ。いづみ荘内にある武者小路実篤文学館には、さまざまな実篤作品が残されているが、そこには確かにトマトを描いたものはない。

【正解】トマト

Q3.執筆をするときの太宰治の「正装」とは?

 太宰治は昭和14年に井伏鱒二の媒酌で結婚し、新居として甲府に家賃6円50銭の小さな家を借りた。暑い甲府の夏、汗疹に悩んだ妻が治療に通ったのが近所の湯村温泉だった。太宰も夫人とともに「旅館明治」を数回訪れ、混浴の共同浴場で見かけた美少女を題材に短編「美少女」を書いた。

 同年、太宰一家は東京・三鷹に引っ越したが、太宰は昭和17年と18年、執筆のために旅館明治を訪れた。「走れメロス」「女生徒」などを書き、原稿の依頼が急増したのもこのころだ。太宰は約1カ月ほど滞在し、『正義と微笑』『右大臣実朝』を執筆した。

 宿泊したのは2階の客室2部屋。1部屋を執筆室、もう1部屋を寝室として使用した。現在の「双葉」の間にあたる。遅くまで執筆し、朝は寝坊したというが、朝起きると必ず袴を身に着け執筆した。時折散歩に出るだけで、ほとんど部屋に籠っていたという。

 太宰は戦争中、夫人の実家がある甲府に戻り疎開暮らしをしたが、当時の旅館明治は疎開児童と軍人で宿は満員だったため、宿泊はできなかった。終戦間近には甲府の実家も空襲で全焼し、太宰一家は青森に移った。以後は、死ぬまで甲府を訪れることはなかったという。

【正解】はかま姿

 Q4.宿の自慢料理を食べ飽きた坂口安吾が買って食べた“おかず”は?

 安吾が29歳の時、親友の翻訳家・若園清太郎が肋膜炎にかかる。その前年、友人2人を相次いで亡くし、恋にも破れていた安吾は、親友を療養させるために信州の山奥の奈良原温泉「あさま苑」を探し出し、値切りに値切って1泊3食(毎食卵1個付)で1円20銭という破格の宿泊料で若園と2カ月近く生活を共にした。

 安吾の持ち物は、万年筆とノート1冊、原稿用紙を入れた風呂敷包みだけ。万年筆のインクがなくなると、峠をいくつも歩いて超えて買いに行く、そんな生活だった。宿の名物料理は鯉料理とキノコ。若い2人は毎日続く同じ献立に飽きてしまった。外食をするにも若園は病身、山を下ったはるか先まで出かけるのは大変だ。

 安吾と若園は宿の売店で鯨肉の缶詰を買い「栄養補給」といって、これを“おかず”にした。また、若園が東京から持参した「是はうまい」というフリカケも重宝したという。

 若園が8月下旬に帰京した後も安吾は宿に残り、『狼園』を書き上げた。

【正解】鯨肉の缶詰

Q5.特高から逃れて隠れた宿の風呂で小林多喜二が口ずさんだ歌とは?

 小説『蟹工船』でプロレタリア文学の旗手となった小林多喜二は昭和5年、治安維持法違反で収監され、翌年1月保釈された。3月には借金までして身請けした恋人に結婚を申し込んだが、断られる。親兄弟の生活を支えるからと故郷・小樽に帰ったのだ。

 多喜二が七沢温泉「福元館」に逗留したのはこの年の3月。特高の監視から逃れるための隠遁生活だった。福元館の離れに身を隠し、拷問で傷ついた体を休めながら長編小説『オルグ』を執筆するためだ。多喜二は原稿執筆中も、官憲の靴音を聞くたびに書きかけの原稿用紙をトイレに捨て、深夜まで裏山に身を隠した。

 そんな多喜二を匿えば、宿も罪に問われかねない。だが、それを承知で匿ったばかりか、リクエストがあれば好物の“ぼた餅”を食べさせ、傷だらけになった多喜二の背中に手作りの湿布薬を塗ってやったという。多喜二はリラックスすると、鈑桁に丹前姿で母屋の温泉に向かい、歌を歌いながら湯を楽しんだ。多喜二がいつも歌った歌を、女将は覚えていた。

♪折らずにおいてきた山蔭の早百合
人が見つけたら手を出すだろう
風がなったなら露をこぼそものを
折ればよかった遠慮がすぎた

 この曲は、ブラームスの作品47の3「日曜日」で、訳詞は高野辰之。多喜二は約1カ月、福元館に逗留し、『オルグ』を書き上げた。逮捕され拷問死するのはその2年後の2月のことである。

【正解】ブラームスの「日曜日」(邦題「折ればよかった」)

Q6 室生犀星と萩原朔太郎が温泉宿でケンカした理由は?

 北原白秋が主宰する雑誌「朱欒(ざんぼあ)」を通じて文通を続けていた室生犀星と萩原朔太郎は大正3年2月、前橋駅で初めて顔を合わせた。互いに相手の作品に敬意を持っていたが、第一印象は最悪だった。犀星は朔太郎を「なんて気障な男だ」と感じ、朔太郎は犀星を「貧乏臭い痩せ犬」と感じたという。

 ところが、しばらくともに過ごすと、一気に友情が花開き、ともに旅をする無二の親友になった。大正9年以降、夏には軽井沢で過ごすことが増えた犀星は、軽井沢を起点に各地を旅する日々を送っていた。大正10年の夏には、電報で朔太郎を軽井沢に呼び寄せ、ともに赤倉温泉を旅した。宿泊したのは「香嶽楼」。明治32年に尾崎紅葉が訪れ、「煙霞療養」を著した宿だ。2人は信越本線田口駅から車に乗り、上機嫌で宿に着く。

<香嶽楼の入り口には、うすべにの葵が咲き、自動車を下り立つ私たちの目を一番さきに刺戟した。座敷は十二畳の、高原一帯を見晴らせるところで、紅葉山人の「煙霞療養」にでてくる土地である。煙霞療養といふ題はなかなか新らしい。今だってちよいと使へる。さういふ話をしてから一浴した>(「赤倉温泉」=「改造」大正10年9月)

 この後、茶を飲むために仲居を呼ぶベルをどちらが押すかで小競り合いになったとも書かれているが、気の置けない友人同士ゆえのことだったのだろう。

【正解】仲居を呼ぶベルをどちらが押すか

(本誌・鈴木裕也)

※週刊朝日オンライン限定記事

    あなたにおすすめ

    前日のランキングへ

    ニュース設定