寅さん50作目!渥美清さん「病の葛藤」「家族へのエール」を綴っていた“遺書”

0

2019年12月27日 20:10  週刊女性PRIME

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

週刊女性PRIME

第26作目、『男はつらいよ寅次郎かもめ歌』での撮影スナップ(左)と渥美さんがしたためていたメモ(右)

 本日12月27日、寅さんシリーズの50作目が公開された。

『男はつらいよ お帰り 寅さん』。

 1997年に公開されたシリーズ49作の『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別編』以来の作品だが、車寅次郎役の渥美清さんは1996年に亡くなっているので、過去映像での“出演”となる。

 1969年に映画第1作が公開され、50年にわたって続いたことになる『男はつらいよ』。観客動員数は約8000万人を記録する、国民的シリーズとなった。

 脇を固める名優の力量もさることながら、ここまでの長寿作品となったのは主演・渥美清(本名 田所康雄)さんの人間力の賜物にほかならない。
 
 今回、週刊女性PRIMEでは50作目の公開を記念し、渥美さんの“遺書”ともいえるメモについての記事を復刻し、その人間力に迫ってみたい。

※以下は、週刊女性1997年8月19・26日合併号、9月2日号の記事を再編集したものです。

       ◆


《高羽1月治療入る、が肝肺ぞうがん/俺も人ごとじゃないよ近いんだ/恥ずかしき事ではないが本当はこわい/(やがて来る死はどんなものか)》(原文ママ 以下同)

 1996年の8月4日、天国へと旅立った渥美清さん。その肉筆の“遺書”があるのをご存じだろうか。

 それは手のひらに入るくらいの、こげ茶色をした革製のダイアリー手帳で、表紙には“1993 TBS”とある。
 
 業界関係者に配られたものだろうか。
 
 その無地のメモ部分に、8ページにわたって、冒頭に紹介したようなつぶやきが記されていた。


 “高羽1月治療入る”とは、1995年に肝臓ガンで死去した“寅さん”シリーズの名カメラマン・高羽哲夫さんが1993年1月に入院して治療を受けた事実を指す。

 どうやらこの前後に書かれたもののようだ。
 
 ちなみに、渥美さんがガンを告知されたのは1991年のことである。

 遺族と親しいある映画関係者も、この手記の存在を認めている。

「ご遺族は“本人の手帳に間違いない。ただ、あまりに生生しくてまだ字は見られません“と語ったそうです」

 その気持ちは、痛いほどよくわかる。
 
 この手記には、生前スクリーンいっぱいに動き回り、日本中に笑いをふりまいた渥美さんのイメージとはあまりにかけ離れた苦悩、がさらけ出されているからだ。

 冒頭の《恥ずかしき事ではないが本当はこわい》という告白のあと、渥美さんはいったん、こう達観してみせる。

《ガンは愛きょうのない病気だ/反面美学だ……/終焉は見ごとでありたいと思う/「牡丹しなだれている朝9時/には盛大なすがたこれにかぎる/役者にどこか似ている 見たいだ」/パット咲いて30年……/長生き牡丹かな寅次郎は/獅子文六、ウーン76歳ま/では、とてもむりだよなこりゃ……》

 読書家らしく、尊敬する作家の小説を引用し、その没年齢に思いをはせながら牡丹のように死にたいと、美学を語る渥美さん。

 しかし、心の動揺のためか、文字は震え、誤字も見られる。不自然な改行も、気持ちの乱れを表しているかのようだ。

 ページをめくれば、こんな唐突なフレーズも……。

《沈黙の臓器 肝臓 強い代償 転移悪化 胆汁をつくり/グリコーゲン/をつくる》

 医学事典でもひもといて、メモしたのだろうか。わらにでもすがりたい……そんな切羽詰まった心情が、痛ましい。

 さらに、渥美さんは友人・関敬六さんとの交遊に触れる。が、そこにいつもの陽気さはない。

《10年前に岡山で買った/位牌はK6からの宝物/になっちまうな。/足は重くなるばかり、イタイ/『老眼鏡のすきまから/しみじみ見てる生命線』》

 趣味でたしなんでいた自由俳句も、ぞっとするような凄惨さだ。

 そのあげく、飛び出 したのはついぞ聞かなかったような。“恨み言”……。

《29、6以来タバコも酒も/やめたのに、今度は肝臓/か……いやなやつだぜ/しのも気をつけろよ》

 20代で肺病を患い、弱い身体をいたわるように節制に節制を重ねながら寅さんを演じてきた渥美さん。

 なのになぜ……と、運命を呪うかのような本音が伝わってくる。

 気になるのはこのあと、3枚にわたって手帳が欠けていることだ。

 さらに“恨み言”を書きなぐり、あとで見直した渥美さんが破り捨てたとも考えられる。

 その内容とは、どんな悲痛なものだったろう。

 しかし、最後の8ページ目。 渥美さんは思い直したようにこう記している。

《伊豆の式根島、/ロケ先菊水旅館は7年前に/行ったところへ/仕事じゃなくて、ゆっくりしたいな/家族とぎょうさん(親交のあった脚本家・早坂暁さんか)にも……/声かけて一緒に行こう。/正子健康が一番だぞ/健太郎 幸恵も頑張れ、/(康雄)》

 妻の正子さんとふたりの子供へのメッセージだ。 が、なぜか、あの陽気な笑顔は浮かんでこない。
 
 死期を悟り、その恐怖に怯えながら、この手記を書いた渥美さんはおそらく苦渋に満ちた表情だったはずだ。

 愛する妻や子と少しでも長く一緒にいたい、せめて1度だけでも家族旅行ができたら……。生に執着しながらも、絶望せずにはいられない渥美さんにとって、できるのは家族の健康を祈ることだけだったのか。

 周知のように、渥美さんは 遺書を残していない。が、これこそが、ひそかにしたためた慟哭の“遺書”ではなかろうか。

 渥美さんーー本名“田所康雄”もまた、死を前にすれば、《恥ずかしき事ではないが本当はこわい》と、つぶやかずにはいられない、ひとりの弱い人間だった。

 いや、むしろそれだからこそ、“寅さん”となって弱い人々を勇気づけることができたのだろう。

 また、渥美さんは手帳の中で親しかった人々に別れを告げている。

《浅草の×××元気か、/’83対星館、本多××さんよ/野島は欠(亡)だったのはさみ/しい(ケンカ仲間)よ安らかに拝》
 
 しかし、最も気にかけていたのはやはり家族、なかでも長女の幸恵さんだった。

《幼年幸恵が玄関の/石だたみでころんでケガし/た時は本当にびっくりし/たな忘れられないよ/今は俺の事でおまえ達がびっくりす/る番だよ。》

 そこには、幸恵さんが転ぶ様子を描いた可愛らしいイラストも添えられていた。男親にとって、娘はとりわけ可愛いというが、渥美さんも同様だったようだ。

 幸恵さんへの深い愛情は、別の場所にも表れている。手帳のダイアリー部分、3月10日のところに、
 
 《幸恵 誕》
 
 という文字が……。関係者によれば、

「この日は長男・健太郎さんの誕生日でもあるんです。でも、渥美さんにとって幸恵さんへの思いは格別だったんでしょう。何しろ、ほとんど家族も近づけなかった代官山の勉強部屋にも、幸恵さんだけは足繁く通って身の回りの世話をしていましたから」

 それほど可愛がっていた娘を残し、死んでいくのはさぞや心残りだったに違いない。
 
 だが、渥美さんにはもうひとつ、大切なものがあった。

《1. 12作 私の寅さん 241万9千名/2. 11作 寅次郎忘れな草 239万5千/3. 30作 花も嵐も寅次郎 228万2千/4. 寅次郎小守唄 226万7千》(原文では順位の数は◯囲い)
 
 これは観客動員の多かった上位4作を並べたもの。渥美さんが死を覚悟しながらも、シリーズの人気を案じていたのがよくわかる。残された人生を家族のためだけに費やすわけにはいかなかったのだ。

 それでも渥美さんは、最後のページで家族旅行に行きたいという夢を語り、

《正子健康が一番だぞ/健太郎 幸恵も頑張れ、/(康雄)》
 
 気力をふりしぼるようなエールを贈っている。
 
 それは、人生の大半を“寅さん”として生きなければならなかった渥美さんの、家庭人“田所康雄”としての肉声だったのかもしれない。


 

 

    ニュース設定