『デジモンアドベンチャー』とは何だったのか “無限大の夢のあと”に斬り込む最新作に寄せて

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2020年02月19日 10:02  リアルサウンド

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『デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆』(c)本郷あきよし・東映アニメーション

 同級生の友人とカラオケに行けば、誰かが必ず和田光司の「Butter-Fly」を歌う。私は、「そういう世代」のひとりである。


 1997年、後に世界累計800万個以上を売り上げる携帯型ゲーム「デジタルモンスター」が発売された。タマゴから生まれるデジモンを育て、戦わせ、進化させる。「手の中の小さなデバイスでモンスターを飼う」独特の体験は、「戦うたまごっち」として大ヒットを記録した。小学校で「持ち込み禁止」のお触れが出回ったのを、今でもよく覚えている。


 その勢いは衰えることなく、「デジタルモンスター」を原案とするアニメ『デジモンアドベンチャー』が1999年に放送を開始。八神太一たち8人の「選ばれし子どもたち」が、各々のパートナーデジモンと共に大冒険を繰り広げる。ウォーグレイモンの雄姿に拳を握り、ピノッキモンの最期に震え、パンプモンとゴツモンに泣き、宙を舞う帽子に胸を打たれ、島根にパソコンがないことを嘆く。「そういう世代」の子どもたちは、あの世界観に大いに熱中し、自分たちもいつか「選ばれる」のではないかと、空想を膨らませたものだ。


●「そういう世代」にとってのマスターピース


 『デジモンアドベンチャー』のベースには、太一たちが織り成すジュブナイルなドラマがある。デジタルワールドという異世界での冒険を通して描かれる、勇気や友情の物語。そして、それに付随するモンスターたちの圧倒的な魅力。「恐竜」「怪獣」「ロボット」「幻獣」「マスコット」「クリーチャー」……多種多彩な姿を披露する、「進化」というギミック。ここぞという場面で巨体に進化し、そして戦いが終わると元の姿に戻るというパターンは、さながら特撮ヒーローにおける「変身」の魅力をも兼ねていたのだ。


 進化のシーンで流れる宮崎歩の「brave heart」、あの「ギュインギュインギュイーーン」のイントロを耳にするだけで、条件反射のように胸が高鳴る。それは、中学・高校に進学しても、大学生となり親元を離れても、社会人として働くようになった今でも、全く変わらない。そう、『デジモンアドベンチャー』という作品は、「そういう世代」の人間にとって紛うことなきマスターピースなのだ。ひどく神格化されているといっても過言ではない。


 そんな強烈なノスタルジーに、放送開始20周年を迎えた2020年、ひとつのピリオドが打たれる。「八神太一たちの最後の物語」と銘打たれた映画最新作、『デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆』だ。


 ストーリーは、太一たちの冒険の夏から10年以上が経った2010年が舞台。太一やヤマトは大学生となり、それぞれの進路に悩む日々を送っていた。そんな中、世界中の「選ばれし子どもたち」の周囲で、ある事件が発生。その原因とされる謎のデジモン・エオスモンを追い、太一とアグモンたちの共同戦線が幕を開ける。しかし、その果てに待ち受けていたのは、「選ばれし子どもが大人になるとパートナーデジモンはその姿を消してしまう」という、衝撃の真実だった……。


 本作に、細田守監督による名作『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』が強い影響を与えていることは明白だろう。インターネットの世界に現れる謎の悪性デジモンと、それがもたらす脅威。招集が飛び交う選ばれし子どもたちのコミュニティに、急造チームによる討伐作戦。「世代」の人間であれば、慣れ親しんだプロットに否が応でも目を奪われる。


 また、アニメシリーズの放送前日に公開された1999年の映画『デジモンアドベンチャー』も、その存在感を発揮。予告映像でも印象的に流れているモーリス・ラヴェル作曲のボレロや、巨大な鳥の姿をしたデジモン・パロットモン。ビルの谷間でがっぷりとぶつかりあう2体のデジモンは、まるで怪獣映画を観たようなあの時の興奮を鮮明に思い起こさせる。街中に溢れる有象無象の電子音も、確かなスパイスだ。


 そういった濃厚なファンサービスの上で繰り広げられるのは、「パートナーデジモンとの別れ」というテーマである。


●“無限大の可能性”を捨て大人になるという現実


 選択という行為は、その他に存在していた沢山の選択肢を捨てることを意味する。私たちは、進学する学校や就職する会社を決め、住む土地も、関わる人も、常に選択を重ねながら大人になっていく。人生が有限である以上、歳を取れば取るほどに、選択肢は勢いよく捨てられていくのだ。子どもの頃に感じていた無限大の可能性、あるいは万能感のようなものは、今となっては懐かしい思い出である。大人になり、沢山のものを得たと同時に、数えきれないものを「捨てざるを得なかった」。


 劇中の太一やヤマトも、まさに選択の岐路に立っている。ふたりが一緒に飲む居酒屋の壁には女性のポスターが貼ってあり、背景となる建物には喫煙所の案内が載る。大学の同級生は就職活動を始め、卒論のテーマに頭を悩ませる。「大人になる」という現実が、望もうが望むまいが、彼らに襲いかかってくるのだ。それはつまり、「選ばなかった選択肢」という名の「可能性」を捨てることに他ならない。


 「なんにでもなれる」「なんでもできる」。眼前に広がる可能性を捨てる時、選ばれし子どもたちはその存在意義を揺るがせるのだろう。幼い頃に冒険を共にしたパートナーデジモンは、「無限大の可能性」の象徴でもあった。グレイモンは、スカルグレイモンとメタルグレイモン、そのどちらに進化するのか。選択肢は、幼い子どもの手の中にあるのだ。


 だからこそ、パートナーデジモンとの別れの危機は、太一たちへのイニシエーション(通過儀礼)として機能する。


 大人になる、つまり「可能性を狭める」のであれば、その象徴であるアグモンたちと別れなければならない。あの頃の万能感をそっくり持ったまま大人になるなんて、そんなことは、哀しいことに許されないのだ。課せられた宿命を前に、太一とヤマトは自分たちだけの答えを見出せるのか。


 そして気づかされるのは、「世代」である私たちのパートナーデジモン(=無限大の可能性)こそが、『デジモンアドベンチャー』という作品そのもの、という構造である。


 1999年。あの頃の私たちの前には、数え切れない選択肢があった。どんな夢を叶えるのか。どんな人生を送るのか。そして、どんな大人になるのか。そういった形のない願望や希望、果てしない万能感が、『デジモンアドベンチャー』という作品を借りて胸に刻まれていったのだ。大人になった今、どうしようもなく同作を神格化してしまうのは、あの頃の可能性に満ちた自分への嫉妬や飢餓感がそうさせるのかもしれない。はたまた、20年越しの「ないものねだり」だろうか。


 それを見透かしたかのように、『LAST EVOLUTION 絆』は、作品そのものが「神格化されたデジモンアドベンチャー」に向き合っていく。


 なぜこの作品が一大ムーブメントを築いたのか。どうして当時の我々をあんなにも熱中させたのか。鑑賞する多くの「世代」の人間が、改めてそう問い直すことだろう。そして訪れる、『デジモンアドベンチャー』との別れ。本作が未知なる可能性をどう描き、答えを提示するのか。沢山の選択肢を捨てて大人になった私たちは、どう生きるべきか。クライマックスの「最後の進化」に込められたメッセージが、ストレートに胸に響く。


 『デジモンアドベンチャー』とは、何だったのか。


 それは、あの頃に覚えた万能感の依り代か。ノスタルジーの煮こごりか。あるいは、私たちの半生とずっと共にあった一種の呪いか。無限大の夢のあとに斬り込む『LAST EVOLUTION 絆』は、同シリーズのファンである人間こそ、見届ける必要があるだろう。(結騎了)


※宮崎歩の「崎」は「たつさき」が正式表記


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