新宿ゴールデン街の演劇人、“好々爺の笑顔” の裏にあった波乱に満ちた人生

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2020年04月04日 13:00  週刊女性PRIME

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『クラクラ』を引き継いで41年。ゴールデン街の栄枯盛衰をその目で見てきた

 映画監督を目指して上京したのに、気づけば野外劇に魅了されて、世界各地でゲリラ上演。一方、毎晩通っていたゴールデン街でひょんなことから店を持ちバブル期には地上げ屋と戦い、商店街を守った。今は好々爺のごとくチャーミングな笑顔を見せる外波山の波乱に満ちた人生とは?

多くの作品を生み出した街

 春浅き東京・新宿に夜の帳が下りるころ、静かに目覚める街がある。新宿区役所から遊歩道に足を踏み入れ、アーケードをくぐると、そこは昭和の趣を色濃く残す「新宿ゴールデン街」。

 わずか50メートル四方の狭い敷地に2階から3階建ての木造長屋が立ち、280軒の飲食店が軒を並べている。

 怪しげな路地が巡り、人魂のようなネオンサインの灯る街並みは、まるで魑魅魍魎の棲家みたいだ。

─キキキキキ

 自転車のブレーキ音にギョッとして暗闇に目を凝らすと、作務衣姿の好々爺が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。

 何を隠そうこの人こそ、ゴールデン街の主人、新宿ゴールデン街商店街振興組合の理事長を務める外波山文明、73歳。半世紀以上にわたって、この街を根城に、日本はもとよりシルクロードやブラジルでも芝居を打ってきた演劇人でもある。

「'60年代の末から'70年代にかけては作家や編集者、映画関係者や演劇人が夜な夜な集まり、口角泡を飛ばして議論を交わし、その果てにケンカに及ぶこともしばしば。そうした情熱がこの街から多くの作品を生み出してきたんだよ」

 その時代を知る映画『学校の怪談』シリーズや、外波山も出演する映画『レディ・ジョーカー』などで知られる、映画監督の平山秀幸さん(69)は、

「ゴールデン街の常連には、映画界の第一線で活躍する監督たちが大勢いたから、一人前にならないと敷居が高くて顔を出せなかったなぁ」

 と話せば、外波山の店でアルバイトした経験のある歌人の俵万智さんは、

「店に入ってくるお客さんはみんな俳優さんのようなもの。熱く語ってケンカして。その様子を観客としてカウンターの中から眺めるのが、一夜限りのお芝居を見ているようでとっても面白かった」と語る。

 お客として半世紀以上通い、自分の店『クラクラ』を持って41年になる外波山はゴールデン街を「僕を育てて大人にしてくれた街」と語る。

 しかし俳優・外波山文明の半生も、この街に負けず劣らず波乱に満ちたものだった。

今も生きている母の教え

 江戸時代、中山道の宿場町として栄えた長野県・木曽郡の吾妻村(現南木曽町)で昭和22年、外波山は終戦後に復員した父・等、母・たづ子との間に生まれた。

「僕は男ばかり4人兄弟の末っ子。生活が苦しかったから、母はよく清内路(せいないじ)峠を越え、米作りの盛んな飯田まで木曽の木材で作った桶(おけ)を担いで買い出しに出かけ、闇米や芋と交換して手に入れていた。米のとぎ汁をミルクがわりにしたこともあったらしい」

 父は復員後、製材所を起こし、外波山が小学生のころには村会議員も務めていた。

「父方の先祖は木こりを生業としながら天竜川を遡(さかのぼ)り木曽にやってきた。親父は、達筆で短歌を詠んだりと教養があり、面倒見のいい人間だったんですよ。

 '59年の伊勢湾台風では、風倒木で川沿いの集落が20軒ほど流されてね。村会議員だった父が働きかけて高台に村営住宅を建てて住まわせ、のちに安い値段で譲渡するなど困った人を見て見ぬふりができない性分だったな」

 そのあたりの気性は、後に劇団を切り盛りしながら、危機に瀕(ひん)したゴールデン街を身体を張って守った外波山にも色濃く受け継がれている。

「ただ……。人付き合いのいい親父は、酒が好きでね。家に帰ると暴れだすこともよくあったな。そんな親父の姿を見て、子ども心に『絶対に酒は飲むまい』と誓ったんだけどな」

 と今や酒をこよなく愛する外波山は頬を緩める。

 南木曽町の中でも山深い集落で育った外波山。60軒あまりの集落でいちばん早く電話がついたこともあり、よく人が集まる家だったと明かす。

「当時、大平峠(現木曽峠)で車の転落事故などがよく起きてたんだけど、母は事故で困った人を家に泊め、郷土料理の朴葉(ほおば)寿司を振る舞ったりして、親身に世話をしていたな。『人に優しくすれば必ず自分に返ってくる』『自分じゃなくても、息子たちが助けられることもある』が母の口癖でね。その教えは今も僕の中で生きている

 小学校に上がると片道4キロの急な坂道を1日も休まずに歩いて通った。

「行きは楽だけど、帰りはずっと上り坂。友達と柿や栗などを盗んで怒られたことも懐かしい思い出だな。小5から新聞配達のアルバイトも始め、母の実家の田植えや稲刈りも手伝った。働くのは全然嫌じゃなかった。今も年のわりに身体が丈夫なのは、子どものころの鍛錬のおかげかな」

 学校に行くのが楽しくてしかたがなかった外波山だが、苦手な学科が1つあった。

「勉強はできたのにトバは音楽が苦手。学年の“三大音痴”と言われ、木曽郡の合唱音楽会のときは先生に声を出して歌うなと言われてましたよ」

 と話すのは小中高の同級生・赤坂孝さん(73)。

 そんな外波山が、少年時代に何よりも楽しみにしていたのが、山深い村で年に1度行われる神社の村祭り。

「境内には急ごしらえの筵(むしろ)掛けの舞台ができてね、地方巡業の一座が人情ものの大衆演劇なんかを披露してくれる。舞台裏を覗くと、おじいさんが白塗りの化粧をして娘役に化けていた。その白粉の匂いがなんともいえなかったな。

 飛び入りコーナーもあってね、普段はなんでもない村の大人たちが見事に浪花節を唸ってみせ、ミカンやおひねりが飛ぶ。私たちも木曽節やチョイナ節を夢中で踊ったよ」

 小学生のころから学芸会で『杜子春』や『因幡の白兎』などで主役を張ってきた外波山だが、あのとき見た旅回りの一座こそ、役者を目指すことになる原点。

2階の角部屋、家賃2千5百円

 やがて高校生になると演劇部に所属。そして映画館に通い始める。

「三留野(みどの)の町(現南木曽町)には当時映画館が2軒あって、1週間ごとに2本立てがかわる。大学ノートに映画評もつけていたな。好きな映画は木下恵介、黒澤明、増村保三、稲垣浩といった監督の作品。年間100本は見ていたね」

 映画館通いをするために、スクールバスの車掌のアルバイトも始めた。

「僕は始発の停留所から乗るから、定期のチェックはもちろん、ドアの開け閉め、笛でバスの誘導も手伝った。このバイトのおかげで定期代はただ。そのうえにお小遣いももらえたな」

 映画館通いをするうちに、外波山の中で“映画監督”になりたいという夢も芽生える。

「黒澤明監督に直接、手紙を書いたのもこのころ。黒澤監督から返事は来なかったが、新藤兼人監督からは『環境が許せば、ちゃんと大学を出なさい。それからでも遅くない』といった励ましの手紙をいただいた。この手紙は今も大切にしまってあるよ」

 しかし外波山の家には大学に行かせる余裕はなかった。高校の入学金や腕時計も、全部、自分のアルバイト代でまかなったぐらいである。

 かといって、3人の兄が家を出た今、このまま家に残っていたら、家業をつがされるのではないか。

 そんな恐れを抱いた外波山は、京都に本社のある大手薬問屋『中川安』に就職。勤務先の横浜で寮生活を始める。

 しかし、思わぬ事態が外波山を襲う。

 仕事を始めて半年がたったころ、父がバイクで崖から転落。右手を複雑骨折するケガに見舞われ、外波山は家業の製材所を手伝わざるをえなくなった。

「木材の買い付けや入札などに同行する毎日の中で『芝居がやりたい』という思いが日に日に募ってね。20歳の秋、とうとう親父とケンカして家を飛び出した」

 上京する決心を固めた外波山は、世田谷区経堂の農家の離れ、2畳の部屋に転がり込んだ。

「2階の角部屋、家賃2千5百円。窓からは俳優・長門裕之と南田洋子の豪邸が見えてね。その家とわが家を比べて、まるで当時公開された黒澤明の映画『天国と地獄』のようだなと思ったね(笑)」

 しかも季節は秋。養成所の募集もなく、途方にくれた外波山は公衆電話から電話帳を見ながら電話をかけまくり、代々木に劇場を持つ演劇集団『変身』に潜り込んだ。

「この年1967年は、小劇場ブームの黎明(れいめい)期。8月には唐十郎主宰の状況劇場が花園神社に紅テントを張って『腰巻お仙』を、9月には寺山修司主宰の天井桟敷が『毛皮のマリー』を上演して喝采を浴びていた。

 また新宿の西口広場では土曜日になると『反戦フォーク集会』が行われ、翌年の『新宿騒乱』に向けて時代が大きく動きつつあった。僕も迷いなく小劇場の世界に飛び込んだよ」

 だが舞台にすぐ立てるわけもなく、2年間は裏方仕事。当初は朝4時に起きて、山谷で日雇い仕事をしながら食いつないだが、やがて大道具の仕事をもらうようになる。実家の製材所を手伝い、釘打ちや鋸(のこぎり)の扱いにも慣れていたことが功を奏したのだ。

 やがて腕と人柄を買われた外波山は、ぬいぐるみ人形劇『飛行船』の地方公演にも参加するようになる。

「大道具、運転手、舞台監督、そして出演となんでもやった。このとき一緒に回っていたのが俳優の柄本明、本田博太郎たち。今はみんな立派になったけど、当時は食べるのが精いっぱいだったな」

 そんな外波山に初舞台のチャンスが訪れたのは、1969年。演目は『営倉』。ある軍隊の営倉での看守と囚人の日常を描き、教練やリンチのシーンも本気で演じてみせる壮絶な舞台である。

「本番中にケガ人が続出して救急車で運ばれる役者も出た。そんな中、僕は殴られようが蹴られようが痛そうな顔ひとつ見せない。だからみんな僕を殴りにくる(笑)」

 と言って胸を張る。体力にはよほど自信があったようだ。

人生を変えた路上劇

 やがて演劇集団『変身』に身を置きながら、加わった劇団『赤い花』で外波山は“時の人”となる。

 1971年、『赤い花』のメンバーとなった外波山は、幌付きの2トントラックに乗り込んで東北一円を巡る旅巡業に出た。

「ところが岩手の大船渡で一軒家を借りて芝居しているうちに演出家と大ゲンカになってね。『赤い花』はあっけなく解散。残ったメンバーで『はみだし劇場』を立ち上げ、街頭で芝居を打ちながら旅を続けていたら、これが話題になってね。後に世界的な演出家になるNHKのディレクター佐々木昭一郎さんが噂を聞きつけて追いかけてきたんだよ」

 『混乱出血鬼』(内田栄一・作)と題したその芝居は、外波山が「お控えなすって」と仁義を切り、店に殴り込みをかける場面から始まる。止めに入った劇団員と番傘でチャンバラとなり、最後に外波山が斬られ、鮮血がドバッと流れるシュールな劇。しかも、これを路上でやったのだ。

 それをいたく気に入った佐々木氏は、ドラマ『さすらい』の中で外波山たちの大立ち回りを撮影。さらに3日間かけて、主人公の少年とトラックで寝泊まりしながら旅をする名場面を作り上げた。

 するとこの作品が、文化庁芸術祭テレビドラマ部門で大賞を獲得。一大センセーションを巻き起こす。

 これをきっかけに、当時、気鋭の若手監督が映画を手がけて注目されていた「ATG(日本アートシアターギルドという映画会社)」の製作映画『竜馬暗殺』(黒木和雄監督)に出演依頼が来る。

「坂本竜馬役を原田芳雄、中岡慎太郎役を石橋蓮司、ほかにも松田優作、桃井かおり、中川梨絵など錚々たる役者がそろったこの映画に僕は“人斬り半次郎”役で出演。実はこの作品、ゴールデン街で生まれた企画でね。

 京都のお寺に泊まり込んで撮影したんだけど、台本の変更は常でいつもディスカッション。その場で演出して撮影するような感じだったから、途中で製作費が足りなくなってね。ゴールデン街の老舗『まえだ』のママたちがポンと200万円出してくれたから完成したけど、もし、そのお金がなかったらどうなっていたか……。今では考えられないな」

◇  ◇  ◇

 後に外波山自身も店を持つことになるゴールデン街。起源は終戦後の混乱期にできた闇市がルーツ。店内はいずれも3坪から4・5坪と狭く、カウンターに数人並ぶだけで満席となるこの空間に当時、大島渚や若松孝二といった映画関係者や、野坂昭如、北方謙三、大沢在昌といった人気作家や文化人が夜な夜な集い、明け方まで熱い議論を闘わせ、まるで梁山泊の様相を呈していた。

「当時歩いて帰れる百人町に住んでいたものだから、僕の家は溜まり場。まだ助監督だった高橋伴明や井筒和幸、漫画家の滝田ゆう、たこ八郎といった面々がよく泊まりに来て、朝まで飲み明かしたものだよ」

野外劇はハプニングの連続

 明治維新と70年安保を重ね合わせた映画『竜馬暗殺』は、1973年に公開され、ゴールデン街が産み落とした名作として今も語り継がれている。

 路上演劇で一躍その名を馳せた外波山は、演劇集団「変身」を退団。ますます“野外劇”にのめり込んでいく。

 中でも注目を集めたのが'73年に福島県・湯本の一軒家を借り切って25日間にわたって行った『外波山文明城』。

「6人の役者が寝泊まりして、それぞれが24時間芝居する。寝ているのも芝居。お客も投げ銭を払えば寝泊まり自由。この芝居を見に来ていた観客のひとりに当時19歳だった秋吉久美子がいてね。すっかり演劇が好きになったのか、その後、家出同然で上京。芝居の受付なんかを手伝ってくれていたけど、映画『赤ちょうちん』や『妹』でいきなり売れちゃったね」

 翌年には、決壊したばかりの多摩川の河川敷で、『唄入り乱極道』という作品でヤクザの抗争劇を描く。多摩川を管理している役人が帰るのを見計らって、夕方から準備を始めて夜に上演した。

「20人が両手に松明を持って多摩川を渡るオープニング。そして中洲に僕が登場して親分の敵討ちが始まるわけだが、途中で川面にガソリンをまいて火をつけて飛び込むシーンなんかも話題を呼んで3夜とも大入りだったね」

 その翌年には鎌倉・材木座海岸の海の家を毎週土曜日に借り切って芝居を打った。

「芝居の冒頭で、僕が海から女優を担いで登場するなど、やりたい放題。『はみだし劇場』の野外劇は回を重ねるごとに過激になっていって山崎哲や流山児祥たちと“アングラ第2世代”と呼ばれるようになっていた。野外劇はハプニングの連続だけど、誰もやっていないことをやっているという自負もある」

 このころ外波山にとって忘れられない出会いがあった。それは後に外波山の全芝居のポスターを描くことになるイラストレーター・黒田征太郎との出会いである。もともと、ゴールデン街の飲み友達だった黒田に、

「黒さん、今度、多摩川の河原で芝居やるんだけどポスター描いてくれない。ギャラは出せないけど、芝居に対する思いだけはあるので何とか描いてくれ」

 と頼んでみると当時、超がつくほどの売れっ子だった黒田だが、気持ちよく快諾。

「そのかわり、お前が芝居をやる限り、俺が全部描くからな!」

 それから46年。黒田の描くポスターは今や外波山演劇の代名詞ともなっている。

たこ八郎との思い出

 さらに翌年、外波山は新たな出会いを求めて“シルクロードの旅”に出る。

1年間のオープンチケットを買って、まずドイツへ飛び車を手に入れ、行き当たりばったりの旅に出た。ヨーロッパを縦断、トルコから中東を抜けてインド、ネパールまでの5か月間の旅。

 はじめ1時間の芝居を用意していったんだけど、言葉も通じないし、すぐに人が集まってきて、警官とかに見つかってしまう。そこでチャンバラなんかのパフォーマンスをやることにした。投げ銭はもらえなかったけど、村の長の家に泊めてもらったりしたから、食べるものには困らなかったよ。交通事故や騒動で警察に事情聴取されたりとトラブルもいっぱいあったけど楽しい思い出。もし機会があれば今度はアフリカに行ってみたいな」

 帰国後、外波山の破天荒な旅行記は『日刊スポーツ』で1か月にわたって連載され、その勇姿は、当時発売されていた『毎日グラフ』にも掲載された。

 劇団『変身』時代の後輩が、もう1軒店を出すから『クラクラ』をやらないかと言ってきたのは1979年。外波山32歳のときだった。

「座長をしていると飲みに行くのも高くつく。自分の店ならみんなも集まれるし安く飲める。そんな考えから二つ返事で引き受けた。ただし、店をやると食べていけるようになり、芝居を辞めてしまう人も多い。そうはなりたくなかった」

 そんな思いを胸に、引き継いだ『クラクラ』は、外波山の人柄もあり、開店当初から大勢のお客さんに恵まれた。

 中でも、開店初日から亡くなるその日まで毎日飲みに来てたのがコメディアンのたこ八郎だった。

「新宿・区役所通りの『小茶』という店で会ったのが最初かな。ウマが合い家も近かったせいかしょっちゅう飲み歩いていたね。僕が店をやるようになってからはカウンターの片隅でよく酔いつぶれて寝ていたよ。浅草『花やしき』の前にある見世物小屋『稲村劇場』で芝居をしたころ、出てもらったこともある。

 高倉健さんから、たこちゃんに直々に声がかかって、映画『幸福の黄色いハンカチ』に出たときは、本当にうれしそうだった。

 亡くなった日も店が終わってから真鶴まで仲間5人で泳ぎに行ってね。海の上で振り向いたら溺れていて慌てて水を吐かせたんだけど、手遅れだった。葬儀委員長の赤塚不二夫さんに『お前がついていて何やってんだ』とドヤしつけられたな……

 1976年に芥川賞をとった作家の中上健次氏も常連のひとり。

「意気投合して、中上唯一の戯曲『かなかぬち〜 ちちのみの 父はいまさず〜』を書いてもらったんだけど、当時の中上は超売れっ子で、ここに来る編集者からもずいぶん文句を言われたよ。 

 この作品は1989年に、中上の故郷・熊野本宮大社でも上演され、本人にとっても思い出深い作品になったんじゃないかな」

結婚、そしてバブルの影

 ほかにも常連の人気作家・立松和平には3本戯曲を書いてもらい、最初の『南部義民伝・またきた万吉の反乱』は、34年たった今も続けている花園神社で行う野外劇のさきがけとなった。

「花園神社は、唐さんの『状況劇場』が'67年に初めてテント芝居を打って以来、アングラ劇の聖地でもある。神主さんが“立松さんが書くなら”と言って許可してくれてね。花園神社が貸してくれる限り、ほかの劇団とも協力してこれからも野外劇を発信していきたいな」

 このように、外波山の人生はゴールデン街の人脈によって支えられている、と言っても過言ではあるまい。その証拠に妻となるあさ美さん(60)との出会いも『クラクラ』だった。

「『クラクラ』のアルバイトの子が銀座の同じクラブにも勤めていて、その縁で『クラクラ』に連れてこられたのがきっかけ。店の汚さには、驚きました」

 と、ひと回り下の妻は当時を思い返す。しかし一目惚れした外波山は、連日電話をかけ「飲みに来ないか」と留守番電話にメッセージを残し続ける。

「演劇のことはさっぱりわからなかったけど、外波山が家族思いなことは感じていたので結婚に踏み切りました」

 芝居一筋できた外波山が40歳で結婚。男女2人の子どもを授かる。しかし外波山は、やはり並みの夫ではなかった。

 妻にひと言の相談もなく、作家の田中小実昌氏たちと、ブラジルに小学校を建てる基金集めのために、ブラリと1か月も旅に出てしまったのである。

「雪が降る1月の寒い夜、乳飲み子を託児所に預けてクラクラで働き、夜中に迎えに行く日々。これにはホント腹が立ちましたね」

 1990年には、主宰する「はみだし劇場」を「椿組」と改名。毎年、花園神社で野外劇を上演するなど今まで以上に精力的に活躍する外波山。

 しかしバブルの影がゴールデン街に忍び寄りつつあった。

「'84年ごろから、地上げ屋に500万円から1千万円の大金をもらって、立ち退く店が相次ぎ、250軒ほどあった店のうち、100軒以上がなくなってしまった。公園などの施設ができるならまだしも、明らかに転売目的の地上げ。これは断固反対すべきだと思って『新宿花園ゴールデン街を守ろう会』を立ち上げた」

 地上げされ、ベニヤ板を打ちつけられた店は痛々しく、その様子はマスコミでも連日大きく取り上げられた。

「守ろう会」では外波山らが先頭に立ち、黒田征太郎の「酒を捨てたら夢も死ぬ」と描かれたTシャツをはじめ、この運動に賛同してくれた赤塚不二夫、上村一夫、滝田ゆうといった漫画家が描いてくれたTシャツを売って資金を集め、弁護士を雇い地上げ屋と闘った。

「火事や火つけ騒ぎもあり、組合でガードマンを雇うだけでは手が回らず、土日は腕章をつけ自分たちでも見回った。それから毎年12月中ごろには『ゴールデン街はまだ元気ですよ!』と“餅つき大会”を開催。道ゆく人たちに餅や酒を振る舞った。これは10年続いたな」

 そこには村で困っている人たちに尽くした父や「人に優しくすれば必ず自分に返ってくる」と話していた母の面影が見て取れる。

俵万智と小泉今日子

 やがてバブル崩壊。地上げ業者の倒産も相次ぎ、危機は去った。ところが思わぬ副産物も。

「オーナーがいなくなっていた店に、この街を気に入った若い人たちが出店してくれた。そのおかげで、高齢化しつつあったゴールデン街も若返ることができたんだよ」

 と外波山はうれしそうに話す。まさにピンチはチャンス。オーナーが若返ったことで、訪れる客層も広がり、火の消えかけていたゴールデン街も活気を取り戻しつつあった。

 そして21世紀に入って間もないころ、『クラクラ』にも女神が現れる。

「最初は編集者に連れてこられたのがきっかけで、月に2、3回バイトとしてカウンターに立つことになりました。田舎の福井から送られた新米があまりに美味しかったので、ひと口サイズの塩むすびにしてカウンターに積み上げたら、それが評判になったこともありました」

 と話すのは当時、歌人として活躍していた俵万智さん。

 俵さんがいると聞き、演出家の野田秀樹さんや歌舞伎俳優の故・中村勘三郎さんも遊びにきてくれて店も賑わった。

 落語家の春風亭昇太師匠も、長らく通う常連のひとり。

「新宿・末廣亭の高座に上がった帰り、よく顔を出してます。縁あって、花園神社の野外劇に舞台づくりから参加させていただいたことも。外波山さんは年齢不詳。権威をふりかざさない、なんとも言えない人柄に魅力を感じますね」と話す。

 しかし、いざ芝居に入ると人格は一変する。映画監督の平山秀幸さんは言う。

「最初に出ていただいた2004年の映画『レディ・ジョーカー』ではトバさん演じる叩き上げの刑事が自殺するシーンがあるんです。そのときのトバさんがよくてね。怖いくらいで、現場はビリビリ。それ以来、映画を撮るたびにワンシーンでもって言って出てもらっています。

 2017年のドラマ『ヒトヤノトゲ〜獄の棘〜』(WOWOW)では、息子を殺され、刑期を終えて出所する犯人を射殺する父親の役を演じてもらいました。このときも声をかけられないほどの緊張感で素晴らしい芝居を見せてもらいました。たまには全然違う、柔らかいゲイバーのママ役かなんかで、出てもらおうかな(笑)」

 一昨年3月、下北沢ザ・スズナリの椿組の舞台『毒おんな』に、あの小泉今日子が出演することが明らかになると芸能界に衝撃が走った。

「この芝居は、練炭による『連続不審死事件』を起こした木嶋佳苗死刑囚がモデル。お互いの芝居を見て、『クラクラ』にも飲みにきてくれたキョンキョンがこの事件に興味があったことから声をかけました」

 と、外波山は淡々と話す。

 しかしこの年1月末に小泉はこれまで所属してきた大手芸能プロダクションから独立。しかも妻子ある俳優と恋愛関係にあることを認め、「自分の罪は自分で背負っていきます」と名ゼリフを残したばかり。

 巷で話題になっている大物の独立後の初仕事が、『毒おんな』。しかも150人も入れば満員になる小さな劇場の舞台であることに、驚きの声が上がったのである。

「小劇場の芝居『毒おんな』に出たことで、キョンキョンがこれから目指す方向性、を周りに示すことができたんじゃないかな」

変わらぬ舞台への情熱

 故郷・木曽の山深い里を後にして半世紀。外波山は人の縁を大切に、気がつけば、大好きな“野外劇”を突き詰めてきた。

「この道に進むと決めて進んできたわけじゃない。野外劇の楽しさを見つけてしまい、東北や海外へゆくことになった。振り返ったら自分の好きなことをやってきた感じだね。演劇はどこでもできるんだよ」

 そう話す外波山に、ある光景が浮かんでいた。

 盟友・中上健次没後20年を記念して2013年の夏。外波山は花園神社で封印されてきた『かなかぬち〜ちちのみの 父はいまさず〜』を再演。

 その芝居が故郷の仲間たちの協力を得て、外波山の故郷・南木曽でも蘇った。

「時の町長が高校の1級下で、故郷でもやってほしいという声が上がってね。同級生たちが実行委員会を立ち上げ、役者スタッフ50人が1週間泊まり込みで準備に追われたよ。壮大な野外劇を見せられて、恩返しができたかな」

 その舞台となるのが、木曽川を渡る日本最大級の木製の吊り橋「桃介橋」が架かる河川公園。

 皐月のころには躑躅(つつじ)が咲き乱れ、鯉のぼりが泳ぐ天空はその夜、荘厳な静けさに包まれた。

「この作品は、楠木正成と噂される盗賊の首領で全身を鉄の肌に変身する『かなかぬち』を、父の仇と追う姉・弟の物語。火のエネルギーなくしては語れない作品として封印してきた」

 来るなら来い、
 愚か者らめ。
 天空への道は、
 光が光りすぎる闇じゃ!

 と叫ぶ外波山の声が川をも揺るがす。

 結果、この山奥で行われた野外劇に、3日間で2000人以上の観客が訪れた。

「故郷を愛してやまないトバが、この町で演じるにふさわしい芝居をやった」

 と実行委員会にも加わった幼なじみの赤坂孝さんは、当時を振り返り懐かしげに話す。

 故郷を旅立って半世紀。旅回り一座に心奪われた文明少年は、ゴールデン街を根城に、これからも野外劇を作り続けていく。

─演劇はどこででもできる。

 という言葉を信じて。

取材・文/島右近(しまうこん)放送作家、映像プロデューサー。文化・スポーツをはじめ幅広いジャンルで取材執筆。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』を上梓。現在、忍者に関する書籍を執筆中。

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