まるで”悲劇のヒロイン”な京成押上線 創業本家路線からローカル線に転落、そしていまや…

14

2020年03月30日 13:00  AERA dot.

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

AERA dot.

写真京成立石を発車し、京成高砂を目指す押上線の普通列車。京成電鉄の車両のほか、相互直通運転をする東京都交通局浅草線と京急電鉄の車両も走る(撮影/平賀尉哲)
京成立石を発車し、京成高砂を目指す押上線の普通列車。京成電鉄の車両のほか、相互直通運転をする東京都交通局浅草線と京急電鉄の車両も走る(撮影/平賀尉哲)
 東京と成田を結ぶ京成電鉄は、創立から今年で111年目を迎える。開業当初の東京側のターミナル駅は、現在の上野ではなく押上(おしあげ)で、押上〜青砥(あおと)間の京成押上線は京成でも古い路線のひとつである。現在は都心と成田空港とのアクセスを担う重要路線である押上線だが、その変遷はまさに波瀾万丈。『鉄道まるわかり009 京成電鉄のすべて』(天夢人)を参考に、108年の歴史を紐解いていく。

*  *  *
■東京市電への乗り入れを目指し押上を起点に開業

 関東一円から信仰を集めていた成田山新勝寺に向けては、明治期から複数の鉄道敷設計画が申請されていた。後に京成の初代社長となる本多貞次郎の努力で一本化が図られ、1909年に京成電鉄の前身「京成電気軌道」が創立した。京成電軌の計画路線は押上から江戸川を渡り、市川〜臼井〜佐倉〜成田とした。

 押上を東京側の起点としたのは、当時、押上まで路線を延ばしていた東京市電(後の都電)に乗り入れ、都心へ直通しようとの目論見があったからだ。このため軌間(レールの幅)は国鉄東海道本線などが採用し、日本の鉄道の標準になっていた1067ミリではなく、東京市電と同じ1372ミリとした。

 なお、本多は東京市電の前身となる東京市街鉄道工務課長を務めた人物で、同社から車体長7.6mの中古車両を譲り受ける予定だった。しかし、当時の監督官庁である鉄道院の指示で、オリジナルの車両を用意することになった。京成は、「軌道」でありながら高さのあるプラットホームを作り、路面電車のようなスタイルでありながら、床が高く、独立した台車を持つボギー式で、運転席が屋内にある最新式電車が投入された。

 建設は押上側から進められ、1912年11月3日に押上〜青砥〜伊予田(いよた/現・江戸川)間と曲金(まがりかね/現・京成高砂)〜柴又間が開業した。ちなみに、曲金〜柴又間は金町線の一部で、成田山と同様に広く信仰を集めていた柴又帝釈天(しばまたたいしゃくてん)への参詣(さんけい)路線である。

 なお、開業時の押上線は荒川放水路(現・荒川)が開削工事中で、地平を走っていた。しかし工事終了後は架橋する必要があり、架橋工事と並行して荒川(現・八広)〜京成立石間のルートが変更された。

■浅草延伸を断念し、上野へ乗り入れ

 京成電軌は押上をターミナルとしたが、実際に東京市電へ乗り入れることはなく、乗客は押上駅で市電へ乗り換える手間が生じていた。このため京成電軌は隅田川を挟んで向き合う位置にあり、当時の繁華街である浅草への路線延伸を求め、1931年7月に特許(京成電軌は「軌道法」に準拠したため、事業認可は「特許」となる。鉄道事業法では「許可」)を取得したが、その2カ月前に東武鉄道が浅草へ延伸しており、京成の浅草延伸は幻となった。

 代わりに計画したのが上野延伸で、1933年までに上野公園(現・京成上野)〜青砥間が開業した。東側は1930年までに京成成田へ延伸し、上野延伸によって現在の京成本線が全通し、上野〜成田間には特急が設定されるなど、京成電鉄を支える一大幹線となった。その反面、創業路線の押上線はローカル線に転落していった。なお、終戦直前の1945年6月25日に京成電気軌道は京成電鉄へ社名を変更している。

 軌間をわざわざ合わせてまで望んだ都電直通運転は、戦後も実現していない。これは山手線内の鉄道は東京都と営団地下鉄(現・東京地下鉄)が担うという東京都の政策があったためで、京成のみならず郊外へ延びる私鉄各社が山手線の駅に隣接してターミナルを設けている理由のひとつである。このため、当時の押上線は京成の中でも地味な存在の路線であった。

■都営浅草線・京急と相互乗り入れする路線に

 地味な下町の一ローカル線だった押上線だが、1957年に転機が訪れた。運輸省(現・国土交通省)主催の「地下高速鉄道に関する会議」を機に、京成・東京都・京浜急行電鉄による三社局直通乗り入れ協定が成立したのだ。

 このころ、都市交通審議会において山手線内に地下鉄を建設することが検討され、後に出された答申で郊外私鉄との直通運転が盛り込まれた。京成・東京都交通局(都営地下鉄)・京浜急行電鉄の直通協定はこれらの嚆矢(こうし)とされるもので、新設される都営地下鉄1号線(現・浅草線)は押上で接続とされた。これによりローカル線だった押上線が都心直通路線として脚光を浴びるようになった。

 ところが、直通に際して軌間が問題になった。京成は1372ミリ、京急は新幹線と同じ1435ミリを採用しており、このままでは直通できない。そこで京成は京急に合わせて1435ミリに改軌、都営地下鉄は1435ミリ軌間で建設されることとなった。

 1960年12月に都営地下鉄1号線押上〜浅草橋間が開業し、同時に京成との相互直通運転が始まった。合わせて押上駅は地下化された。直通先は1968年に京急の三浦海岸まで達し、1970年に京成成田〜三浦海岸間に押上線経由で臨時の直通特急が運行された。京成悲願の都心延伸は、東京市電から都営地下鉄にステージを変えて実現したことになる。


■首都圏の二大空港を結ぶ重要路線に成長

 京成本線は成田空港開港に合わせて1978年に京成成田〜成田空港間を開業。京成上野〜成田空港間に「スカイライナー」の運行を開始、そして1991年にはJR東日本とともに空港ターミナルビル直下へ乗り入れ、新しい成田空港駅を開業した。

 1988年に京急電鉄は羽田空港新ターミナルビルに乗り入れると、かねてから懸案だった成田空港と羽田空港を直通する「エアポート快速特急(現・エアポート快特)」の運行が始まった。この時から押上線は都心直通線とともに羽田〜成田の両空港を結ぶ使命も帯びるようになった。

 しかし、両空港を移動する乗客が予想よりはるかに少なく、地下鉄乗り入れ対応で設計されていた「スカイライナー」の2代目車両AE100形が都営浅草線に乗り入れる機会もなく、2006年に京成佐倉折り返しに短縮された。

 2010年に北総鉄道〜千葉ニュータウン鉄道から成田空港へ抜ける「成田スカイアクセス」が開業すると、京成上野〜成田空港間「スカイライナー」、通勤形電車を使用した新設の「アクセス特急」が成田スカイアクセス経由となり、羽田空港〜成田空港間にも押上線を経由して「アクセス特急」の運行が始まった。

 京成の創業路線である押上線は、一時はローカル線の地位に甘んじていたが、現在はアクセス特急・特急・快速特急・普通と、朝夕ラッシュ時のみ運行される通勤特急の5種別が走る幹線となり、地域輸送・都心直通・空港連絡の3つの使命を帯びている。(文/平賀尉哲)

このニュースに関するつぶやき

  • そして、あの「京成パンダ」のブサイクぶりがたまらんっ���줷�����ż��ż��ż��ż�
    • イイネ!1
    • コメント 0件
  • 1988年に京急電鉄は羽田空港新ターミナルビルに乗り入れると???1998年じゃね?
    • イイネ!10
    • コメント 0件

つぶやき一覧へ(5件)

あなたにおすすめ

前日のランキングへ

ニュース設定