日本サッカーの概念を超越した選手。プレーは自由奔放で弾けていた

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2020年04月01日 06:41  webスポルティーバ

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Jリーグ助っ人外国人選手(9)
ストイコビッチ(名古屋グランパスエイト/MF)

 東京〜名古屋間は、新幹線でおよそ2時間。お金もそれなりにかかる。試合の開始時間によっては、宿泊する必要も生まれる。東京在住者にとって、名古屋行きはまさに旅行だ。

 首都圏のクラブが名古屋グランパスとアウェー戦を戦えば、そのクラブの熱心なサポーターは名古屋まで駆けつけるだろうが、そうでなければ、名古屋周辺に縁もゆかりもないファンが、名古屋まで出かけることはまずないだろう。

 だが、そんなファンがかつては存在した。瑞穂陸上競技場のスタンドに目をやれば、どちらのファンでもなさそうなファンの姿が目に留まった。

 ドラガン・ストイコビッチがいた時代だ。

 監督がアーセン・ベンゲルだった時代は、とくに多かった気がする。筆者もよく、現地に行くことありきで、仕事の算段を立てたものだった。

 現在のヴィッセル神戸を見るようだ。神戸のファンでも、相手側のファンでもない第3者的な姿が、スタジアムのあちらこちらで目に留まる。とりわけ、神戸のアウェー戦ではその姿が多く、どのクラブも神戸戦はアンドレス・イニエスタ効果で、観衆増の恩恵にあずかっている状態だ。

 ストイコビッチが名古屋にやってきたのは、1994年。Jリーグが開幕したその翌年だ。今から、26年前の日本。現在と決定的に違っていた点は、海外サッカーへの関心、その情報の乏しさだ。

 1994年と言えば、アメリカW杯が開催された年と重なる。日本は、その前の年に行なわれたアジア最終予選で敗れ、W杯初出場を逃していた。

 世界への扉は半開きの状態で、欧州のサッカーの情報にはまだ疎(うと)かった。1992−1993シーズンから、チャンピオンズカップ(CC)をチャンピオンズリーグ(CL)に発展させるなど、隆盛期に入っていた欧州サッカーの情報なども、日本まで満足に届いていなかったのだ。

 そうした状況のなか、海の向こうで、ストイコビッチはイビツァ・オシム監督率いるユーゴスラビア代表として、1990年イタリアW杯に出場。10番を背負って、全5試合スタメン出場した。準々決勝のアルゼンチンでPK戦の末に敗れたが、その名前を広く知らしめることになった。筆者が、ストイコビッチのプレーを初めて直に見たのもこの時だった。

 しかし、それから名古屋入りするまでの4年間、ストイコビッチの名前を聞くことは何度もなかった。所属チーム(マルセイユ)はこの間、CCとCLのファイナリストになっているが、ストイコビッチが出場したのは、CCの時の残り数分間のみ。膝の怪我に苦しんでいた。

 ユーゴスラビア紛争も、そのサッカー人生に暗い影を落としていた。1992年欧州選手権(スウェーデン大会)予選を勝ち抜き、ユーゴスラビア代表は本大会に向けて出発した。ところが、ユーゴスラビアは内戦の制裁措置として、出場不可とされたのだ。ストイコビッチは表舞台に立つことなく、自国に引き返すことを余儀なくされた。

 こうしたニュースは、今なら間髪なく伝わってくるだろうが、当時は違った。新聞の片隅か、月刊のサッカー専門誌に載る程度の、よほど目を凝らさなければ見逃しそうな情報だった。

 ストイコビッチは、言ってみれば、1990年イタリアW杯から情報が更新されずにいた、遠い場所に位置する選手だった。それだけに、名古屋入りの報を聞いて驚かされたものだ。

 ストイコビッチが来日した1994年当時、Jリーグにはそれ以上に、世界的に名の知れた選手たちがいた。ジーコ、レオナルド、ピエール・リトバルスキー、カレッカ、ラモン・ディアス……。イニエスタひとりが人気を集める現在とは、状況は大きく違っていた。

 ただし、ストイコビッチは29歳で来日。Jリーグにやってくる外国人選手が、かつての名手、盛りを過ぎたベテランが多くを占めるなかで、その若々しさはひときわ新鮮だった。誰よりも自由奔放。プレーがやんちゃで弾けていた。

 それが、ベンゲル監督(1995年〜1996年)の目指すサッカーにピタリとはまっていたことも、筆者の目には新鮮に映った。中盤フラット型4−4−2の2トップ。正確には1トップ(小倉隆史か森山泰行)の脇になる。限りなく4−2−3−1に近い4−4−2だった。

 当時の日本では、4−4−2と言えば、ブラジル式の中盤ボックス型しか存在しない時代だった。時の日本代表=加茂(周)ジャパンも、その布陣を定番としていた。攻撃的MFの前に、2トップがいるサッカーだ。

 同システムでは、攻撃的MFと2トップを分けて考えることを常識としたが、ストイコビッチが構えたのは、その中間だった。攻撃的MF兼ストライカー。もっとわかりやすく言えば、アタッカーである。

 ストイコビッチは、単なる魅力的な選手には止まらない、従来の日本サッカーの概念に存在しなかった画期的な選手と言えた。

 ベンゲルサッカーしかり。この時の名古屋は、当時の日本サッカーの10年先をいく、いや、今振り返っても、最新式に見えるスタイルだった。その中にストイコビッチは綺麗に収まっていた。

 つまり、サッカーそのものに華があった。つい観戦に出かけたくなるサッカーをしていたのだ。

 筆者は、その勢いで欧州に渡り、ストイコビッチ率いるユーゴスラビア代表の試合も観戦に出かけた。ユーゴスラビアに対する制裁措置は、1998年フランスW杯予選から解除されていた。

 とはいえ、続くユーロ2000(オランダ、ベルギー共催)予選の頃は、まだコソボでは紛争が続いていた。抽選の悪戯か、ユーゴスラビアは紛争の末に独立したクロアチアと同じ組に振り分けられた。

 筆者は好奇心を募らせ、ザグレブで行なわれたクロアチアホームの一戦に出かけていったのだが、あろうことか試合前日、NATO(北大西洋条約機構)軍がユーゴスラビアに向けて空爆を始めたのだ。

 試合は中止となり、ザグレブの空港も封鎖された。バスで隣国スロベニアに渡り、緊張した区域から遠ざかることができたが、このストイコビッチをめぐる旅は、なんとも言えぬ体験として記憶されている。

 そうした体験も含めて、Jリーグにやってきた外国人選手の中で、ストイコビッチほど「その行く先々を追いかけたい」と思うような選手はいなかった――。

このニュースに関するつぶやき

  • 日本のクラブでベンゲルが指揮を取って、ストイコビッチがプレイしてた時代があったってのが凄い。
    • イイネ!1
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