ファンに愛された古田敦也、15年前のあの日…快挙達成の瞬間

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2020年04月24日 10:11  ベースボールキング

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広島戦の6回、大竹から三塁線に二塁打を放つヤクルト・古田。通算2000安打を達成=24日午後、松山中央公園野球場
◆ 記念球をライトスタンドへ

 2005年4月24日――。15年前、ヤクルトスワローズの古田敦也が金字塔を打ち立てたのがこの日、松山・坊っちゃんスタジアムでの広島カープ戦だ。史上32人目となる2000安打達成。当時、大学・社会人を経由してプロ入りした選手としては初めてのことだった。
 
 記録達成まであと1本と迫っていたこの試合、6回の第3打席。広島の先発・大竹寛(現巨人)から放った打球が三塁線を抜き、古田は二塁ベースに到達。スコアボードに「H」のランプが点り、記録は二塁打となった。

 歓喜の瞬間。松山に詰めかけた大勢のツバメ党から拍手を浴び、ベンチからはチームメイトが続々と古田のもとへ向かっていく。対戦相手であるカープの選手やファンからも祝福を受け、敵も味方も関係なかった。

 2000安打の記念球にはサインを入れ、「皆さん喜んでくれるかなと思って投げました」と、この日ライトスタンドに陣取ったファンに向かって投げ入れた。

 古田は試合後のインタビューで「皆さんが僕のことのように本当に喜んでくれているので、僕もすごく嬉しい気分になりました」とコメント。“燕の要”としてチームを引っ張ってきたプロ16年目の男は、試合中の真剣な表情とは打って変わり、快挙達成に笑顔があふれた。


◆ 恩師である野村監督との共通点

 兵庫の川西明峰高から立命館大に進学し、トヨタ自動車を経て89年ドラフト2位でヤクルトに入団した古田。捕手としての2000安打は、プロ入り当時からの監督である野村克也氏以来2人目の記録となった。

 野村氏が掲げた「ID野球」の申し子とまで呼ばれた古田は、ヤクルトには欠かすことのできない存在に成長。90年代の黄金期を支え、攻守にわたって長くチームをけん引し続けたのは言うまでもない。

 また、04年の近鉄・オリックスの合併に端を発した球界再編問題では、グラウンド外で奔走した。古田は日本プロ野球選手会の会長として12球団維持に尽力し、多くのプロ野球ファンの支持を集めた。今季は残念ながら中止となってしまったが、「交流戦」(05年開始)がスタートするきっかけもつくった。
 
 2000安打を達成した05年のオフには、南海時代の野村氏と同じく「兼任監督」に就任。06年はチームを2年ぶりのAクラス入りに導くが、翌07年は最下位に低迷。「代打・オレ」というフレーズも話題になったが、選手としてだけでなく監督として次代の捕手育成にも励み、その狭間で苦しんだ2年間だったと言える。


◆ 再びユニフォームを着ることは…

 今年の2月には悲しい知らせがあった。“師匠”である野村氏が「虚血性心不全」のために亡くなった。

 昨年の7月には球団設立50周年を記念した「スワローズ・ドリームゲーム」が行われ、スワローズの歴史を彩ったレジェンドたちが神宮球場に集結。古田は「GOLDEN 90’s」のヘッドコーチとして、野村監督とコンビを組んだ。

 試合後に古田は「これだけお客さんが入って喜んでいただけたら、また5年後・10年後やるんじゃないですか」と語ったが、野村・古田の師弟コンビのユニフォーム姿は、これが最後となってしまった。
 
 07年10月7日、古田は自身の引退試合のセレモニーで、ファンに向け「また会いましょう」とメッセージを送った。多くのファンに愛された古田が再びユニフォームを着る姿は、いつ訪れるか。天国の恩師もきっと待ち望んでいるに違いない。


文=別府勉(べっぷ・つとむ)

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