キム・ギドクの苛烈な思考実験をどう受け取るか 『人間の時間』が突きつける人間の欲望と宿業

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2020年03月19日 17:01  リアルサウンド

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『人間の時間』(c)2018 KIM Ki-duk Film. All Rights Reserved.

 2020年2月9日(日本時間10日)、第92回アカデミー賞でみごと主要4冠獲得ーー『パラサイト 半地下の家族』(2019年)で堂々オスカーを手にし、国家的英雄の位置にまで「上昇」を極めたポン・ジュノとは対照的に、同じく韓国映画きっての天才監督でありながら、まるで呪われたように「下降」の運命をたどっているのがキム・ギドクである。


 具体的には性器切断をモチーフとした漆黒の家族劇『メビウス』(2013年)を途中降板した“女優A”が、2017年になってキム・ギドクを告訴したことが発端。彼女は台本にないベッドシーンを強要され、監督から頬を殴られるなどの暴行を受けたと主張。ギドク側は大枠の事実を認め、裁判所は約50万円の罰金の支払いを命じた。ところがさらに2人の女優からの告発が続き、そのひとりはレイプを訴えた。この件は大問題となり、ハリウッドを席巻する女性のエンパワーメントーー#MeTooやタイムズアップの波とも重なるように、韓国映画界の異端児は男性原理に支配されてきた映画業界の悪習、パワハラ・モラハラ・セクハラの代名詞として吊し上げられてしまったのだ。


 もっともキム・ギドクをめぐる人的なトラブルはそれが初めてではない。オダギリジョーを主演に迎えた『悲夢』(2008年)の撮影中、ひとりの女優が危うく絶命しかける事故が発生。ギドクはショックを受けてしばらく映画界を離れ、人里離れた寒村の小屋でひとりぼっちの隠遁生活を3年間も送った。「奇行」とも呼ばれたその期間の姿を自ら記録した映像は『アリラン』(2011年)という異色のセルフドキュメンタリー作品にまとまり、これが東京フィルメックス観客賞、カンヌ国際映画祭〈ある視点〉部門最優秀作品賞を受賞。ある時期まで、国際的な名声ではギドクこそ韓国映画界でトップと言え、『サマリア』(2004年)でベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)、『うつせみ』(2004年)でヴェネチア国際映画祭銀獅子賞(監督賞)、そして『嘆きのピエタ』(2012年)では同映画祭金獅子賞など華々しい受賞歴を誇っている。


 だがギドクは、ポン・ジュノのように大作規模などへと“キャリアアップ”することなく、福島第一原発のメルトダウンを主題に日本で撮影した『STOP』(2015年)、朝鮮半島の南北分断を扱った傑作『The NET 網に囚われた男』(2016年)など、よりインディペンデントで先鋭的な映画作りに駒を進めた。もしかしたら彼には自ら「下降」を志向する宿業が備わっているのかもしれない。


 むろん娼婦、ヤクザ、浮浪者、泥棒、世捨て人など、社会の周縁で生きるアウトサイダーの生態に寄り添い、特濃の哀切美に満ちた独自の寓話に昇華するカルト作家の特質と、現在ギドクが置かれている社会的な「下降」とはまた別の話だ。しかし彼の作品まで制度的な善悪やモラルという物差し、良識のコードで裁かれかねないジレンマに関しては、芸術活動の内実に多少なりとも通じている人なら容易く理解できるはずだ。


 単純な事実、一般世間にいくら糾弾されても、もっと端的に言えばたとえ「人間的にクソ」でも、別にアーティストの才能が目減りするわけではない。例えばギドクの敬愛する画家エゴン・シーレ(ギドクは初期の『悪い女〜青い門〜』(1998年)や『悪い男』(2001年)にシーレの絵画を登場させている)が未成年の少女との性的問題を何度も起こしたとしても、あるいはゴッホとゴーギャンの同居生活に陰惨な諍いがあったとしても、彼らの絵画の唯一無二の美がなんら変わらぬように。


 ギドクの2018年の新作『人間の時間』は、やはり彼らしい攻めの姿勢を崩さず、凄まじくも美しく、相変わらず素晴らしい。どのカットにも作家のサインが刻まれた圧巻のシグネチャーモデルである。


 『人間の時間』の舞台はひとつの船である。第二次大戦で使用された軍艦、デストロイヤー(駆逐艦)が、旅客船として約100人を乗せて出航する。乗客の中には居るのはクルーズ旅行に来た日本人のカップル(オダギリジョー、藤井美菜)や、韓国の有力な国会議員(イ・ソンジェ)とその息子(チャン・グンソク)、彼らの警護を申し出るヤクザ(リュ・スンボム)たち、娼婦たち、若者たち、謎の老人(アン・ソンギ)など。彼らは“ある事件”を引き起こす狂乱の一夜を過ごした翌朝、自分たちの船が霧に包まれた未知の空間で浮遊していることを知るーー。


 様々な立場の者たちが寄り集まった船の人間模様は、ある種“世界の縮図”を描いていると言うべきか。それが丸ごと極限状態に陥るーーあるいは突き進んでいく。セックス、ドラッグ、酒、暴力など、欲望の限りを尽くす過程で、支配と隷属の構造が発生するが、さらに生き残りが切迫すると階層すら崩れ、剥き出しの本能が露わになっていく……。筆者の眼にはルイス・ブニュエルの『ビリディアナ』(1961年)や『皆殺しの天使』(1962年)、マルコ・フェレーリの『最後の晩餐』(1973年)などの系譜に連なる、限定された空間で人間の本性をテストする苛烈な思考実験の類に映った。


 ただブニュエルやフェレーリがキリスト教の制度的な側面を皮肉る“パンク”な精神に溢れているのに対し、むしろギドクは人間の汚辱を救済する観念体系としてキリスト教を素直に設定している(その意味でブニュエルやフェレーリを受け継いでいるのは『アンチクライスト』(2009年)や『ハウス・ジャック・ビルト』(2018年)などのラース・フォン・トリアーだろう)。展開の詳細は控えるが、藤井美菜扮するヒロインの名前は「イヴ」、ある男性が「アダム」であり、またある人物が神的な佇まいを見せ、イエス・キリストの「血と体」の話(弟子たちに、これは自分の体だと言ってパンを、血だと言って葡萄酒を与えた)を彷彿させるエピソードも出てくる。


 観る人によっては「やり過ぎ」と言うかもしれないが、代表作の『サマリア』や『嘆きのピエタ』などがそうであるように、リミッターを解除した状態で人間の欲望や宿業をとことん見つめながら、それを宗教の原型的イメージで包み込む。そして凄惨な争いを経た船は、ギドクがしばしば用意する存在論的な痛みを慰撫する聖域ーー霊的なムードに覆われた世界の果てのような場所の一形態となる。『魚と寝る女』(2000年)の淡水湖の釣り宿、『春夏秋冬そして春』(2003年)の山奥の湖上に浮かぶ寺、『弓』(2005年)の海上に漂う小さな船のような……。その中でも今回のSF神話的なスケールの壮大さは際立っており(スケールとは予算ではなく、創造力の大きさで決定することがよくわかる好例!)、第一幕「人間」、第二幕「空間」、第三幕「時間」、第四幕「そして人間」と題されたサイクルが示す寓話としての設計も極めて明晰だ。


 もちろん劇展開にはエキセントリックな野卑がギラつき、冷徹な目の中には不意の狂気や情念が噴出する。その過剰さこそがギドクならではの味だ。彼の性的疑惑について擁護する必要は微塵もないが、アルフレッド・ヒッチコック、ロマン・ポランスキー、ベルナルド・ベルトルッチ、ウディ・アレンといった映画史の輝かしい名前たちの作品が、ある正義のもとに評価のバイアスが掛けられている現在。その是非はさておき、『人間の時間』も忌避され、黙殺されるとしたら、それは余りにもったいないとしか言いようがない。


 本作が2018年のベルリン国際映画祭で上映された際の会見で、ハードなシーンを演じきった藤井美菜は監督らと共に登壇し、「キム・ギドク監督と仕事ができて嬉しかった。撮影現場は楽しい雰囲気でした」とスピーチした。ギドク自身は公式コメントで「私は人間を憎むのをやめるためにこの映画を作った」と発言している。自分の信じる才能が社会的、倫理的に不利なポジションに立たされた時、我々は文化や芸術、表現活動をどのようにサポートするのか。その“生き方”の判断をいま各々が問われているのかもしれない。あなたはどの立場、意見を取るか?(森直人)


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  • SF的なプロットはちょっと気になったけど、外界の状況を理解したり打開したりしようとする類の物語ではなさそうね
    • イイネ!1
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