ホーム > mixiニュース > コラム > 「がん哲学外来」で言葉を処方する医師・樋野興夫<現代の肖像>

「がん哲学外来」で言葉を処方する医師・樋野興夫<現代の肖像>

1

2020年02月17日 16:00  AERA dot.

  • 限定公開( 1 )

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

AERA dot.

写真「ほっとけ、気にするな」「人生いばらの道、されど宴会」など数々の「言葉の処方箋」を贈る(撮影/岸本絢)
「ほっとけ、気にするな」「人生いばらの道、されど宴会」など数々の「言葉の処方箋」を贈る(撮影/岸本絢)
「病気であっても、病人でない」「八方ふさがりでも天は開いている」。がん哲学外来を提唱した樋野興夫さんは、そんな言葉を贈り続ける。いま、樋野が始めた「がん哲学外来メディカル・カフェ」は全国約170カ所まで広がり、多くのがん経験者や家族らが集い、力を得る。無医村で育ち病理医となった樋野は、なぜ「哲学」に目覚めたのか? 温かなまなざしが育まれた軌跡をたどると、ある「芯」が見えた。

【ぎっしり文字が書かれている樋野の手帳はこちら】

 紺色のややくたびれた感じのスーツに青いワイシャツ、ネクタイも紺色で細めと決まっている。

「近所に買い物に行くときもスーツだよ。ネクタイは1本。毎日締めていると、2、3年で擦り切れてしまう。ワイフに注意されるんだけどね」

 樋野興夫(ひの・おきお 65)は、故郷の出雲地方のなまりで、ゆったりと語る。松本清張の『砂の器』でも知られるように、出雲は島根県なのにズーズー弁である。物腰は柔らかく、自身について「暇げな風貌」という表現を好んで使う。

 樋野は病理医である。同時に、2000年ごろに「がん哲学」を提唱し、08年に「がん哲学外来」を立ち上げた。以来、数千人のがん患者や家族らと面談して、さまざまな言葉を届けてきた。

「言葉の処方箋(せん)だよ。無料で、副作用がないよ」

 19年11月30日、東京・お茶の水で開かれた「がん哲学外来 お茶の水メディカル・カフェ」の個人面談に立ち会った。会場はお茶の水クリスチャン・センター8階のチャペル。机はなく、いすが向かい合わせに置かれている。樋野はいつもの服装で、カルテもない。「聴診器は対話」という。

 50代後半ぐらいだろうか。初めて来たという女性は最初、こわばっていた。胸に腫瘍(しゅよう)があるが、精密検査を受ける決断がついていない。

「純度の高い専門性を持った、がん専門の病院で診てもらって。曖昧(あいまい)なままだと一日中悩むよ」

「そうなんです」

「病気になっても、病人ではないよ。自分でコントロールできることには全力を尽くし、コントロールできないことには一喜一憂しない」

「この10カ月、もやもや悩んでいて。純度の高い医療に任せるところは任せて、自分にできることに集中する。分けなきゃいけないんですね」

「そういうことだね。そうすると、たとえ問題が解決しなくても、悩みは解消するよ」

「すっきりしました。夫が『どうせ人は死ぬんだから』と言うので、恨んでいたんです。でも、怒りも収まりそうです。違う自分になれました」

 いつの間にか、女性は進むべき道を自ら見いだしている。たった十数分で、表情が一変していた。

 日本では、2人に1人が生涯にがんになり、年間100万人ががんと診断される。がんは1981年以来、死因の第1位でもある。

 人は自分や家族ががんになると、戸惑い、ときに死を意識する。人生を振り返り、今後どう生きるかを考える。そこで、がんを科学的に、人生を哲学的に学び、がんと共存していく。大まかに言えば、それが「がん哲学」である。樋野は「生物学の法則と人間学の法則を融合した」と言う。

 各地で毎日のように行う講演でも、面談同様に、ヒントになりそうな言葉を繰り出す。

「八方ふさがりでも、天は開いているよ」

「夢を追いかけると逃げる。持ち続けると、夢から寄ってくる」

「困っている人とは一緒に困る。犬のおまわりさんだね」

「人生には、(過去の経験が)もしかするとこのときのためだったのでは、と思うときが来る」

「(象の横に子どもが座る写真を見せて)支えることはできなくても、寄り添うことはできるよ」

「ゲーテは言ってるよ。『涙とともにパンを食べた者でなければ人生の味はわからない』と」

 19年12月には、東京都文京区の小学校で6年生に授業をした。大人向けとほぼ変わらない、小学生には高度な内容だ。だが、感想文を読むと、

<「がん」も個性という話を聞き、考え方が変わった気がします>(女子)

<「病気であっても普通に接する」と聞いて、「がんと共存」し、心配しすぎないようにすることが大切だと思いました>(男子)

<特に印象に残ったのは人との関わり方です。人を評価することはやめようと思います>(男子)

 などと、それぞれの感性で、自分なりに受け止めたことがわかる。樋野はこう語った。

「子どもたちの中に、将来残る言葉が、ひとつでも二つでもあればいい。僕の授業は、大学生は半分寝る。でも、小学生は全員、起きてるよ」

 樋野には40冊近い著書がある。何冊かは英語、中国語、韓国語、ベトナム語に翻訳されている。

 1954(昭和29)年3月7日、樋野は、出雲大社から北へおよそ8キロにある島根県大社町(現出雲市)の鵜峠(うど)で生まれた。「出雲風土記」にも登場する、日本海に面した小さな村だ。

 姉が2人いる。興夫という珍しい名前は、「家を興す」という願いを込めて、船乗りだった祖父の卓郎が付けた。母の寿子(としこ)の兄2人が戦死したのだ。父の廉平(れんぺい)は婿養子で、貨物船やタンカーの機関長をしており、年に1、2カ月しか帰らなかった。家は広く、ニワトリを飼い、ヘビやイノシシが部屋に入ってきたこともあったらしい。

 村に医師はいない。樋野が病気になると、母が背負い、トンネルを抜けて数キロ先の鷺浦(さぎうら)にある診療所まで連れていった。山道を母の背中で揺られながら、3歳のころから、子ども心に「大きくなったらお医者さんになろう」と決めたという。(文/中村智志)

※記事の続きは「AERA 2020年2月24日号」でご覧いただけます。

    あなたにおすすめ

    前日のランキングへ

    ニュース設定