大正天皇は“変わり者”か? それとも“お茶目”か? 女官たちが語る「遠眼鏡事件」【日本のアウト皇室史】

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2020年02月22日 20:03  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

宮中では“お茶目さん”と認識されていた大正天皇(getty Imagesより)

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

大正天皇の不思議な趣味

――前回は、新米女官の山川三千子が、いきなり大正天皇からお声がけという名のナンパをされ、誰もいない廊下でジリジリと距離を詰められたという絶体絶命な場面まで話していただきました。その後結局、2人はどうなったのですか?

堀江宏樹(以下、堀江) 身の危険を感じた山川三千子は、とっさの判断で鍵のかかる小部屋に逃げ込み、そこにちょうど通りかかる人もいたため、事なきを得たそうです。ちょっと尻すぼみな展開で、がっかりしちゃいましたかね(笑)。

 ここで問題に思えるのは、この天皇の行動を“フレンドリー”と捉えるか、もしくは“ガッツキすぎている”と感じるか……。それは男性として大正天皇を見た時、彼を魅力的だと自分が感じられるかどうかで変わることですね。

 そもそも、山川が大正天皇からジリジリと近づいてこられたのは、彼女自身の写真を持っていないかと大正天皇に尋ねられ、それに対して山川が「一枚も持ちあわせておりません」と断ったりしたから。大正天皇としては、「まさかそういうわけでもないだろう、お前は嘘をついているのではないか」などと、真相を追求したくなったからでしょう。それが追い詰めるという行動に出てしまい、山川は大正天皇のことが怖くなってしまった、と。

――しかし、初対面でいきなり写真を求められても……というのはあるかもしれません。

堀江 写真問題についてですが、たしかに大正天皇のご趣味のひとつが、関係者の写真のコレクションだったことは事実です。

 コレクションには女官たちの写真もありましたが、外国人男性である公使などにも同じように初対面で「写真をくれ」と、カジュアルに頼むのが常でした。だから、特に山川三千子だけが異様な申し出を受けていたというわけでもないんです。

 たとえば別の女官で椿の局と呼ばれていた坂東登女子によると、「お上はとってもお茶目さん」であり、そのお茶目さを示すエピソードとして、外国人の公使がくると大正天皇が、「煙草やる、煙草のむか」といって煙草を差し出し、「そいでもう『写真をくれ』っと仰せんなるの、じきにね。『写真、以後、くれね』っておっしゃる」(坂東登女子の談話集『椿の局の記』)というものが紹介されています。

 なお、このセリフの部分、原文のままで引用しましたので若干、読みづらいかもしれません。

――なんだか独特な言葉遣いの会話ですね。

堀江 大正時代に女官として宮中に勤めていた坂東登女子(ばんどうとめこ)いわく、このトツトツとした感じこそ、いわば男性版の御所言葉だったそうです(『椿の局の記』)。

 また、大正天皇の話し方と昭和天皇は似ていた、とも言われています。第二次世界大戦が終戦を迎えるにあたり、昭和天皇が「玉音放送」のためにスピーチを録音させましたが、その時の天皇の話し方が独特だといって庶民は驚いたものです。しかし、宮中で、高貴な男性はああいう話し方をするほうが、むしろ普通だったと坂東登女子は言うのです。高貴な人があまり滑らかにペラペラしゃべると、品がない話し方になると思われていたのかもしれませんね。

 さて、お話を戻します。宮中の女官たちの一般的な見解としては、明治天皇とは異なり、大正天皇は非常にフレンドリーな方で、女官たちに気軽に話しかけたり、写真をもらったりしていたようです。お茶目さんとして、宮中では通っていたくらい。だからこそ、山川三千子の拒絶は大正天皇にとってはショックだったのかもしれませんね。それこそ「なんでダメなの!?」って、彼女につめ寄ってしまうほど。

――山川三千子は、『女官』を読む読者にわざと異様な印象を与えるように、情報操作していると考えてもいいのでしょうか?

堀江 僕はそう思います。そもそも、彼女が宮中の秘密を公開してはいけないというタブーを破り、昭和35年(1960年)になって回想録『女官』を書いたのは、彼女自身が「汚名返上」したかったからではないでしょうか。

「大正天皇の愛人だった」と世間から言われつづけた自分の評価を覆すべく、「いくら相手が天皇だからといって、言い寄られたところで、私がなびくわけもない!」と主張したかったのでは? 女官を退官後、彼女は武蔵高校・武蔵大学などで重職を勤める男性の妻となり、いわゆる名士夫人として知られるようになりました。だからこそ、世間から痛くもない腹というか、「過去」を探られるのが心外だったのでしょうね。

――なるほど。このナンパエピソードの書き口は山川さんの名誉のために書かれたのかもしれないんですね。では実際の大正天皇の人物像について、堀江さんはどのような印象を持っていますか?

堀江 大正天皇は、非常に聡明な方なんですよ。外国人が苦手だった明治天皇に比べ、大正天皇は国際派。当時の政治・経済・文化の世界で第一公用語だったフランス語にも通じておいででした。しかも、見たもの、読んだものをたちどころに記憶していくという特殊なまでの力がおありでした。

 ご病弱ではありましたが、気持ちはしっかりとしていて、多少の体調不良くらいでは「風邪と言うなよ」、つまり、風邪扱いしてくれるなよといって、公務をなさる方だったんですよ。これを聡明といわずして……と思うのですが、どうでしょうか。

 聡明で思い出したけど、大正天皇が帝国議会に出席なさった時、「勅語」つまり、ご自身の「おことば」の原稿の紙を丸め、望遠鏡のようにしている姿を見せた……などの逸話がありますよね。ご聡明とは程遠かったのでは?というような失礼な風説が、今日に至るまで伝わっています。

 歴史的には「遠眼鏡事件」などと専門用語化しているくらいですが、そういうことがあったとされる時期やシチュエーションにも諸説がある状態です。

――諸説とはどのような?

堀江  たとえば、この事件が起きたのは最初に議会に出席した時というのが山川三千子説ですが、ほかの女官は何回目かの出席の時だったと断言しています。いろいろな説があるため、一種の都市伝説では? というような声もあるのですが、そういう天皇の行為は本当にあったと僕は考えています。それも何度もあったのでは、と。

 実は大正5年くらいから、大正天皇には言語障害のような症状が多発しはじめます。大正時代の医学は、現代よりもだいぶ劣っているので、正確な病名はわかりません。当時はただ「御脳病」などと公表されていました。だからこそ、ウワサに尾ひれがついて、大正天皇は「深刻なご病状」ではないか……なんていう声もあった。

 少なくとも、スピーチ原稿で遊んでいるように見える姿を、謹厳実直な明治天皇だったら絶対に見せたりはしませんよね。だから、臣下が必要以上に仰天してしまった、と。

 山川三千子の婚家である山川家でも、大正天皇の「遠眼鏡事件」が、深刻に語られていたという記述が『女官』には出てきますね。山川三千子はその場で大正天皇の擁護すらしないのがまたアレというか、彼女らしいのですが(笑)。

 一方、その山川三千子とほぼ入れ替わりのように、大正時代の宮中で女官を勤めていたのが、大正天皇が「写真、以後、くれね」という独特の言葉遣いで話していたと証言した坂東登女子です。大正天皇も「遠眼鏡事件」について世間で悪く言われていることを知り、気になさっていたと彼女の回想録『椿の局の記』の中で語っています。

――大正天皇もお気の毒ですね。

堀江 本当にその通りです。坂東登女子いわく、大正天皇は「私は以前、勅語の巻紙を開いてみたところ、上下が逆になっていたので恥ずかしい思いをした。だから上下が合っているかを事前に確認しただけなのだが」と言っておられたとか。

 ただ、あまりに何パターンも「遠眼鏡事件」については語り継がれているので、女官たちから「お茶目さん」といわれていた大正天皇は、自分がいろいろ言われていることを理解した上でブラックユーモアというか、ギャグのようにやってみせたこともあったのではないか、と思います。おそらく、何回も。そしてその都度、ギャグとしては歴史的な滑り方をして、周囲は恐れおののいてしまったので逆効果だったということかもしれません……。

 このようにさまざまな理由があって、大正天皇は日本国内では人気が高くはありません。外国のほうが研究が進んでいるくらい(フレドリック・ディキンソン 『大正天皇 一躍五大洲を雄飛す』)。

 それはともかく父帝とは違う天皇の像を大正天皇は作ろうと努力なさっており、それが身分を超え、誰にでもフレンドリーな態度にも反映されたのであろう、ということだけは推察できます。

――そんな大正天皇に対して少々厳しい目線を持っていたのが山川さんなんですね。ではそもそも、大正天皇の何が、山川三千子にはピンとこなかったのでしょうか? 次回に続きます。

このニュースに関するつぶやき

  • フレドリック・ディキンソンの「大正天皇一躍五大洲を雄飛す」は以前読みましたが、なかなかの名著だと思います。
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