『スカーレット』で水橋文美江が描く同業夫婦の苦悩 “朝ドラ新時代”を感じさせるヒロインの在り方

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2020年02月14日 06:02  リアルサウンド

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『スカーレット』(写真提供=NHK)

 連続テレビ小説『スカーレット』2月11日放送分では、喜美子(戸田恵梨香)と元・夫の八郎(松下洸平)が久しぶりの再会を果たした。


 お風呂を炊けるくらいのたくさんの手紙をもらっていたからとはいえ、何年も会っていなくとも再会すれば「おう」「おう」のやりとりだけですぐに元の関係に戻れる父子と違い、夫婦はやっぱり他人。


【写真】穴窯で佇む八郎(松下洸平)


 終始敬語で話す2人のぎこちなさにも、留守番電話のくしゃみだけで喜美子とわかったのに、折り返さない八郎にも、「もう終わったこと」と自身に言い聞かせるようにきっぱり言い放ち、去る八郎を外まで見送りもせず立ち尽くす喜美子にも、寂しさやモヤモヤした思いを抱いた視聴者は多かったことだろう。


 養育費を送り続け、大学まで進学した武志。八郎にとっては、親の務めの終わりであり、喜美子との唯一のつながりが終わる、本当の意味でのお別れだったはずだ。


 八郎が去り、夕日が静かに差し込む誰もいない居間に1人佇む喜美子の悲しさに、どちらが悪いわけでもないのになぜ2人が別れなければいけなかったのかと改めて考えてしまう。しかし、そうした因果こそが『スカーレット』が描こうとした大きなテーマの一つ、「同業夫婦の心強さと困難さ」なのだろう。


■脚本家・水橋文美江が描いたもう一つの同業夫婦


 ここで思い出されるのは、『スカーレット』の脚本家・水橋文美江が同じNHKで手掛けたドラマ『みかづき』だ。
 小学校の用務員でありながら、落ちこぼれの子どもたちに勉強を教える大島吾郎(高橋一生)と、自由で豊かな教育の可能性を塾に見出したシングルマザーの赤坂千明(永作博美)がタッグを組み、夫婦で塾を作っていく。しかし、塾経営を拡大し、時代の流れにのって「進学塾」化させていく千明と、学補習塾であり続けようとする吾郎の間で意見が衝
突。


 吾郎は「学校が太陽なら、塾は月のよう。うまく学校で日が当たらない子たちに月の光を照らすような塾を作ろう、君はそういったじゃないか」と教育者としての理想を語り、それに対して千明は経営者として反論。どちらの言い分も間違っていないが、吾郎は去る。そして、塾は発展を続けるが、娘たちの反抗や、塾講師たちのボイコットなど様々な問題が起こり、精神的に追い込まれたところに吾郎が戻り、再び家庭と塾とがまわり始める様子が描かれていた。二人の意見の衝突と、悲しい別れは『スカーレット』にも引き継がれているが、しかし結末は大きく異なる。


■歴代の朝ドラで議論されてきた同業夫婦たち


 では、過去の朝ドラの同業夫婦はどうか。古くは『ふたりっ子』で描かれた棋士夫婦が思い出される。


 ヒロイン・香子(岩崎ひろみ)がプロの棋士になることを決意するきっかけが、将棋のライバル・森山史郎(内野聖陽)に負けたことであり、後に2人は結婚。しかし、香子の妊娠がわかると、母子の体を気遣う史郎が、勝負師として目覚めた香子とすれ違いはじめ、やがて香子が流産してしまう。


 そのショックから、将棋を完全に忘れて専業主婦になろうとする香子の姿を見かねた史郎が自ら別居を決め、後に香子は将棋に専念するため自ら離婚を申し出る。そして、離婚した2人は、かつて目指してきたタイトル争いで対決→再びプロポーズするが、香子に敗れ、プロポーズも失敗。別々に暮らすほうが良いという結論に至る。


 この作品での同業の夫は、ヒロインにとって才能を開花させ、過酷な運命によって一番大切なもの=「将棋」を再確認させ、その道を真っ直ぐ突き進むために背中を押す存在でもあった。このあたりは『スカーレット』にも近い部分があるだろう。


 また、朝ドラ前作『なつぞら』では、失業中の同業者の夫・一久(中川大志)が、家事全般を行い、妊娠・出産してもアニメーターとして活躍する妻・なつ (広瀬すず)を全面的にバックアップする。この流れは、一久がもともと理屈屋であり、理屈通りに「男女平等」を貫こうとする姿勢あってのものだが、育児のために仕事をセーブし、オムツまで縫う夫の姿は、朝ドラ100作目が提示した新しい同業夫婦のあり方であった。


 また、同業夫婦のヒロイン(貫地谷しほり)の出した結論に批判が続出したのが、落語家を描いた『ちりとてちん』だ。ヒロインは落語家をやめ、落語家一門のおかみさんになるという選択をする。


 これには「女は自分の道を進むのではなく、男を支えろというのか」という怒りの声が噴出した。実は、この選択の本当の意味は、自分のためでも、夫のためでもなく、「先人たちが築いてきたものを後世に残していく、その流れに自分も加わる」というもっと大きな視野による、歴史のダイナミズムやワクワク感を覚える結論のはずだった。しかし、朝ドラの場合は、どうしても女性が自ら活躍し、輝かないと、納得いかない女性視聴者が多く、「男を支えるだけ」と、サポートする側が常に下に見られて批判されてしまう。そこにいまだに続く女性たちの窮屈な思いが込められているのだろう。


 その点、『スカーレット』は自分の道をしっかり貫いた。そして、その一方で失われたものもしっかり描いている。成功して万歳では終わらない「負」の部分を描くことで、女性が仕事をしていく困難さと、本当の意味での平等を描いた。


■働く女の情熱や業がたどり着いた結論


 喜美子がまだ何者でもないとき、自由な発想と、驚異的な集中力で陶芸に向かうその姿に「隣にいられるのはしんどい」ともらしていた八郎。穴窯も最初は背中を押してくれたのに、喜美子が薪代に子どもの将来のためのお金までも注ぎ込もうとすると、大反対。これはかつてお米を買うために大事にしていた絵を売ったことのある、貧しさの辛さを知る八郎だからこその正論である。


 しかし、1足12円でストッキングを繕い、一生懸命お金を貯めてきた喜美子だって当然、貧乏の辛さを忘れているわけではない。にもかかわらず、薪代のために借金までして全てを注ぎ込もうとしている。まるで炎に取りつかれてしまったように。その恐ろしいほどの情念には、呆れや不安、焦り、羨ましさもあったろう。それが「僕にとって喜美子は女や」のセリフで吐露される。しかし、これは喜美子と自身に向けた、無意識の嘘だろう。


 普通の夫婦であれば、元に戻れるタイミングはいくらでもあった。まずは「金賞をとって、陶芸家として認められてから穴窯に挑戦する」という八郎の案に喜美子が従うこと。あるいは、喜美子が7度目の釜炊きで成功した後に、あっけらかんとして八郎を迎えに行くことだって、できたはずだ。


 でも、そこで行かなかったのは、すでに喜美子が「何をするにも父に許可をもらい、結婚してからは夫に許可をもらう」喜美子ではなくなっていたから。女の弟子・三津(黒島結菜)との添い寝を目撃し、ショックを受けてなお、穴窯に向かうことを選んだ時点で、喜美子はすでに「妻」や「家庭人」であることよりも「陶芸家」を選んでいたのだろう。また、窯炊きの成功を見に来た八郎が、そこで家に戻っても良かったわけだが、声もかけず、作品を見つめ、涙を流し、夫婦ノートに「すごいな」と3回書き置きして去っていく。同業夫婦だからこその悲しみである。


 そして、照子に「目を覚ませ!」と叱られてなお、薪を拾うときの風の気持ちよさを語り、「1人もええなあ」と言ってのけた喜美子のセリフには、ゾクッとした。八郎が三津との不倫で出て行ったのなら、嵐が去れば、2人は元に戻れるかもしれない。しかし、この境地に到達した喜美子を止めることはもう誰にもできない。


 この言葉の持つ恐ろしさは、陶芸に限らず、あらゆる同業夫婦の、しかも、ワーカホリック気味の女性には特に響くはずだ。


 自分自身、夫と同業であるために、この心情は悲しいながらも理解できる。「もし一人だったら、遠慮なくもっとガンガン働けたのに」「もっとチャレンジングな仕事も引き受けられるのに」などと思ったことがある女性はたくさんいるだろう。


 まして、同業夫婦というのは、一番の理解者である半面、一番のライバルでもある。


 仕事の相談もするし、助けてもらうこともあるし、お金の良い仕事がきたときは共に喜ぶ。しかし、お金にはならなくとも面白い仕事を相手がしているときは、嫉妬もするし、「自分のほうがもっと面白く、うまくできる」とたぶんお互いに思っている。


 『スカーレット』の場合は、かつて作品に挑む八郎と、食器を量産し、生計を立てていた喜美子とのバランスが、途中で逆転してしまった。お金の心配をするのが八郎になり、喜美子は「芸術」を追求する。なんとも切ないが、その「逆転」は、同じ女性としては羨ましく思えるところもある。自分が好きな道を進み、相手が支えてくれるとしたら、それは理想的だが、そこには相手の思いが置き去りにされている。


 従来の朝ドラヒロインたちの多くは「支える」ことに疑問を抱いていなかった。しかし、『スカーレット』ではいつの間にか立場が逆転し、支える側にまわった八郎が、結局は去っていく道を選んだ。


 働く女の仕事への情熱や業が、たどり着いた「一人になる」という結論に、朝ドラ新時代を感じずにはいられない。


(田幸和歌子)


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