3輪トラックから「魂動」へ…デザインで振り返るマツダの100年

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2020年03月23日 11:32  マイナビニュース

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今年で創立100周年を迎えたマツダ。近年は「魂動(こどう)デザイン」を打ち出し、独自の造形で存在感を発揮する同社だが、実は昔から、デザインにはこだわりを持っていた。3輪トラックから現在へと続くマツダのデザイン史をいくつかの車両で振り返ってみたい。

○3輪トラックも形にこだわる

マツダのルーツをたどると、1920年に設立された東洋コルク工業という会社に行きつく。その名が示すように、当初はコルクづくりを生業としていたのだ。しかし翌年、松田重次郎氏が社長に就任すると、同社は機械生産に参入。関東大震災後、GMやフォードのノックダウン生産が始まって日本でも自動車が走り始めると、その影響を受け、東洋コルク工業もクルマづくりを目標に定めるようになった。

重次郎氏は1927年に社名を東洋工業に改めると、3年後にまずは2輪車を開発し、レースに出場して優勝を果たす。その翌年には3輪トラックに進出。第1号の「DA型」は、3輪車初のバックギアや、左右輪に回転差を与えつつ両輪に力を伝えるデファレンシャルギアを採用するなど当初から先進的だった。

マツダは今回、自身でレストアした4台をノスタルジック2デイズに展示した。その中で最も古い車両は、1938年発売の3輪トラック「GA型」だった。

他社製3輪トラックの多くが2輪車に似たパイプフレームを用いる中、このGA型はいち早くプレスフレームを採用することで、乗り降りがしやすく、流麗なフォルムを持ち、余裕のある積載量を備えた3輪トラックとして人気を博した。メーターパネルの周辺には、「青春」「平和」「安全」などの意味を込めた緑色のカラーリングを採用。当時は「グリーンパネル」というニックネームまでつけて販売するという斬新なマーケティングを展開していた。

それまでは燃料タンクの脇にあったシフトレバーを中央に据えたこともGA型の特徴だ。当時は多くの自動車が3速のギアボックスを搭載していたが、マツダ(当時の東洋工業)は4速を採用。技術面でも一歩先を行っていたことが分かる。

このGA型は、第2次世界大戦により一時的に生産中止となったものの、戦争が終わった1945年には早くも生産が再開された。原爆投下によって未曾有の大被害を受けた広島の復興を支えたのである。

戦後もデザインにこだわる姿勢は不変だった。1950年に発売した「CT型」からは工業デザイナーの小杉二郎氏を起用し、シンプルかつスマートな造形のフロントマスクやウインドスクリーンを採用。4年後には全車をモデルチェンジし、2灯式ヘッドランプや曲面ガラスを用いた流麗なフォルムを与えるとともに、センスの良い2トーンカラーまで取り入れた。
○大ヒット車となった5代目「ファミリア」

念願だった4輪乗用車への参入は1960年。第1号は軽自動車「R360クーペ」で、2年後には軽自動車初の4ドア、4気筒エンジンの「キャロル」を登場させた。小型車ではまずトラックを送り出すと、1963年には現行モデル「MAZDA3」のルーツとなる「ファミリア」の初代がデビューしている。

初代ファミリアの3年後、マツダは上級セダンの「ルーチェ」を発売する。このクルマで同社は、再び外部のデザイナーを起用した。相手はその後、ランボルギーニ「カウンタック」やランチア「ストラトス」などのスーパーカーを担当することになるイタリアのカロッツェリア「ベルトーネ」だった。

ノスタルジック2デイズに展示されていたのは、クーペボディにロータリーエンジンを積んだ「ルーチェ ロータリークーペ」だった。このクルマは日本初の前輪駆動乗用車でもある。低いノーズ、大きな窓、伸びやかなプロポーションは、今見てもまったく古さを感じない。マツダのデザイナーがこのルーチェから吸収したものは多かったはずだ。

その後のマツダは多くの車種にロータリーエンジンを搭載し、高性能イメージをアピールした。しかし、1973年のオイルショックでは燃費の悪さが欠点となり、会社の経営をも揺るがせる。その劣勢を一気に跳ね返したのが、1980年にデビューした5代目「ファミリア」だった。

先代から2ボックススタイルを採用していたファミリアは、この代で前輪駆動化。マツダ車としては初めて月間販売台数トップの偉業を達成し、この年から始まった「日本カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞した。
○「マツダの赤」に秘められたストーリー

展示されていたファミリアは3ドアのスポーティーグレード「XG」。色は赤だ。50代以上のクルマ好きであれば、「赤いXG」が「陸(おか)サーファー」ブームの主役だったことを覚えているだろう。このクルマのルーフキャリアにサーフボードを乗せ、シートにはTシャツを着せて、海辺ではなく街を流している若者を当時はよく見かけたものだ。

5代目ファミリアには確かに、ブームの主役となる資質があった。開発コンセプトは「若い人が乗りたくなるクルマ」で、安定感のある台形フォルムに大きな窓が際立つシンプルなスタイリングは今なお若々しい。

展示車両脇のパネルには、「クリスタルカット」にも注目してほしいとの文言が。ヘッドランプの角やサイドウィンドウ前端などを斜めにカットしたことで、バランスの良さの中でクルマに動きを与えることに成功しているという解説だ。

鮮烈な車体色も目を引くファミリアだが、マツダが赤をイメージカラーに据えたクルマはこれが初めてではない。「マツダの赤」は、1975年発表の「コスモ AP」(APはアンチポリューション=公害対策の意味)から始まった。2代目コスモはトヨタ自動車「クラウン」と同じ車格のクーペであり、それほどの高級車に赤という提案は賛否両論だったそうだが、結果的には人気を得ている。

ちなみに、コスモ APのデザインを担当したのは、現在のマツダ車を特徴づける「魂動デザイン」という考え方を生み出した前田育男氏の実父である前田又三郎氏だ。5代目ファミリアの開発当時、又三郎氏はマツダのデザイン部長を務めていた。コスモ APがデビューした1975年は、プロ野球で広島東洋カープが初めて赤いヘルメットを採用し、球団初の優勝を果たした年でもある。今のマツダのデザインやカラーとのつながりを感じるストーリーだ。
○スポーツカーが受け継ぐもの

では、「ロードスター」のようなスポーツカーはマツダのデザインにとってどのような存在なのか。こういった車種には、新たなブランドデザインを提案するイメージリーダーとしての役割があるというのが私の考えだ。海外でも、アウディ「TT」などこうした例が多い。

マツダでいえば、同社初のスポーツカーであり、初のロータリーエンジン搭載車となった1967年発売の「コスモスポーツ」もそうだし、1978年デビューの「サバンナ RX-7」もこれに該当する。

コスモスポーツには、重次郎氏の後を継いで社長に就任した松田恒次氏が、若手から抜擢されたデザイナーに対し「思い切ったデザインを」と注文をつけたという逸話がある。その結果、「コスモ」(宇宙)の名にふさわしい未来的なフォルムが現実になった。

サバンナ RX-7は、前出の前田又三郎氏がデザインを担当。キャビン周辺の造形をコスモスポーツから受け継ぎつつ、小型軽量のロータリーエンジンを前輪とキャビンの間に積むフロントミッドシップ方式を採用することで、リトラクタブルヘッドランプから始まるスポーツカーらしいスタイルを実現した。

1989年発売の初代「ロードスター」は、RX-7で採用したフロントミッドシップとリトラクタブルヘットランプを継承しながら、速さよりも運転の楽しさを追求するというコンセプトに基づき、たくましさよりも優しさを感じるスタイリングにまとめあげた。

3台のデザインはテイストがまるで違うのに、マツダのスポーツカーとして継承しているものがある。さらにいえば、他のマツダ車との間にも、デザイン面でのつながりがあるのだ。

例えば現行ロードスターは、2012年発表の「CX-5」から始まった魂動デザインを取り入れ、線にこだわらず面の映り込みにこだわった造形を身にまとっている。スポーツカーなのでプロポーションの抑揚を出しやすかったこともあるだろうが、その経験は「MAZDA3」や「CX-30」にもいかされていると思う。

3輪トラックからスタートし、ロータリーエンジンをものにしたマツダのクルマづくりは、振り返ってみれば波乱万丈だった。しかし、その中でデザインへのこだわりを忘れなかったことが、100年という歴史を刻んだ原動力のひとつになったのだと考えている。

○著者情報:森口将之(モリグチ・マサユキ)
1962年東京都出身。早稲田大学教育学部を卒業後、出版社編集部を経て、1993年にフリーランス・ジャーナリストとして独立。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。グッドデザイン賞審査委員を務める。著書に『これから始まる自動運転 社会はどうなる!?』『MaaS入門 まちづくりのためのスマートモビリティ戦略』など。(森口将之)
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