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美しく雪化粧した53年前「八丁堀」の都電 高画質の「二眼レフカメラ」での撮影

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2020年02月22日 07:00  AERA dot.

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写真前年に制定されて初めて迎えた建国の日は降雪だった。フォトジェニックな世界を求めて桜橋停留所で撮影した都電雪景色。中判カメラとコダックトライXの組み合わせで、高画質の作品が残せた。(撮影/諸河久:1967年2月11日)
前年に制定されて初めて迎えた建国の日は降雪だった。フォトジェニックな世界を求めて桜橋停留所で撮影した都電雪景色。中判カメラとコダックトライXの組み合わせで、高画質の作品が残せた。(撮影/諸河久:1967年2月11日)
 前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は雪景色の桜橋交差点(中央区)と八丁堀(桜川)に架かる桜橋を行き交う都電だ。

【今の同じ場所は激変!? 現在の同じ場所や、貴重な別カットはこちら】

*  *  *
 今年は暖冬からか、東京はほとんど雪が降っていない。昔は2月になれば都心でも雪が舞う日が多かったと記憶しているが、年々少なくなっているように感じる。

 降雪の時節が来ると思い出すのが、1967年2月11日のことだ。

 前年に制定された「建国記念の日」が初実施された日で、土曜日にもかかわらず、祝休日となった(ちなみに、当時の土曜日は通勤も通学もあった)。その日は未明から降り続いた雪が積もり、都心部でも街並みを白銀の世界に変貌させていた。筆者の地元、中央区の通称「電車通り(現・平成通り)」を走る築地線と「鍜治橋通り」を走る八丁堀線が交差する桜橋交差点で「都電雪景色」を狙うことにした。雪支度といっても、東京の雪質は湿って重いために雨傘は必携だった。

 冒頭の写真は降雪の桜橋停留所に停まる5系統永代橋行きの都電。せっかく掲揚した日章旗が重い雪に打たれている。手前が築地線の軌道で、画面右側が茅場町、左側が新富町の方角になる。都電と並んで信号待ちしている軽三輪トラックが、コメディアン・大村崑さんのコマーシャルで一躍有名になった「ダイハツ・ミゼット」で、その後ろが日野自動車初のキャブオーバートラックTC30だ。画面右の都電とよくマッチする洋風建築が小沢産業の社屋だった。

■二眼レフカメラで雪の日の都電を撮影

 撮影時のカメラは大学時代の愛機「マミヤC33」だった。この機材は6×6判の二眼レフカメラで、上部に折り畳まれたフードを開くとファインダーが現れる。フードの上部からファインダーを覗き、構図を整え、ピントを合わせて撮影する仕組みだった。密閉されたファインダーの一眼レフカメラに比べると、二眼レフのフードは密閉されていないので、降雪時の撮影はファインダー内に水滴が混入したり、ピントグラスが結露したりするリスクもあり、はなはだ使い勝手が悪かった。低照度撮影に備えて準備したISO感度400/120サイズの「コダック・トライX」が威力を発揮して、このような高画質の作品を残すことができた。

 あの雪の日から53年、桜橋交差点にカメラを向けると高層のオフィスビルが林立していた。交差点の近隣には通勤者に供する外食店が軒を並べているが、まったく生活感のない街並みに変貌していた。ちなみに、「桜橋」は後述する八丁堀(桜川)を渡る橋名に由来し、町名としては存在しなかった。

■八丁堀の由来と桜橋の都市伝説

 このあたり一円は「八丁堀」と呼ばれており、その由来は江戸時代初期、水運を計るために京橋川の下流から隅田川を結ぶ堀割として開削されたことに始まる。この堀割の延長が河口から終端まで八丁(約870m)あったことから「八丁堀」と呼称されたようだ。この堀割の呼称が地名となり、堀の北側が本八丁堀、南側が南八丁堀になっていった。

 明治以降、八丁堀は桜川と改称された。桜川河岸の一帯には水運による洋紙業、酒造業、鉄鋼業などの倉庫が林立していた。1960年代になるとモータリゼーションが普及し、役目を終えた桜川の埋め立てが始められた。現在は下流に整備された桜川公園がわずかに往時を偲ばせてくれる。

 別カットは桜川に架けられた桜橋を渡る9系統渋谷行きと「手前で停車して」9系統の渡河を待つ36系統錦糸町駅前行きの都電だ。静止画面では「手前で停車している」都電が描写できないため語句を強調した。この写真では判別しづらいが、桜橋の橋上は複線軌道間隔が、1904年に東京市街鉄道が敷設した狭い規格のまま残置されていた。したがって、明治期よりも車幅が拡がった都電のすれ違い運転が回避された区間として、都市伝説になっていた。

■53年以上前に解体された桜橋

 この伝説を検証するために、桜橋を渡った都電の車幅を調べてみた。戦後の主力となった3000型が2195mm、6000・7000・8000型が2210mm、7500型が2200mmだった。これと比較するため、明治期の街鉄電車の車幅を調べると2184mmだった。複線軌道の内側にオーバーハングする双方の数値差は数センチに過ぎない。しかしながら、車体がローリングして振れ幅が大きくなるなど、対向電車と接触するリスクを考慮して、すれ違い運転が回避されたものと推察した。

 桜橋が撤去・平滑化されたのは1967年だった。旧都電通り(現・平成通り)には都電にかわった都バス路線、錦11系統亀戸・錦糸町駅前行きが健在だ。56年前と変わらないのは、画面中央左側の桜橋ポンプ所の建物程度で、八丁堀の背景には高層化されたオフィスビルが軒を連ねている。

 幼少時に桜川河岸で遊び、えらく怒られた記憶がある。あの頃は桜橋を渡る都電の轟音と子供たちの歓声に満ちていた。都電も消え、子供の歓声も消えた街。その将来を考えさせられてしまう昨今だ。

■撮影;1967年2月11日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経て「フリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。2019年11月に「モノクロームの軽便鉄道」をイカロス出版から上梓した。

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  • なんでも屋加代「ねぇ、八丁堀〜、最近は民放地上波で時代劇やらないんだよ、寂しくなったね。そっちで、おりくさんやお義母さんと、楽しくやってるかい?」
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