あの駅には何がある? 第17回 都市の西洋化を推進した三島通庸のDNAを受け継ぐ 山形駅(JR奥羽本線・山形新幹線)

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2020年01月30日 11:32  マイナビニュース

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宮城県仙台市は東北地方で唯一の政令指定都市でもあり、都市の規模も商圏も大きい。昨今、東北地方は仙台に一極集中する様相を呈している。仙台に隣接する山形県山形市も生活・ビジネスに大きな影響を受けつつある。

山形市の玄関でもある山形駅は、奥羽本線の列車が発着する。現在の山形駅は山形新幹線の開業とともにリニューアルを果たし、東西を結ぶ自由通路は幅広くて歩きやすい。東西ともに大きなペデストリアンデッキが設けられているのも特徴だ。

路線系統で見るなら、山形駅は奥羽本線しか発着しない。しかし、一駅隣の北山形駅から分岐する左沢線、二駅隣の羽前千歳駅から分岐する仙山線の列車も山形駅から発着する。また、ミニ新幹線ゆえに奥羽本線と同等に扱われる山形新幹線の停車駅でもある。それらの列車によって、山形駅は多くの乗降客が利用する。

山形県の県庁所在地でもある山形市は、室町時代から江戸時代初期まで最上氏の城下町として栄えた。現在、山形城の一帯は霞城公園として整備されている。霞城公園の堀を利用するように線路が敷かれており、江戸時代の遺構を活かしながら近代化が図られてきたことを窺わせる。

山形は庄内平野を擁する米どころだった。農業が主要産業だった江戸時代は、大いににぎわう。また、最上川の河口に位置する酒田・鶴岡は北前船の中継地としても繁栄した。しかし、内陸にある山形市域は北前船による恩恵が少なかった。山形に大きな変革の波が訪れるのは明治以降からだ。明治維新で頭角を現した大久保利通の右腕だった三島通庸は、酒田県令(酒田県は後に鶴岡県と改称)として派遣された。インフラを整備することで都市を近代化できると考えていた三島は、着任すると病院や学校といった公共施設を次々と建設した。

病院や学校といったインフラ整備だけだったら、公共福祉の充実という見方もできる。もちろん、三島の頭の中にはそうした考えもあっただろう。しかし、三島は病院や学校を欧米に倣って洋風建築で建てまくった。

開国から日が浅い当時、西洋の技術も知識も十分には浸透していなかった。それらを実践できる大工もいない。三島が取り組んだ洋風の建物群は、見よう見まねで建てた。こうした西洋を模倣した明治初期の建築物は、擬洋風建築と呼ばれる。三島は擬洋風建築の第一人者でもあった。完全な洋風建築ではないものの、これまでとは違う異色の建築物を目の当たりにして市民たちは大いに驚いたことだろう。そして、わが町が異国のような近代化した都市と錯覚した。三島は視覚に訴えることで、市民に心理的な影響を及ぼし、それが近代化を進めると熟知していた。

1876年、山形県・置賜県・鶴岡県の3県が統合して山形県が発足。初代県知事に三島が就任した。県知事に就任した三島は、同じように建築物の西洋化に取り組む。三島は手始めに県庁舎を洋風建築にした。県庁舎が洋風建築で建てられると、周辺の官庁街もそれに倣って洋風建築が溢れていった。そして、県庁舎を中心に繁華街が形成されていく。

明治から令和にいたる150年の歳月を経ても、山形市の繁華街は七日町一帯に広がっている。このほど経営破綻が発表された山形県唯一の百貨店・大沼も七日町に店舗を構えていた。七日町は三島が構想した県庁舎が中心軸になっていた。

鉄道から自動車に交通の主役が交代した地方都市では、バブル崩壊以降に郊外化が一気に進んだ。そのため、どこの都市でも郊外に大きなショッピングセンターがつくられ、旧来からの中心市街地は苦戦を強いられている。山形市も同様だった。

山形市の中心街にあった百貨店・大沼の経営難は、平成の30年という国内全体を覆った長期の景気低迷やビジネスモデルが時代に適合しなくなったことなど、複合的な要素が重なって起こった事態でもある。破綻の理由をひとつに絞ることはできない。

大沼と同じく、山形市のにぎわいを牽引してきた十字屋も2018年に閉店している。地元の雄でもありバスターミナルを併設している山交ビルも過去の栄光には遠い。これらの商業施設は駅から離れているとはいえ、徒歩で5〜15分圏内。地方都市における鉄道や駅の訴求力が低下していることは否めない。

1992年、山形新幹線が開業して山形駅から東京駅までがスムーズに移動できるようになった。山形新幹線の開業は、首都圏からの観光客需要を増加させるとの期待が高まり、山形活性化の起爆剤になると目されていた。その一方で、山形新幹線はミニ新幹線方式を採用した。そのため、奥羽本線の福島駅−山形駅間の線路は1067ミリメートルから1435ミリメートルに改軌された。改軌により、同区間は軌間が異なる在来線の乗り入れが不可能になった。山形市にとって山形新幹線開業の代償は大きかった。

それでも、山形新幹線の乗り入れを機に東口はペデストリアンデッキが整備され、多くのバスが乗り入れる駅前広場も設けられた。駅を中心にして山形の活性化が模索された。しかし、最近では駅前広場から仙台駅方面に向かうバスが頻繁に発着するようになっている。そうした光景を目の当たりにすると、山形市が仙台圏に組み込まれつつあることを実感させられる。

三島が山形に残した擬洋風建築は、現在も移築されて山形市の観光産業に寄与している。その代表的な建築物が、霞城公園内に保存された旧済生館病院本館だ。外観が3層楼なのに実は内装が4層楼、1階が8角形なのに、2階が16角形という不思議な旧済生館病院本館は、三島が命じて設計・建設された。旧済生館病院本館は1911年の大火で市役所が類焼した際、市庁舎が再建されるまで臨時庁舎として代用される。

三島のDNAを受け継いだ山形市民は、三島が離任した後も洋風建築を踏襲した。市役所を類焼した1911年の大火は県庁舎も焼失させたが、新しい県庁舎はイギリス・ルネッサンス風の瀟洒なレンガ造で再建された。再建された2代目の県庁舎は、1975年に3代目庁舎が完成したことでの役目を終えた。庁舎としての役目を終えたが、文化的な価値が高いとされて現在は山形県郷土館(文翔館)として保存・活用されている。

また、文翔館の近くにある師範学校本館は、1878年に開校した貴重な擬洋風建築物でもある。現在は、山形県立博物館教育資料館として保存・活用されている。山形県郷土館と山形県立博物館教育資料館は、徒歩10分の距離にある。その間には、三島神社がひっそりと鎮座している。三島神社は三島通庸を祀る神社ではなく、山形県知事として赴任した三島通庸がたまたま三島神社を知り、同名のよしみから社殿を改築するなど手厚く保護した。境内地は広くないが、門柱には三島の息子で日本銀行総裁を務めた三島弥太郎の揮毫が残る。

明治期以降の山形市は、駅東側が重点的に市街地化された。その際、公園などの都市インフラも整備された。山交ビルの裏手にある第二公園は、こぢんまりとした静かな公園だ。意識しなければ通り過ぎてしまいそうになるが、園内には奥羽本線で活躍したSLが静態保存されている。

一貫して開発が進められた駅東側に対して、駅西側に広がる霞城公園周辺はほぼ手付かずのまま平成を迎えた。山形新幹線の開業を機に、ようやく西口開発の機運も高まる。そして、2001年に官民複合型の高層ビル「霞城セントラル」がグランドーオープンした。霞城セントラルは山形駅西側の活性化を期待されたランドマークビルだったが、竣工してから約20年の歳月が流れた現在も、山形市のにぎわいは駅の東側にある。(小川裕夫)
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