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『ロマンスドール』は触覚を刺激するーー高橋一生と蒼井優が“触れる”ことで知る、他者の気持ち

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2020年01月29日 10:12  リアルサウンド

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リアルサウンド

写真(c)2019「ロマンスドール」製作委員会
(c)2019「ロマンスドール」製作委員会

 ふつう、映画が観客に訴えかける情報は、視覚と聴覚に対してである(もちろん、4DXなどといった五感を刺激する、いわゆる“体験型”のものを除いてだ)。ところが、『百万円と苦虫女』(2008)などの監督であるタナダユキが執筆した小説を、彼女自らが映画化した『ロマンスドール』は、この視覚と聴覚に加え“触覚”にも訴えかけてくる。果たしてこれは、錯覚なのだろうか?


 本作のはじまりは、駆け出しの“ラブドール”職人である哲雄(高橋一生)が、よりリアルな商品の制作に苦心。ラブドールとは、俗に言うダッチワイフのことだ。そんな彼が目指しているのは、ホンモノの人間の感触に近い、女性の胸の再現。彼はこの新作ラブドール制作のモデルとして現れた園子(蒼井優)と出会い、そして、恋に落ちる。


【動画】『ロマンスドール』本予告


 人が恋に落ちるのに、何か明確な理由や必然性といったものが必要だろうか。私たちの生きるリアルな世界においては、それらをみなうやむやにし、はぐらかしてみたり、あるいは語られるそれらは具体性を欠いていて、周囲の者からしたらまったく意味が分からない、なんてこともままある。にもかかわらず、ことフィクションの世界においては、そのような曖昧さを許さない向きも多いように感じる。しかし自分ごととして置き換えてみたときに、それらを理路整然と説明することなんてできやしないだろう。だがここではあえて、なぜ哲雄は園子との恋に落ちたのか、まず考えてみたい。


 そのルックスが好みだった、というのは一つあるかもしれない。“一目惚れ”という言葉もあるくらいだ。だが彼は、出会ったその日に告白をするという無謀とも思える自爆行為に身を投じている。ろくに会話といった会話も交わしていない彼が、相手の見た目だけに惹かれて取る行動の動機としては、いまいち心許ない。あるいは、彼女の所作や声に惚れてしまったということも考えられる。そういった細かな部分にも、その個人の持つ人間性というものは現れるのだろう。しかし何より、やはり彼女の胸に“直接触れた”ということが非常に大きいように思える。それはふつう自分以外の者には、そうそう触れさせることのないし、ほとんどの場合、特別な相手にしか触れさせることはないだろう。哲雄は彼女にとって、この段階ではまだ特別でない身分でありながら、図らずも一瞬にして“特別な相手”になってしまったのである。これは彼が恋に落ちるトリガーとして、申し分ないものなのではないだろうか。


 こうして哲雄は園子に恋をし、去りゆく彼女のあとを追いかけ、引き止める。だが彼は、彼女のコートの袖をつかむのが精一杯だ。“ここではまだ”、そして同時に“ここではもう”、彼は彼女にとって“特別な相手”ではないからである。しかし、出会ったばかりの相手ではあるものの、哲雄のこの好意を園子が受け入れ、早くも二人が恋人同士となるのは、彼女もまた図らずも、彼が“特別な相手”となった瞬間を感じたからなのかもしれない。それほどまでに、直接的に誰かの肌に触れる/触れられるということは、貴く重大なことのように思えるのだ。そうして二人はより親密な、直接的な身体接触へと身を委ねていくようになるのである。


 本作のキーとなるのは、二人が互いに抱えている“嘘(=ヒミツ)”だ。哲雄は自らを医療従事者だと偽り、園子と出会い、結婚後もその嘘を貫き通している。園子は園子で、自身が大病を患っていることをヒミツにし、結婚生活を続けている。しかしこの“嘘(=ヒミツ)”自体は、じつは大したことのないように思う。それ以上に問題なのが、嘘をつきながら他者と繋がり(触れ合い)続けることは難しいだろうということだ。だからこそ二人は心のすれ違いだけでなく、それを象徴づけるように身体的な触れ合いが見られなくなっていくのである。


 人々のコミュニケーションの取り方はさまざまだ。言語によるコミュニケーションもそうだが、「言葉にしなくても分かる」という方々も世の中にはいるらしい。それはそのカップルの間だけで成立するものなのだろう。そんななかでも、やはり直接的に肌と肌を通して温もりを伝え合うこと以上に、高度かつストレートなコミュニケーションの取り方はないのではないかと思う。『ロマンスドール』にみる“触れる”という行為は、もともと他人であったはずの誰かを理解したいという気持ちの表れでもあるように思えるし、そういった瞬間が、この映画にはいくつも収められている。互いが互いを想えば想うほど、彼らは肌に触れ合う。そこから感じ取ることのできる親密さが、私たちの“触覚”を刺激するように思えるのだ。映画のなかにみた彼らの“愛”を信じるならば、これは錯覚ではないはずである。


(折田侑駿)


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