500円食べ放題を貫く“はっちゃん”こと田村はつゑさんの信条「絶対値上げしない」

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2020年01月11日 10:00  週刊女性PRIME

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「食べ放題、子ども無料」の食堂・はっちゃんショップ 撮影/原田 崇

 群馬県桐生市を走る県道沿いに、茶色の外壁の平屋が建っている。開店前、入口には20人ほどの老若男女が列をなしており、11時30分の開店と同時に行列が店の中へとなだれ込んでいく。

 ここがはつゑさんが切り盛りする食堂、「はっちゃんショップ」。大人は500円、子どもは無料で食べ放題という「ランチ限定営業、セルフサービス制」の店だ。

採算度外視、思い切りのよさは度肝を抜く

「あんた、どっから来たの? 埼玉? はるばる来てくれたんなら、お金いらねえよ」と、遠方から来たお客さんを無料にしてあげることも。

 店内の長テーブルには、日替わりで約15種類のおかずが大皿にドーンと盛られて提供されている。数種類の焼き魚や手羽先煮、煮豆、卵焼き……味付けは甘めでやさしい。どれもが、どこかなつかしいホッとする家庭料理だ。

「もっと食べてやー」

 大きめに握ったおむすびや赤飯、焼きそばや味噌汁も食べ放題。

「今日はワタリガニの味噌汁。だしが出てうまいよ」「これは、採れたてのブロッコリーね、今ゆでたばかりだよ。マヨネーズはみんなでまわして使ってくんな」と声をかけながら、店内をせわしなく動き回る。食べ終わった客とは、お茶をいれながらひとこと、ふたこと会話をかわす。寒い冬でも素足に下駄。仕込みから5時間、一度も座ることなく、立ちっぱなしだ。

「朝の仕込みは6時から。店の台所に来たら、まずは自分の顔をひっぱたいて、今日もやるぞーって大声出して気合を入れるんだ」

 おかずの減りが早ければ追加分を調理し、満席ならお客どうしに席のゆずりあいを促す。楽しんで食べてくれているか、お客さんの表情が気になってしかたがないという。

 客が引けたら2時間かけて、食器洗い。そしてバイクにのって、スーパーへ翌日の食材の買い出しへ。少しでも安くていいもの、旬でおいしいものを探し回っていると、一人暮らしの家に帰宅するのは深夜になることも。

 仕込み、調理、食器洗いにゴミの始末、買い出しとすべてを一人で切り盛りするのは、重労働だ。近所に住む子どもたちからは、体調を心配し、「もうやめたら」と言われるそう。

「でも、店が生きがいだからね。これまで苦労も多かったから、好きにやるよ」と笑う。

 食堂は、じつは採算度外視どころではない。運営の毎月の赤字は7万円。食材の原価や光熱費が、売り上げだけではまかないきれず、はつゑさんの年金を切り崩しているという。

「野菜とか米とか、友達がときどき店先に置いてってくれるんだよ。それをありがたく店で使わせてもらって助かっているね。それでもお客が来れば来るほど赤字なんだよ」と屈託なく笑う。

叩き上げの仕事人生、休む間もなく行商へ

 はつゑさんは群馬県桐生市で生まれ育った。戦争のさなか、配給制とはいえ食べ物になかなかありつけず、苦しい幼少期を過ごした。

「野生の七草やアザミを採って食べたこともあるよ。許されることではないけれど、やむにやまれず人様の家に実ったものを口にしたことだってある。お金持ちの家の庭に落ちてた栗の実を生のまま食べたり、柿を盗みに行ったり。でもうちが貧乏だって周りは知ってたから、見て見ぬ振りをしてくれたんだ

 そのような栄養事情が影響したのか、はつゑさんの母は病気がちで32歳という若さでこの世を去った。その後、はつゑさんの父親は、すぐに後妻を迎えたが、はつゑさんは奉公に出されることになった。

「10歳で子守として奉公に出されたんだよね。つらかったよ。毎晩、死んだ母親が恋しくてねえ。『学校に行かせてあげるから』と言ってくれた奉公先もあったけれど、そんな約束は守られないことがほとんど。

 ようやく『学校に行きなさい』と言ってくれる奉公先に恵まれたけれど、結局はそこの家の泣く子をあやしたり、おむつを取り替えたりに追われて、勉強についていくのが難しい。学校がつらくて、小学校にも行かなくなったんだよね」

 10代半ばになったはつゑさんは、機屋など、さまざまなお店に住み込みで働き始めた。そんななか知り合った男性と家庭を持つ。しかし夫の女性関係に悩まされ、苦しい暮らし向きが続いた。

 3人の子どもの母親となったはつゑさんは、子どもを保育園に預け、生活費を稼ぐために昼も夜も仕事をした。そして育児が一段落した後、パチンコメーカーに就職。62歳の定年まで勤め上げた。

 定年退職後はゆっくり過ごそう、と考える人も多いだろう。だが、休む間もなく、また次の仕事を見つけたい、と行動に移したのがはつゑさんのバイタリティーのすごさだ。始めたのは、なんと、これまでと畑が違う「行商」。和菓子やおかずを作って、近隣の知人に売る、という仕事を軌道に乗せたのだ。

60歳過ぎてたって、まだまだ自分は元気だし、小さいときから働いてきたから、働いてないと調子が悪くなるんだよ。次、なにやろうか、と思ったときに、食べ物屋だったら自分でできるんじゃないかと。

 魚屋で16年間働いたから、魚の目利きもできるようになってね。魚のおかずやら、畑で採れた野菜やらで、ちゃちゃっとうまいもんを作る自信があったから、なんとかなると思ったんだよ」

 お手製のおかずを段ボール箱に入れて、売り歩いた。キンピラ、サトイモ、シナチク、昆布、揚げの煮たものなど家庭料理の惣菜を1パック200円で販売。それが売れた。かたわら、時間があればチリメンのエプロンを縫う内職も続けていたという。恐れ入る「稼ぎ力」だ。

 6年間、行商を続けるうちに味が評判となり「惣菜屋ではなく食堂にしてほしい」という要望が来るようになった。「店をやるにはどうしたらいいのか」と保健所に相談しに行くと、「食べ物を扱うにはトイレと台所がないとダメ」と言われたので、すぐさま家の隣のスペースに簡易な建物を建築。惣菜の小売りを始めるようになったのだ。これがのちの食堂の原形となる。

喜ぶようなことがあれば、進んでやる

 はつゑさんの行動力を知る、ひとつのエピソードがある。子育てが一段落したのを機に57歳で日本一周の旅に出たのだ。50ccの原付バイクにのり、1日に数百キロ走ったりしながら、3か月半かけて回った。そして300万円ほどのお金を、行く先々で現地の恵まれない人たちへ寄付したという。

「各地でいろんな出会いがあって、それはもう、親切にしてもらったんだよ。これからの人生でこのときに受けた親切を、周りの人たちに恩返ししていかねば、って思ったのが食堂をやるきっかけだったんだよね」

 自分の幸せは、人に与えて何分の一かをいただくもの。人を泣かせば、泣かされる。人を喜ばせれば、自分にも喜びがある。

 みんなが喜ぶようなことがあれば、進んでやる──それが私の信条なのかな、とはつゑさんは語る。幼いとき、十分に得られなかった両親からの愛情。奉公先で受けた苦難。自分を何度も裏切った夫。つらいときの思いは恨みと思わず、周囲の人たちから受けた恩を、何倍にもして返していきたいという。

 82歳となった今でも、体調はすこぶる良好だ。軽い糖尿病、高血圧と診断され、薬を飲んではいてもまだまだ元気いっぱい。

「魚屋で働いとったから、マグロが好物でね、いいもんがスーパーにあれば、毎日食べとるよ。それが健康の秘訣かもな」

 赤字続きと知る常連からは、値上げをすすめられるが、開店から続く500円からは絶対に値上げしない、と胸を張る。

「孫6人、やしゃご6人いて、自分の墓ももう作った。不安もなければお金もない。消費税が上がっても、ワンコインで続けるよ」と、はつゑさんは意欲満々だ。

「ありがとうって言ってもらえる今が人生で最高。これでいつかポックリ、自分の人生を店じまいできれば、思い残すことなんて、なんにもねえよ」

たむら・はつゑ◎1935年、群馬県生まれ。幼少期から奉公に出され、子守として働く。機屋などでの住み込み生活を経て結婚、3児の母に。内職、パートに精を出し、子育て終了後は地元企業に就職、定年まで勤め上げる。62歳から惣菜販売、68歳から食堂「はっちゃんショップ」をオープン。毎日日替わりのおかずを15品・50人前の食事を5時間かけて調理。店内では残ったお惣菜の量り売りも。地域のコミュニティの場にもなっており、地元の人たちに愛されている。

文/山守麻衣(NHKガッテン2018年春号より転載)

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  • 年配経営者の儲け目的ではないこの種の店は年金で補完していることで続いていることが多い。
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