糸井重里“『Fukushima50』で泣きっぱなし”に批判! 町山智浩も「原発を恐れるのはくだらなくて命を捧げるのは素晴らしいのか」

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2020年03月10日 23:40  リテラ

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リテラ

糸井重里Twitterより

 福島原発事故を描いた映画『Fukushima50』が3月6日に公開され、大きな話題となっている。



 安倍応援団としても知られる門田隆将氏のノンフィクション『死の淵を見た男 吉田昌郎所長と福島第一原発』(角川文庫、単行本はPHP研究所)が原作。当時の“菅直人首相をはじめとする官邸や東京電力本店に妨害されながらも、吉田昌郎所長をはじめとする東電の現場社員たちの決死の努力によって、原発事故が収束、日本は救われた──”という感動ストーリーだ。



 しかし、この映画、一方では、ベントの遅れや海水注入妨害が菅首相や官邸のせいと思わせるような描写があったり、東電の津波対策不備にまったく触れていなかったりと、事実と異なる部分やネグられた部分がかなりあり、多くの批判の声があがっている。そうした問題については本サイトでもあらためて検証記事を出す予定だが、そんななか、ある人物の感想ツイートが物議を醸している。



 コピーライターであり、「ほぼ日刊イトイ新聞」を主宰する糸井重里が、『Fukushima50』公開直後の深夜に、こんな感想をツイートしたのだ。



〈戦争映画や、時代劇だと「いのちを捧げて」やらねばならないことがでてくる。いまの時代は「いのち」は無条件に守られるべきものとされるから、「いのちを捧げる覚悟」は描きにくい。映画『Fukushima50』は、事実としてそういう場面があったので、それを描いている。約2時間ぼくは泣きっぱなしだった。〉(3月7日未明)



 まるで特攻賛美のような無邪気すぎる感想、そもそも命を捧げなければ運用できないような原発の危険性をスルーする欺瞞、〈「いのち」は無条件に守られるべきものとされる〉というずれた状況認識……。ツッコミどころ満載だが、当然ながら、この糸井氏の感想ツイートにはネット上で批判の声があがった。



〈よくあんなデマだらけの映画で泣けますね〉〈「いのちを捧げる」のが美しいわけあるか、このスットコドッコイ!〉〈ネトウヨ原作のプロパガンダ映画の感想でプロパガンダする、有名コピーライターの危険性を再認識した〉といった一刀両断の批判はもちろん、原発事故の本質と糸井氏の欺瞞を冷静に指摘する批判も多数投稿された。



〈少し感傷的になっていませんか? 今も住民の方たちの苦しみは続いています。原発は東京で使う為の電力を供給する為に建てられたもので、事故により住民の故郷は汚染され、消失したんです。彼らはあの場所は踏ん張り、あれ以上の惨事が拡大しない事を防いだ、しかし、今の政権は原発を捨てない。〉



〈「命を捧げるべき大儀など無い」ことを学ばなかったら、過ちは繰り返されます。「いのちが無条件に守られてる」なんていう人の視界には、空爆で幼い命を失うシリアの子供や、命をも脅かされるロヒンギャの子供が見えていないのでしょう。愚かな広告塔です。〉



〈「事実の加工」、つまり「ウソ」の指摘があります。重大な部分に。ウソはプロパガンダ映画に多いことを自分は知っています。現場の皆さんの献身的な努力に感動し泣きつつも、ウソを見抜く目も必要ですね。また「いのちを捧げる覚悟」のいる大事故を起こす原発やその利害に、厳しい目を向けませんか?〉



〈「尊い犠牲」を欲しがる昔の人のようですね。人柱で洪水が治ると信じてる類の原始からの呪縛。尊い命を掛けなくても済むよう、予め処置する事など、眼中に無いのだろう。〉



●町山智浩は糸井の清志郎批判との矛盾を指摘し「命を捧げるのは素晴らしいのか」



 著名人からも批判の声があがっている。映画評論家、コラムニストの町山智浩は糸井の感想についてこう批判した。



〈糸井重里さんが原発を守るために命を捧げた映画を絶賛して泣いている。糸井さんは、忌野清志郎ボスが原発や戦争を恐れた歌を「くだらない」と批判した人だ。原発を恐れるのはくだらなくて、命を捧げるのは素晴らしいのか。〉



 たしかに、町山の指摘するとおり、糸井は権力批判や政治的発言を蛇蝎のように嫌ってきた。RCサクセションについてもブレイクする前から高く評価し、人気の火付け役的存在でもあったが、忌野清志郎が原発批判ソングや『君が代』のパンクバージョンなどプロテストソングを発表すると、「つまらない」と切って捨てている。



 また、近年では、東日本大震災のあと、福島原発事故による放射線被ばくを恐れる声を徹底的に批判し、こんな言葉を残した。



〈ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。「より脅かしてないほう」を選びます。「より正義を語らないほう」を選びます。「より失礼でないほう」を選びます。そして「よりユーモアのあるほう」を選びます。〉(2011年4月25日ツイート)



 あるいはこんな投稿をしたことさえある。



〈そうか。犬も猫も、告発したりじぶんこそが正義だと言い募ったりしないんだ。ああ、大好きだ、あなたたち。〉(2012年10月12日ツイート)



 その糸井が『Fukushima50』の「命を捧げる」描写を賞賛するのは、自己矛盾もいいところだろう。



 しかも、これは無知やイノセントな感情から出てきたものではない。元中核派活動家の糸井が「命を捧げる描写」の政治性に気づいていないはずはないからだ。



●「スキャンダラスで、脅かしてて、正義を語る」映画に泣いた糸井重里



 前々からわかっていたことではあるが、結局、糸井は「政治性」を批判するポーズをとりながら、権力批判と弱者の声を封じ込めたかっただけなのだ。原発事故のあと、必死で“放射能汚染たいしたことない”“事故の恐怖を煽るな”と主張し始めたのも、実は事故の矮小化と健康被害の隠蔽によって、原発存続に協力していたにすぎない。



 実際、糸井が放射線被ばくを恐れる声を封じ込めるために、“冷静で信頼できる科学者”としてスターに仕立て上げた早野龍五・東京大学名誉教授はその後、論文で被ばく線量を過小評価していたことが発覚している(糸井氏はこの問題についていまだだんまりだが……)。



 いずれにしても、これまで、ソフトな言葉で自らの政治性を覆い隠し、異議申し立てを封じ込めてきた糸井だが、今回の“『Fukushima50』に泣いた”で、その手の内は完全にバレてしまったと言っていいだろう。



 ツイッターでは、前述した過去の糸井発言を使ったこんな秀逸な批判も投稿されていた。



〈スキャンダラスで、脅かしてて、正義を語ってて、失礼な映画を評価しちゃうのか。〉

〈市民の権利を求める声には「犬や猫のように正義を語るな」と黙らせる一方で、国策のために「命を捧げる覚悟」に泣くというグロテスクさ。こういう前時代的なペテンの広告屋に騙されないようにしたい。〉

(編集部)


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