ゴン中山が記録的ゴール量産。結実したジュビロ磐田のパスサッカー

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2020年04月09日 11:22  webスポルティーバ

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1993年〜2019年Jリーグ
『私のMVP』〜あの年の彼が一番輝いていた
第3回:1998年の中山雅史(ジュビロ磐田/FW)

 1997年にクラブとして初めてのJリーグ王者となってから、2002年にファースト、セカンド両ステージを制して、史上初の完全制覇を達成するまでのジュビロ磐田は、おそらくJリーグ史上でも最強のチームだったのではないか。

 99年には敵地テヘランのアザディスタジアムでエステグラル(イラン)を破って、アジアクラブ選手権(現AFCチャンピオンズリーグ)のタイトルも獲得している。

 その磐田の黄金期に欠かせない選手が、中山雅史だった。

 磐田の強さの秘密は、当時の日本代表の主力級をそろえた中盤にあった。代表でもボランチ・コンビを組んだ服部年宏と福西崇史の2人が後方を固め、藤田俊哉という天才パサーが攻撃を組み立て、攻撃的MFの奥大介が2列目から前線に切れ込んだ。そして、その中盤の中央に位置する名波浩がゲームをコントロールしてタクトを振るった。

 名手たちがシンクロナイズする磐田の中盤。選手間の距離を短くして小さなゾーンをつくって中盤を制圧し、互いが”阿吽の呼吸”でカバーし合うと同時に、それぞれのストロングポイントを存分に発揮したのだ。これが世に言う「Nボックス」である。

「Nボックス」こそが、当時の磐田の強さの根源だったことは間違いない。言わば、第2次世界大戦前から長い時間をかけてパスサッカーを追求し続けてきた日本のサッカーの、一つの到達点だったと言ってもいいだろう。

 ただ、パスサッカーに優れたチームというのは、しばしば中盤でのボール回しに自らが酔ってしまうところがある。その点で、磐田がその強さを「結果」につなげられたのは、最強の中盤に加えて優れたストライカーが存在していたからだった。

 94年にJリーグに加盟する前から磐田の攻撃を引っ張ってきた中山雅史と、磐田の黄金時代に加入した高原直泰は、ともに日本を代表するストライカーだった。

 中山が最も輝いていたのが、98年シーズンだった。

 この年、磐田はチャンピオンシップで鹿島に敗れて準優勝に終わってしまったが、得点王に輝いた中山のゴール数は「36」。この記録は現在もJ1年間最多得点の記録として残っている。そして、この年の4月に中山が達成した「4試合連続ハットトリック」は当時の世界記録で、海外でも大きく取り上げられた(この記録は2016年にクロアチアのステファン・ルチヤニッチによって破られた)。

 中山がこの記録を達成した当時、筆者はヨーロッパで取材をしていた。当時は、現在とは違って、海外でJリーグの映像を見るのは難しい時代だった。だが、中山の雄姿は現地のスポーツニュースで何度も見ることができた。

 ちなみに、中山は00年2月には日本代表のブルネイ戦で試合開始からわずか3分15秒でハットトリックを記録。これも、世界記録としてギネスブックに掲載された(筆者は、この試合は現地で観戦していた)。

 98年は日本代表が初めてワールドカップに挑んだ年でもあったが、中山はジャマイカ戦でワールドカップ本大会での日本人初ゴールを決めている。

 ストライカーとしての中山の特徴は、ボールを持ったら相手ゴールに向かって強引に仕掛けていくプレーだ。アグレッシブなドリブルは、相手DFにとって最も嫌なプレーである。また、中山というプレーヤーはメンタル的にもアグレッシブだった。常にゴールという結果を目指すプレースタイルは、まさにストライカーのあるべき姿と言っていいだろう。

 そんな中山の貪欲なプレーは筑波大学時代からのものだが、磐田という理性と感性を融合した美しいパスサッカーを駆使するチームの中で、その泥臭いプレーが輝いたところが面白い。

 ゴール前で遠慮してしまうことの多い日本人選手の中では、中山のプレーは特筆すべきものだ。出でよ、ゴン中山の後継者!

このニュースに関するつぶやき

  • 中山さんの強さはメンタルだと名波さんは言っていた。決定的なパスを通しても中山さんはよく外すという。名波さんが怒っても「ゴメン、ゴメンもう一回!」と平謝り。全然へこたれないそうだ。
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