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実の母の顔を、里奈は一生忘れることはない。『里奈の物語』

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2020年01月18日 18:11  ダ・ヴィンチニュース

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ダ・ヴィンチニュース

写真『里奈の物語』(鈴木大介/文藝春秋)
『里奈の物語』(鈴木大介/文藝春秋)

物置倉庫で育った姉妹(里奈と比奈)は、朝の訪れを待ちわびた。幾つもの暗闇を駆け抜けた先に、少女がみつけた希望とは―。ルポ『最貧困女子』著者が世に放つ、感涙の初小説。

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「カランコロン」とスナック入り口ドアのカウベルが鳴ったのは、風雨がピークに達した午後7時頃のことだ。そろそろ夕方まで自動車用品店で勤めた幸恵ねえが、駆け足でやってくる頃。そう思って里奈が志緒里ママを見上げると、その表情はなぜか固く強張っていた。

 入ってきたのがたとえ警察官だったとしても、志緒里はこんな顔はしない。誰が来たのだろう。里奈がカウンターの陰に隠れるようにして店の入り口を見ると、そこには上から下までずぶ濡れの女が両手にふたりの子どもを引きずるように連れて、鬼気迫る顔で仁王立ちしていた。

 嵐の中を走ってきたのだろうか。肩で息をする女のきつく整った顔には濡れたショートソバージュがへばりついている。ふたりの子どもは、比奈と同い年ぐらいの男の子に、まだ2歳になったばかりぐらいに見える幼い女の子。どちらもびしょ濡れで、男の子の顔は不機嫌そうなしかめっ面。女の子は泣きはらした後の放心状態のような顔をしていた。

「春奈お前……」

 ようやく金縛りがとけたように言う志緒里ママを一瞬睨むように見ると、春奈と呼ばれたその女はいきなり引きつった作り笑いをこしらえ、子どもらの手をブンと振り払うと、大量の水が滴るのも構わずにズカズカ店の中に入ってきた。ほかに客がいるにもかかわらず、カウンター越しに志緒里と対峙する。

「志緒里おばちゃん、相変わらず綺麗ね。元気してた?」

「元気してたじゃねぇが。春奈あんた、大丈夫なん? あの子たちはなんなん?」

 志緒里の声色に何を感じ取ったか、女の顔がひきつった。

「大丈夫って何が? ひっさびさで地元戻ってきたのに、ずいぶんなツラしてくれんじゃねーの?」

 女のとがった声は狭い店内によく通り、緊張感が満ちる。と、店の奥で飲んでいた猪首の中年男が不愉快げにコップをテーブルに叩きつけると、野太い声を発した。

「んだあ春奈……てんめぇ、どの面下げて伊田桐戻って来ゃあがった! おめえさ里奈ちゃん残して飛んで、幸恵姉ちゃんがどんだけ苦労したか。おめえが取って逃げた銭も、みんな幸恵ちゃんが返したんさ! 百合根さんここさいたら、おめぇマジでボッコにされとるとこだが!」

 ドスの利いた中年男の剣幕に、店にいた若い客は身をすくめるが、小柄な女は一歩も引かない。

「は? 百合根ね? 懐かしい名前じゃねーかい。百合根ったらパチ屋の店長だったあの禿げ茶瓶だろ? オメーらあたしがあの糞おやじと毎日オマンコしてたの知らねーだろ。あの糞、付き合ってりゃ店出す金用意してくるっつーから臭ぇちんぽこに我慢してやってたのに、デブのバカ嫁にバレそうになったらあたしがパチ屋クビだぁ? たかが1‌0‌0万程度で、半年分のオマンコ代じゃ全然ワリに合わねーんだよ! 四の五の言ってっと全員この場でブッ刺すぞおらぁ!」

 整った顔立ちとも、華奢と言っていい身体つきともまるで似つかわしくない、カウンターの食器棚のガラスがびりびり共振するような大声。壮絶に下品な啖呵を切った女の手には、本当に包丁が握られていた。

 一瞬で、その場が食われた。それなりに修羅場をくぐってきたであろうパンチパーマのガラの悪い中年男よりも、まだ二十代だろうこの小柄な女のほうが、明らかに格が上だった。

 盛り場で育った里奈と比奈にも、これほどの剣呑は未経験だ。ただ恐ろしくてカウンターの奥で小さくなって震えていることしかできなかったが、里奈にはさっきから聞こえる春奈という名前に聞き覚えがあった。それは、幸恵から聞かされていた、里奈の実の母親の名前のはずではないか。

 ならばこのド迫力のお姉さんこそが、里奈の母なのだろうか。まさか、あたしのことを連れ戻しに来たんだろうか?

「ここに里奈いるんだろ? さっき幸恵姉ちゃんに聞いてから来たんだから、隠しても無駄だよ。里奈! 里奈‼」

「いやああああああああああああ!」

 店内に場違いな子どもの泣き声が響き渡った。刃物を片手にドスドスと店内を歩きだした春奈の気配に里奈が一層身を固くしたのが、比奈に伝わってしまったのだろう。抑えていた恐怖についに限界が訪れてしまったらしい。

 その声を聴きつけ、制止する志緒里ママを包丁を持った手で押しのけながらカウンター裏に入ってきたその女、実の母の顔を、里奈は一生忘れることはないだろう。

 子どもの里奈にもその女がずいぶんと綺麗な人なのはわかった。だけど、その女はただただひたすら怖かった。満面の笑みなのに、その大きな目だけが瞬きもせずに笑っていない。不自然で、化け物じみていた。

「お前里奈? って間違いないか、あたしの子どもの頃にそっくりじゃん! でっかくなったなぁ……今年から小学生だもんな」

 今年からじゃない、里奈は去年から小学生だ。

「腹減ってんだろ。ママとマクドナルドいこっか。ほら、マックドナルドのグラコログラコログラコログラコロ♪」

 いきなり胸の前で手をぐるぐる回しながらC‌Mソングを歌うずぶ濡れ女の異様さに、里奈は比奈を抱きしめつつ一層カウンターの奥に身を引いてしまう。

 おなかなんかすいてない。目の前に食べ終わったばかりの焼うどんの皿があるのが、この包丁片手にぐるぐるしている女にはわからないのだろうか。里奈もグラコロは大好きだけど、あれは冬の限定メニューだからまだ売ってない。

 表情も固くカウンター裏の隅にしゃがみこむ里奈に、春奈が手を伸ばして腕を摑み、グッと力任せに引き寄せて抱きしめてきた。

 その瞬間、里奈は「この女は敵だ」と強く直感したのだった。

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