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「国外脱出もしない」「政治的な発言もしない」日本人の歪んだ愛国心に、未来はあるのか?

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2020年01月20日 23:02  日刊サイゾー

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日刊サイゾー

写真政治思想史研究者・将基面貴巳氏
政治思想史研究者・将基面貴巳氏

 昨年刊行された『日本国民のための愛国の教科書』(百万年書房)という本がある。タイトルを読むと一見いわゆる“愛国本”のようだが、実際の中身は「いま日本でいわれる愛国心とは、本当に愛国心なのか?」という前提から問い直し、日本社会に浸透しきった「歪んだ愛国」の常識を覆すものになっている。本来の「愛国心」とはなんなのか? 著者の政治思想史研究者・将基面貴巳(しょうぎめん・たかし)氏に聞いた。

***

――本の中で、日本語の「愛国」には意味のすり替えが発生していると解説されています。ものすごく簡単にまとめさせていただくと、生まれ育った土地や風土を無条件に愛する姿勢(=ナショナリズム)ではなく、自分が市民権を持つ共同体において、自由や平等といった基本的な政治的価値を実現する政治制度を維持していこうと努力する態度(=パトリオティズム)が本来の愛国心なのだ、というお話でした。しかし、近年はやっている「日本スゴイ」系番組などもそうですが、今の日本では、政治的価値や制度の話ではなく、もっぱら日本の風土や文化を自分たちで過剰に持ち上げる風潮のほうが強いと思います。そうした流れができてきた理由は、どこにあると思われますか?

将基面 僕は、現代日本人の自信のなさの裏返しだと思っています。ナショナル・アイデンティティに過度に寄りかかって、自国民であることを誇りに思う――その誇りがそこまで肥大しているというのは、逆にいえば自分のアイデンティティの基盤が揺らいでいるからだと思います。僕も含め、いま40代後半より上の世代は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言っていたような浮ついた1980年代の雰囲気をよく覚えています。当時の日本人にとって「経済大国」としての日本が自分たちのナショナル・アイデンティティの基礎となっていたわけです。その頃と比べると、今の日本は「失われた20年」どころか「30年」になろうとしていて、なんとも情けない状態になっている。にもかかわらず、いや、だからこそ、当時抱いた誇りに近い思いをどうしても抱きたい。つまり、「経済大国日本」というアイデンティティが揺らいだ結果として、どうしても誇りを肯定しないといけないという心理的傾向が増大しているのだと思います。

 ただ、日本人がうぬぼれやすいのは、今に始まった話ではないんですよ。1890年代に日本にやってきた宣教師が「日本人はとにかく日本を買いかぶりすぎだ」という話を残しています。1人だけではなく、複数の宣教師たちがそのようなことを言っている。今と比べてどの程度のものなのかはわかりませんが、外国人の目から見ると、どうも昔から日本人はうぬぼれやすい傾向が強いようです。

――そこからずっと抜け出せていないんですね。ネットで可視化されているせいか、近年はよりそういう考え方の持ち主が増えているように感じてしまうんですが、この流れは日本特有なのでしょうか?

将基面 デイヴィッド・グッドハートというイギリスのジャーナリストが、イギリスを舞台に「なぜ特定の人たちがナショナリズムに強くコミットするのか」を分析した書籍(『The Road to Somewhere』)があります。そこで語られているのは、イギリス社会が極端に二分化されているという話なんですね。一方では教育水準も平均年収も高い、イギリス国内に限らずEUでもどこでも生活できるコスモポリタンな人たちがいて、他方では教育水準も年収も相対的に低く、社会的・経済的な地位がどんどん落ちていっている人たちがいる。後者の人たちは自分の経済的・社会的アイデンティティが切り崩されている中にあって、自分の尊厳を保つためにナショナルなアイデンティティに頼らざるを得ない。なぜなら、金持ちであろうと貧乏人であろうと「イギリス国民である」という点においては平等である、との感覚が自分の尊厳を担保するからだ、と分析されています。ラストベルト(アメリカ中西部の斜陽産業が集中する地域)の人たちがトランプ支持に回っている現在のアメリカでも、同じことが起きているといえると思います。

 日本は必ずしもそうではないかもしれませんが、多くの人々の経済的・社会的アイデンティティが揺らいでいることは確かだと思います。特に「経済大国日本」の幻影を追い求める人たちは、すでに経済的に日本よりも成長した中国・韓国を見て、「自分たちのナショナル・アイデンティティを強化しないといけない」という心理になった結果、こんにちのような状況がある――と説明することはできるのではないかと思っています。

――日本でも、外国語ができたり、海外に気軽に出られる経済力があったりする人は、いわゆるネトウヨにはならない印象があります。私の周囲では「今の日本が本当に嫌だ、海外に逃げようかな」と話している人は少なくないのですが、実はそう考える人は日本全体で見れば少数派なのかな……とも思うんです。

将基面 確かに言語の障壁は存在しますが、たとえば第二次世界大戦中には東ヨーロッパからアメリカへ、英語はあまりできない人たちがたくさん逃げてきたわけです。だから、最初から言葉ができなければいけないということはないんですよ。行ったら行ったでどうにかなる。『日本国民のための愛国の教科書』の中では、経済学者アルバート・ハーシュマンが提唱した忠誠心の理論から「離脱」と「発言」という2つのキーワードを使って、このあたりのことを説明しています。つまり、国がうまくいっていない場合、「離脱」して望ましい別の国に移住するか、とどまって政権批判の「発言」をして国を改善しようとするか、2つの選択肢が考えられます。そこで政権批判の「発言」をする人たちが国に忠誠心を持つ人たち、つまり愛国者たちだ、というのです。

 世界的に見ると、日本人には「離脱」するケースが非常に少ない。日本人なら日本に住み続けるのが当たり前だと思っている人がとても多いのですが、それは世界的な視点からすれば決して当たり前じゃないんだというのは、『日本国民のための愛国の教科書』に込めたメッセージのひとつではあります。

――ただ、正直いまの日本では、逃げもしないし発言もしない、自国の欠陥を認めてこれをなん とかしようという姿勢もない人が多いんじゃないかという絶望感があります。

将基面 自分の国がどのように運営されているかについて、「何かがおかしい」という問題意識をまったく持たないのであれば、その時点で一市民として公共的な問題にまるでコミットしていないといえます。結局のところ、自分の利益、自分が心地よく思えることにしか関心がない、ということです。政治思想史に「暴政(tyranny)」という概念があるのですが、ただ単純に暴君ネロや独裁者ヒトラーのような暴虐非道な政治を意味するのではありません。政治思想史における「暴政」とは、政治的指導者たちが、共通善(自由や平等と、そうした価値の実現を保証する政治制度)の実現を放棄して、自分たちの私益だけを追求する政治のことです。一言でいえば、共通善を破壊する政治です。そのような暴政にあって、市民一人ひとりが暴君を批判せず、自分の自己利益にしか関心がないということになれば、市民社会は当然立ち行かなくなる。なぜなら、一般市民たち自身が共通善の実現に向けて努力しないのですから、市民たちもまた小「暴君」に成り果てているということです。

 アダム・スミス由来の近代経済学が理論的に前提としている人間(ホモ・エコノミクス)とは、そういう自己利益だけを追求する利己的なものだとしばしば言われています。しかし、近代経済学の始祖たちが生きた社会とは、共通善を実現しようと努力する市民が運営する近代市民社会なのであって、公共的な問題にはまるで関心がない人たちの社会を前提としていない。そういう意味では、各人が自分の利益や快適さにしか関心を持たない、今の日本社会の状況というのは、極めて深刻に腐っていると思います。にもかかわらず、そこから逃げ出そうとする人があまりにも少ない。僕はニュージーランド在住なのですが、外から見ていてそれが不思議で仕方ありません。

――むしろ、もっとさっさと逃げるべきだと?

将基面 僕が住んでいるダニーデンの地元紙を読んでいると、2カ月に一度くらい、新たにニュージーランドの市民権を得た人たちの名前と出身国が掲載されるんです。最近は、ブレグジットで揺れるイギリスからの移民が続々と増えている。その人たちはもちろん、イギリスに対して極めて深刻な危機意識を持っているわけです。一方でニュージーランドは今の世界でまれな中道左派の政権があって、政治や社会を語る場においてナショナリズムがあまり重要な役割を果たしていない。そういう意味でオープンな社会なので、新たに入ってくる人を拒絶する傾向が少ないんですね。だから居心地が良く、もともと住んでいる人たちも新たに入ってくる人たちも社会に貢献し、政治に参加しよう、つまり、共通善の実現にコミットしようという意識が出てくるんだと思います。

――日本人が国外に出ていく考えがあまりないということは、たとえば移民や外国人労働者など、新たに日本に入ってくる人に対して寛容でないことと裏返しの関係なのでしょうか?

将基面 それはあるでしょうね。ナショナル・アイデンティティが強ければ強いほど、均質であれば均質であるほど、寛容度はどんどん下がります。「寛容」という概念も難しいものです。「なんでもあり」は「寛容」ではない。「寛容」とは「どこまでだったら受け入れるか」という話なのです。共和主義的な観点からの寛容でいえば、移住してきた社会で政治的・社会的な価値にコミットする、つまりルールを守って公共的な社会・生活に参加する限りにおいては、移民たちを受け入れる。必ずしもその人たちが日本語をよくしゃべれなかったり、文化的に日本的慣習に従った生活をしていなくてもよしとする、となります。これとは反対に、ナショナリズム的な立場から見たとき、寛容に受け入れる限度とは、外国からの移民であっても日本の文化をきちんと理解して、日本語を十分に話すことができ、ほかの日本人が生活するのとまったく同じようにしないといけないということになる。「寛容」の質も程度もまったく違いますが、僕は共和主義的な寛容のあり方のほうが、ひとつの市民社会を運営していく上では望ましいと思っています。

――しかし、この状況下で海外に逃げようと考えられる人たちが実際に出ていってしまったら、日本社会はもっとダメになっていくのではないでしょうか?

将基面 そうですね。能力や意欲がある日本人が大挙して外に出ていってしまったら、国の衰退にいよいよ拍車がかかるでしょう。しかし、日本という国がいよいよ衰退して立ち行かなくなったときに、そうした国外で活躍する日本人たちが再結集し、協力し合って日本を立て直す、ということはあってもおかしくないと思います。明治維新の際に、薩摩と長州という、それこそ日本列島でいうと端っこにいた人たちが古い体制を倒したのと同じように、外に出ている人たちが新しい国造りをする。その意味では、いま若い人たちができるだけ外に出て自分を鍛え、市民社会の中で生きるということを深く理解した上で将来の国難に備えるという方策はあってもいいんじゃないかと思います。あまり政府が聞きたい話ではないでしょうが(笑)。

――長期的に見ると、確かにそうですね。でもやっぱり、目前の社会に絶望しながら生きるのはつらいので、短期的にどうにかならないのかなと思ってしまうんですが……。

将基面 僕はあんまり焦っても仕方ないと思います。保守派は、これまで30年以上かけてこうした状況をつくってきた。リベラル派は、目先の「日本スゴイ」的な浅薄な愛国心が支配する状況を打ち破ることばかりにかかずらうべきではないと思うんです。政治闘争に勝つ勝たないの話ではなく、50年100年というタイムスパンでこの国をどうすべきなのか、という視点が必要なんじゃないでしょうか。自由を守るという立場からあくまで理性的な議論にこだわれば、民衆扇動のレトリックを使うことに長けている保守派に政治的闘争では敗れることになるでしょう。でもその結果、行き着くところまで行き着いたら、また揺り戻しがかかると思う。そこまで見据えた上で、自分たちがやっていることは捨て石なんだというような覚悟が、リベラル派にはある意味で求められていると考えています。

――いずれ来る揺り戻しのために、今は準備しておくべきだ、と。

将基面 それを期待しないと、やっていられないじゃないですか(笑)。国土が焦土と成り果てた1945年8月15日の後でも、30年たったら一応の繁栄を築くことはできたわけです。だから揺り戻しを期待するより仕方ないですよ。

●将基面貴巳(しょうぎめん・たかし)
1967年神奈川県横浜市生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。シェフィールド大学大学院歴史学博士課程修了(Ph.D.) 。研究領域は政治思想史。現在はオタゴ大学人文学部歴史学教授。英国王立歴史学会フェロー。『ヨーロッパ政治思想の誕生』(名古屋大学出版会)で第35回サントリー学芸賞受賞。著作に『言論抑圧 矢内原事件の構図』(中公新書)、『政治診断学への招待』(講談社選書メチエ)、『反「暴君」の思想史』(平凡社新書)。最新刊は『日本国民のための愛国の教科書』(百万年書房)、『愛国の構造』(岩波書店)。

このニュースに関するつぶやき

  • ホリエモンやひろゆきのような意識が高い優秀な人間こそ今すぐに国外脱出して永久に戻って来ないで欲しい。B層相手に商売しているのでまあ無理だろう。
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  • 国外脱出なんて考えたこともありませんね。日本ほど福祉や治安が良くて、食べ物も空気も美味しい所はないと思います。言論の自由もあるし。
    • イイネ!29
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