遺骨DNAで判明した14年前の男児失踪“その後”……時効寸前に捕まったホステスの半生【札幌・小四男児殺害事件:前編】

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2020年05月05日 22:02  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 北海道・新十津川町で農家を営む男性宅から火の手が上がったのは、1987年12月30日、午前3時過ぎのこと。1階に寝ていた妻と娘は逃げ出して助かったが、2階に寝ていた男性は焼死した。

 それから半年後、88年6月。男性の兄が、延焼を免れ納屋で探し物をしていると、骨らしきものが入ったスーパーのビニール袋を見つけ、「犬かなんかの骨かもしれないけど」と、警察に届けた。調べたところ、これは犬ではなく、焚き火などで火葬された人骨で、子どものほぼ一人分がそろっていた。血液型は判明したものの、遺骨からDNAを抽出することができず、誰のものかを特定するに至らなかった。

 10年後の初冬。DNA型鑑定技術の進歩により、この遺骨は1984年1月から行方不明になっていた札幌市の小学生男児のものと判明。男児を殺害した容疑で逮捕されたのは、あの家で、火事を逃れた妻だった。当時の殺人罪の公訴時効が成立する2カ月前のことだった。

札幌・小四男児殺害事件

 84年1月10日の午前9時半。小雪の舞う札幌市。内装会社経営、城下隆二(仮名)さん宅の電話が鳴り、冬休みで家にいた小学4年生の次男、英徳くん(仮名、9歳=当時)が受話器を取った。電話を終えた英徳くんは急に「外出してくる」と言い出した。母親がどこに行くのか尋ねると、

「貸したものを返してもらってくる」
「女の人からの電話」
「(近所の)XXさんの家の近く」

 などと返事をして、スノーコートを着込み、外に出て行った。

 嫌な予感がした母親は数分後、当時小学6年生の長男に後を追うように言ったが、長男が家を出ると、すでに英徳くんの姿はなかった。

 不安が募った母親は約1時間後に捜索願を出す。聞き込み捜査で、英徳くんが城下家から約100メートルほど歩いたところにある2階建てアパートの階段を上っているのを見たという住民がいることがわかった。そのアパートの2階に住んでいたのは、札幌のクラブでホステスをしていた工藤和子(仮名)だった。

 警察が事情を聞くと、和子は英徳くんと会ったことは認めたものの「XXさんの家はどこかと聞かれただけ。隣の家だと言うと、すぐに帰った」と、失踪への関与は否定し続けた。

 和子は55年、北海道南部・新冠町にある海沿いの節婦町で、馬車引きをして暮らす物静かな両親のもとに9人きょうだいの7番目として生まれ、中学卒業まで家族と暮らした。
子どもたちは学校を卒業すると都会に働きに出る時代。和子も同級生らと同じように、集団就職で家を出た。紡績工場や温泉旅館などに勤めたのち、10代後半からホステスとして働き始め、熱海や神戸、横浜、東京などのスナックを10年ほど転々とする。

 そして82年、東京のスナック経営者と結婚。長女を出産したが、結婚生活はすぐに破綻し、事件の前年9月、城下家近くのアパートに、1歳になる娘と移り住み、再び夜の街へ。すすきのの高級クラブにホステスとして復帰した。

 英徳くんの両親は、近所のアパートに住む和子と面識はなかった。しかし、城下家は近所では目立つ資産家であり、父親は代議士秘書を務める地元の名士だったという。警察は、和子が借金を抱えていたことから、身代金目的の誘拐ではないかとも疑ったが、捜査の初動が早かったためか、城下家に身代金の要求はなかった。

 そして、警察による任意の取り調べも成果が得られないまま、英徳くん失踪から3週間後、和子は娘とともにアパートから夜逃げしてしまう。

 近隣住民は、和子が重そうな段ボールを運び出す様子を目撃していたというが、それ以上の手がかりは得られないまま、事件は風化していった。彼女へ疑惑の目が再び向けられたのは、それから3年半がたってからのことだ。

 しかもそれは、英徳くんの失踪に関してではなく、冒頭の新十津川町の火災についての“疑惑”だった。彼女は、娘とともに火災を逃れたあの「妻」だったのだ。

「おれ、殺される」夫が残していた言葉 

 和子はいつも借金を抱えていた。幼い娘を連れ札幌のアパートを夜逃げしたのちも、夜の街で恋仲になった客に金を借りては、別の返済に充てると言う生活を続けていた。新十津川町の裕福な農家、山田寿夫さん(仮名)とも店で出会ったという。

「見合い話を進めようとしていたら、和子のほうから家に押しかけてきた。言うには『借金があって結婚できない。300万円あれば整理がつくから、用立てて欲しい』。寿夫は『炊事、洗濯さえしてくれたら農作業なんかしなくていい』と喜んでカネを出した」(寿夫さんの親戚)

 こうして二人は事件から2年後の86年に結婚した。近所の住民が覚えているのは、和子の農作業姿ではなく「パチンコに出かける姿」だった。子どもを幼稚園に送り出した後、毎日のようにタクシーを走らせ、隣の市のパチンコ店に通った。170センチ近くある長身に目鼻立ちのはっきりした顔立ち。その容姿で、香水の匂いを漂わせながら颯爽と農村を歩く和子は、近所では目立つ存在だった。

 結婚生活は長くは続かなかった。結婚翌年の年の瀬に起こった火災によって、寿夫さんが亡くなったからだ。和子に向けられた疑惑は、夫の死についてだった。

 不審な点はいくつもあった。未明の火災にもかかわらず、和子と娘らはコートやブーツなど外出着で身なりを整えて避難していたこと。通帳や実印などを持ち出していたこと。燃えなかった納屋に、和子の荷物がほとんど移されていたこと。そして寿夫さんには総額1億7000万円もの生命保険がかけられていたことなどだ。

「おれ、殺される」

 寿夫さんは死ぬ前、姉夫婦にこんなことを漏らしていた。

「金遣いが荒い嫁だと聞いていたから、それで食い殺される意味かと思って、詳しく聞かなかった。そこにあの火事だ。『ああ、このことだったか』と全て納得いった」(寿夫さんの兄)

 警察は和子を調べたが、火災の原因特定には至らなかった。そして和子もまた、寿夫さんの死亡保険金を請求しなかったため、支払われることもなかった。

――後編は5月6日更新

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