【ネタバレあり】『パラサイト 半地下の家族』は何が凄いのか? ポン・ジュノ監督の“建築的感性”を紐解く

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2020年01月18日 12:02  リアルサウンド

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『パラサイト 半地下の家族』(c)2019 CJ ENM CORPORATION, BARUNSON E&A ALL RIGHTS RESERVED

 自分が参加している企画の件で恐縮だが、新年早々(2020年1月9日の朝)、ウチの近所のセブンイレブンで『週刊文春』を開いた時、思わずデカい声をあげそうになった。計五人の評者による新作映画のクロスレビュー欄「シネマチャート」で、ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』が堂々25点満点(各々5点満点で採点)をマークしていたのだ。こんなのは筆者が加わってから6年近くの間で初めてのこと。まさかこの奇跡の光景が見られるとは思わなかった。


参考:ほか場面写真多数


 ちなみに本欄は毎回二本セットで話題の新作を取り上げているのだが、その時の相手となったのがこちらも大傑作の『フォードvsフェラーリ』(監督:ジェームズ・マンゴールド)で、スコアは24点。通常ならぶっちぎりでチェッカーフラッグを浴びている成績だが、ライバルが凄すぎた。もちろん映画には受け手によって多様な哲学や価値観、評価軸があり、好みも分かれる。だからいくら海外から鳴り物入りで輸入されようとも、シネマチャートでは「権力チェック」とばかりに、既存の支持に対して誰かが「待った」をかける。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は24点だし、『ジョーカー』は23点。アカデミー賞作品賞に輝いた『グリーンブック』などは20点に留まっている(僭越ながら筆者が「3点」をつけた)。


 しかし『パラサイト 半地下の家族』はめったにパスできない「権力チェック」をすり抜けてしまった。恐ろしいことに満場一致でポン・ジュノ政権樹立である。この評価を絶対視するにはさらに厳しいチェックが必要かもしれないが、とりあえず無双の絶賛を得た本作のことを、しばらく「現代映画の最高峰」と呼んでも差し支えないのではないか。


 では『パラサイト 半地下の家族』はいったい何がそんなに凄いのか? なんとも途方に暮れる設問で、筆者の粗末な脳みそで真面に立ち向かうと気絶しそうになるが、まずはその圧倒的卓越の根幹を「設計思想」の素晴らしさに求めることは的外れではないだろう。


 実は昨年末、オムニバス『TOKYO!』の『シェイキング東京』(2008年)と、あの『母なる証明』(2009年)でポン・ジュノ組の助監督を務めていた『岬の兄妹』の驚異&脅威の新人監督、片山慎三と2時間以上に渡って『パラサイト 半地下の家族』についてみっちり語り合う機会を得た。その時に片山監督が放った以下の発言が見事にこの映画の「設計思想」の本質を突いていると思う。


 「観る前は『下女』(1960年/監督:キム・ギヨン)的な内容をイメージしていて、確かに途中まではその通りの展開だったんですけど、ある段階以降は今までにないなって。当て嵌める映画がまったく思いつかなかったんですよね」(YouTubeチャンネル『活弁シネマ倶楽部』#63「ネタバレなし」篇より/2019年12月31日付)


 筆者もほぼこの意見に同意する。片山監督は続けて「発明」という言葉を使ったが、筆者は「見たことのない建築」を目の当たりにしたという感覚だった。結果的には驚愕のオリジナリティに満ちているのだが、ただし使っている材料は全部「在りもの」という点が重要である。


 片山監督も例に出しているように、『パラサイト 半地下の家族』のいちばんのベースは韓国映画の古典にして特濃のカルト作『下女』だ。イム・サンス監督が『ハウスメイド』(2010年)としてリメイクしており、大金持ちの屋敷で働くことなったメイド女子の壮絶すぎる運命を通して、階級問題が鋭利に可視化されたハードコアな内容。ポン・ジュノ自身も影響関係を公言しているように、『パラサイト 半地下の家族』は明確に『下女』の系譜に則って土台が作られ、そこから多種多様なエレメントが導入・接続されていく。


 まずは『下女』でも用いられた「縦の構図」の格差をブーストする、高台の富裕層、半地下の貧困層という設定は、黒澤明監督の『天国と地獄』(1963年)のイメージが間違いなく重ねられているだろう。さらに『メトロポリス』(1927年/監督:フリッツ・ラング)を起点に『エリジウム』(2013年/監督:ニール・ブロムカンプ)辺りまで続くディストピアSFーー上空が「天国」で地下が「地獄」の図式を援用することで現実社会から寓話性へと橋が架けられる。


 やはり『下女』と同じく舞台となるのは主に屋敷の中だが、演出面ではヒッチコック(細部の伏線に加えて階段など空間性を活かしたサスペンス)やブニュエル(シュルレアリスティックな要素を含むブルジョワ風刺の黒喜劇)らの継承が認められる。むろんポン・ジュノが意識したかどうかは別だが、こういった「映画史軸」で「在りもの」を捜すことはいくらでもできるだろう。また、意外に指摘されてないし、ポン・ジュノも語っていないと思うのだが、筆者が『パラサイト 半地下の家族』を鑑賞しながら連想の最上位に来ていたのが川島雄三監督の『しとやかな獣』(1962年)である。郊外の団地の安い棟の部屋に住んでいる四人家族が、父親の指示で各々詐欺まがいのことをして金持ちからカネを巻き上げていく話。コンゲーム映画にして異色の家族ドラマにして風刺劇の傑作ブラックコメディ。ただし『しとやかな獣』は日本の高度経済成長を社会背景にしており、住居や階層的にはポン・ジュノでいうと長編デビュー作の『吠える犬は噛まない』(2000年)に近い。


 そういえば『パラサイト 半地下の家族』を観て「ポン・ジュノ軸」で久々に想い出したのが『吠える犬は噛まない』だった。多層構造の中に秘密の場所が隠された団地の空間性や「縦の構図」など、経済という主題が裏に貼り付いた建築的感性がフルに活かされているのがあのデビュー作と今回の新作なのである。


 当然にも『パラサイト 半地下の家族』は「ポン・ジュノ軸」で見ても作家の持ち札や武器を全て集めた総力戦と言うことができる。


 貧富の格差という主題はグラフィックノベルを原作とした(現時点でポン・ジュノ唯一の他人の原作企画である)『スノーピアサー』(2013年)が今回の直接的な前フリだ。氷河期の世界を走る列車の最前線に富裕層、最後尾に貧困層を乗っけるという「横の構図」で百姓一揆にも似た反乱を描く。ちなみに片山監督との『活弁シネマ倶楽部』でも「横」ってイマイチだよね、という話が出たのだが、それを90度回転させて垂直の「縦」に角度調整(最適化)したのが『パラサイト 半地下の家族』だ。やはり抵抗も水圧も下から上に突き上げていく方が遙かにパワフルである。


 もうひとつ押さえたいのはトポス(場所)の問題。大袈裟に言うとポン・ジュノ流儀の地政学だ。映画の後半で露骨になるが、『パラサイト 半地下の家族』の場合は貧困地区がハザードマップで真っ赤っか。この源流にあるのは『グエムル−漢江の怪物−』(2006年)だろう。あれは川のそばの話。米軍の研究施設で悪い研究者がこっそり垂れ流した薬品により、川下で巨大なモンスターが誕生。その凶暴な怪物に襲われるのは、漢江付近に住んでいる労働者階級の民衆たちだ。「半地下」「川のそば」に住まざるを得ない層こそが被害を受けてパニックが勃発する。


 この『グエムル−漢江の怪物−』やNetflix作品『オクジャ/okja』(2017年)に顕著なように、「アメリカの影」もポン・ジュノが繰り返し採用する主題だ。『殺人の追憶』(2003年)にしろ事件の現場となる韓国の田舎を舞台にしつつ(メインの時代設定は1986年)、ソウルとの距離、アメリカとの距離が段階的に劇中に組み込まれている。例えば精液のDNA鑑定が韓国ではできないから、アメリカに送るという展開。「ナイス」と称するナイキのスニーカーのばったもんとか、刑事のひとりがずっと着用しているMA-1ジャケット。FBIへの言及なども含め、随所に1980年代当時のチョン・ドゥファン政権下を背景とした米国コンプレックスの因が埋め込まれている(このへんの事情は『サニー 永遠の仲間たち』(2011年/監督:カン・ヒョンチョル)の欧米文化の韓国社会への影響を併せて観れば理解が深まるだろう)。


 一方、意外に「アメリカの影」が(ほぼ)見当たらないのが『母なる証明』。これは「母と息子」という原型的な関係で神話的なドラマを作ろうとしているように見えたのだが、しかし筆者が思うに、ポン・ジュノは多少図式的にでも現実の世界構造を劇に組み込んだほうが強度が出る。やはり黒澤明に近い。「世界構造の図式」こそが強靱な映画の肉体を支える太い骨になる。その点、『パラサイト 半地下の家族』はイケメン社長(イ・ソンギュン)がグローバルIT企業のCEOという設定だけでも「アメリカの影」への補助線はばっちり組み込まれている。


 「ポン・ジュノ軸」について語っていたら自動的に「韓国史軸」へとスライドしてきたが、その点で深掘りせねばならぬのは主人公のキム一家が暮らす半地下住宅の件だろう。日本にも半地下状態の住宅はあるが、単に半分が地下に埋まっている物件。でも韓国の半地下は、もともと防空壕にルーツがある。朝鮮戦争を経て、また北朝鮮と戦争になった時のためにパク・チョンヒ政権が作ったらしい。それを経済成長以降に格安物件として貸し出したという独特の歴史がある。


 つまり半地下住宅は「戦争の影」なのである。ここでいきなりネタバレ領域に踏み込んでしまうが(公開後の執筆だからご容赦を!)、その「韓国史軸」に沿った意味性は豪邸の地下にある核シェルターと呼応している。半地下はまだ人間の住むトポスだが、社会のコードの外に隠されたアンダーグラウンドの人間は公式には存在せず、エアロスミス風に言うと“RATS IN THE CELLAR”、地下室のドブネズミとしてサヴァイヴしていくしかない。


 ここまで「映画史軸」「ポン・ジュノ軸」「韓国史軸」で『パラサイト 半地下の家族』のかたちを確認してきたが、最もわかりやすい外観として世間から見えやすいのは「同時代軸」だろう。実際幾人もの識者から早くに指摘された『アス』(2019年/監督:ジョーダン・ピール)との設計の類似。格差や疎外といった主題は、カンヌ映画祭パルムドール受賞作において『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年/監督:ケン・ローチ)から『万引き家族』(2018年/監督:是枝裕和)へとまるでバトンリレーのように手渡されている。もちろん『ジョーカー』(2019年/監督:トッド・フィリップス)とも、韓国の盟友監督である『バーニング』(2018年/監督:イ・チャンドン)や『お嬢さん』(2016年/監督:パク・チャヌク)とも親密にリンクする。


 だが「同時代軸」において筆者が最も驚いたのは、他ならぬ『岬の兄妹』との共通点の多さだった。劣悪な住居に住んでいるド貧困家族が、内職で小銭を稼いでいて、まもなく法の外に出るような手段を取るという……。『岬の兄妹』は2018年には映画祭で上映されている(SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2018国内コンペ部門で優秀作品賞と観客賞を受賞)。もし『パラサイト 半地下の家族』の施工前にポン・ジュノが『岬の兄妹』を観ていたらーーと思わず妄想してしまうが、これは神(と本人)のみぞが知る話。


 閑話休題。昨年10月に試写を観た時から、レベルが天井破りに高すぎて何も見えねえ! とお手上げ状態だった『パラサイト 半地下の家族』だが、実は唯一、ちょっとだけ尻尾をつかんだ気がしたのがラストだった。正確には「物語の終わらせ方」と言うべきか。


 ずいぶんわかりやすくしたな、と思った。キム一家の数奇な運命について解釈自由な曖昧さをほとんど残さず、親切に語り切っている。例えば『殺人の追憶』の「真犯人の姿をついに見せない」ーーその投げ出し方ゆえに途方もなく深い余韻を残す宙吊りのオープンエンディングとは明らかに「選択の質」が違う。


 この「わかりやすさ」への舵の切り方はハリウッドを経由したからだと思う。正直、実際海の向こうに遠征して撮った『スノーピアサー』と『オクジャ/okja』はポン・ジュノの映画思想が概念的に形骸化し、ストーリーもキャラクラーも記号的でやや空疎な出来に感じていたのだが、そこから韓国に持ち帰ったのが世界基準の観客受容センスだった。


 思えばオープンセットの予算の掛け方といい、『パラサイト 半地下の家族』は「韓国で撮ったハリウッド映画」と考えれば、いろいろ合点がいく。細かく形容すれば、韓国の地べたのリアリティに密着して撮った真にハリウッド相当の映画。その位相がポン・ジュノという天才を衝撃のネクストレベルに押し上げたわけだ。


 この『パラサイト 半地下の家族』と同様の意味で、「日本で撮ったハリウッド映画」を実現したのは誰か? と日本映画史を紐解くと、それはおそらく黒澤明だけではないかと思われる。1985年の『乱』(日本・フランス合作)は米アカデミー賞で監督賞ほか4部門ノミネートを果たし、ワダ・エミが衣裳デザイン賞に輝いた。普段はぶっちゃけアカデミー賞にさほど関心のない筆者だが、今年は『パラサイト 半地下の家族』がどれほどの「乱」を巻き起こしてくれるのか、珍しくワクワクしている。 (文=森直人)
 


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