ケン・ローチが描き続ける人間の生き様 『家族を想うとき』まで半世紀に及ぶキャリアを振り返る

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2020年01月09日 10:21  リアルサウンド

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『家族を想うとき』

 年末に日本で公開された一本の映画が、現代社会に一石を投じている。


 そのタイトルは『家族を想うとき』。宅配ドライバーとして独立した主人公が、契約先の理不尽なノルマや労働条件に振り回され、袋小路へと追いやられていく物語だ。彼には守るべき家族がいる。いつの日かマイホームを手に入れたいという夢もある。が、社会のシステムがそうさせない。いつしか仕事の負担は増え、人としての尊厳は踏みにじられ、次第に子供たちと過ごす時間も奪われ、あれほど仲睦まじかった家族の絆は無残なまでに引き裂かれてしまう。


 こういった「あらすじ」に触れ、観たいという気持ちがすっかり失せた人もいるかもしれない。せっかくお金を払うのならハッピーな映画を観たいという人もいるだろう。しかしそんな腰の引けがちな我々にとって強力な「よすが」となるのは、これが英国の至宝ケン・ローチの作品だという事実だ。


 彼の目線の先にはいつも深刻な社会問題がある。今にも崩れ落ちそうな人々がいる。その描写を目の当たりにして、胸をかきむしりたくなるほどの不条理や虚しさを感じることも多い。ただ、そうした中でも、日常の会話の中にユーモアをにじませ、家族の笑顔や仕事仲間の温かさをさしこませる。さらには人々の姿を通じて我々の見知らぬ状況を可視化し、なぜこのようなことが起こるのか、社会に打つ手はないのか、傍観者のままでいいのか、と観客の感情を奮い立たせる。


 そうやって劇場を後にする時、自分の胸の中が熱を帯びているのに気づく。それは人間としてあたり前の感情と言っていい。我々はある意味、自分が人間であることを思い出すために、ローチの映画に足を運ぶのかもしれない。


●演技に目覚めた学生時代、転機となったBBCでの番組作り


 今年84歳になる巨匠は、いかにして確固たる社会への目線と、唯一無二のタッチを手にしたのか。それは彼自身が労働者階級の家庭に生まれたことと無関係ではあるまい。電気工の父と仕立て屋の母が日々子供たちのために懸命に働く姿はおそらく、ローチ作品に登場する様々なキャラクターの姿に投影されているはずだ。そんな両親は息子にしっかり勉強して進学することを勧めた。階級社会の英国で自らの可能性を追求して羽ばたくには、それ以外の術が存在しないからだ。


 やがて彼はオックスフォード大学に合格。法律を勉強し、ゆくゆくは弁護士になることを夢見ていたものの、気がつくと演劇の世界にのめり込んでしまう。卒業後2年間の空軍勤めを経たのちも、地方劇団を転々としながら表現の道を模索し……。が、ここで思いがけない運命の扉が彼を招き入れる。BBCの訓練生として採用されたのだ。60年代に入り、BBCは変革期を迎えていた。コンテンツの需要も増え、新たな視聴者層の獲得も喫緊の課題。そのためフレッシュな若手が多数採用され、これまでにない趣向の番組作りが開始されたのである。


 名もなき新人のローチは情熱を持ってこの仕事に取り組んだ。その結果、BBCがこれまでに見向きもしなかった社会状況や人間模様を生々しく活写した「Up the Junction」や「Cathy Come Home」といった伝説的なドラマが誕生することに。フィクションの枠組みの中でむせ返るほどのリアリズムを貫くドキュ・ドラマの手法は、当時の視聴者の間で大きな反響を巻き起こした。今思えばこの時すでにケン・ローチの持ち味は確立されていたのかもしれない。


●卓越したリアリズムをもたらす二つの手法


 彼の確かな演出力はTVのみにとどまるものではなかった。さらなる高いステージを目指して挑んだ『夜空に星のあるように』(68)や『ケス』(69)といった映画作品は軒並み高い評価を受け、ケン・ローチの名を国際的にも知らしめるようになる。


 ここで押さえておきたいのが、ローチの映画作りの特徴だ。まずは「順撮り」、そして「俳優に脚本を見せない」という点が挙げられる。


 彼の作品は多くの場合、舞台となる地域の方言をナチュラルに話す俳優がキャスティングされる。知名度の有無は関係ない。内なる魂の輝きさえあれば、それほどキャリアを積んでいない者、あるいは全く演技経験のない者でも採用される。「順撮り」は、そういった出演者たちが物語の展開とともに無理なくその役を「生きる」ためのものなのだ。


 脚本を読んでいない彼らは、自身に待ち受ける運命を全く知らない。シーンごとにローチから説明を受け、その通りに演技を重ねるのみ。だからこそ全体の演技プランに頭を悩ませることなく、ただひたすら「いまこの瞬間」に全身全霊を注げば良いのである。こうして彼らは役と一体化していく。効率を重んじる映画業界では非効率的と映るかもしれないが、いざ完成した作品の圧倒的なリアリズムを前にすると、この手法がいかに礎となっているかが理解できよう。


●苦難の時代からの脱出


 ただしローチのキャリアはずっと順調だったわけではない。興行的に振るわない時もあった。さらに左派としての政治思想を前面に出した作品を手がけ、反対勢力との攻防を繰り広げたこともあった。それが暗に影響し、70年代から80年代にかけての彼はなかなか作品作りが叶わぬ状況へ追いやられていく。この時期、それでも家族を養うために、本来なら最も距離をおきたかったはずのファーストフードCMなどを手がけることも増え、密かに悩む父の姿に妻や子供たちが胸を痛めるほどだったという。


 状況がようやく改善するのは90年代に入ってから。その後は『リフ・ラフ』(90)『レディバード、レディバード』(94)といった秀作群を次々と手掛け、さらに00年代に入ると、変わらず労働者、格差、移民をめぐる左派的な主張を展開しつつも、それをストーリーの中に巧みに織りあげる熟練の腕がさらに磨き上げられていく。06年に『麦の穂をゆらす風』でカンヌ映画祭パルムドール(最高賞)を獲得したのはキャリアにおける最高の一瞬と言えるだろう。


●引退発表を撤回して製作された2本の傑作


 ローチは2014年に引退を発表した。しかし総選挙で労働党が敗北したのを機に復帰を決意。そうして着手したのが『わたしは、ダニエル・ブレイク』である。本作はカンヌ国際映画祭でローチに、『麦の穂をゆらす風』に続く二度目のパルムドールをもたらした。もちろん両作とも素晴らしいが、筆者の目には名も無き市民の尊厳を力の限り讃えた『ダニエル・ブレイク』にこそ、80歳を迎えるローチにしか描けぬ、神がかりとも呼びたくなるほどの境地を感じたものだ。


 最新作『家族を想うとき』は、前作の取材を通じて集まった証言や材料を反映させた“もう一つの物語”なのだそうだ。今もローチはゴリゴリの左派であることに変わりはない。だが、彼の映画から香り立つのは、そういった政治的主張よりもさらに深いところにある「人間の尊厳」に他ならない。これほど世の中が急速に変化し、人々が自分の見たい現実だけに関心を寄せる時代に、ケン・ローチは胸に染みる人間模様を通じて「見るべきもの」「寄り添うべきもの」をしかと突きつけてくれる。そのデビュー以来一貫した眼差しに、絶望や悲しみではなく、むしろ揺るぎない安らぎと温もりを覚えるのは私だけではないはずだ。


 もう「引退」を気にするのはやめよう。彼には今後も撮り続けてほしいし、もしそれが叶わなくとも、これまでに築き上げた珠玉の作品群がある。日本で絶版扱いのものも含めて、ケン・ローチを再発見する喜びは多く残されている。どんな時代が来ようとも我々は、人間とは何者なのかを深く問うため、ローチの作品と共にあり続けるのだ。


参考資料
・『ヴァーサス/ケン・ローチ映画と人生』DVD
・『ケン・ローチ(映画作家が自身を語る)』グレアム・フラー著、村山匡一郎、越後谷文博訳(フィルムアート社/2000)


(牛津厚信)


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  • ケンローチとの出会いは「この自由な世界で」搾取される側から搾取する側に渡り、そして一線を越えた…傑作。
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