「民間から皇族へ!」“ニセ天皇”一族、セレブリティを巻き込んだデタラメ“家系図”【日本のアウト皇室史】

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2020年05月23日 20:12  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「天皇」のエピソードを教えてもらいます!

――前回から「偽天皇」について、お話をうかがっています。ここからは、たくさんいた「偽天皇」の中でも特に人気の高かった“熊沢天皇”こと熊沢寛道について、深掘りしていきたいと思います。まず、寛道の養父にあたる熊沢大然はどうして「民間から皇族へ」という見果てぬ夢を見るようになってしまったのでしょうか?

堀江宏樹(以下、堀江) 明治の末頃、熊沢大然は、熊沢一族に受け継がれてきた「伝承」に魅了されてしまったのです。それは「熊沢家は南朝の正統後継者であった、とある宮様の直系子孫であり、世が世であれば、天皇家になれていた」……という言い伝えです。

 ちなみに現在の天皇家は「北朝」の直系子孫にあたります。また、大日本帝国では、朝鮮や琉球の王族が日本の皇族と同等に扱われる例がありました。熊沢家に伝わる家系図のとおり、彼らが「南朝」の直系子孫であるとするなら、自分たちも皇族もしくは「準皇族」的な存在にしてもらえるのではないか……という野望をもってしまったとしても、致し方ないかもしれませんね。

 明治3年12月7日には、熊沢一族の中でも総本家などの8名が、請願書を明治政府に提出します。国のカネで熊沢家が南朝の正統後継者であると調査し、家に伝わる言い伝えが真実であると公認してほしいということでした。

――えぇーっ。そんな運動を明治時代にやっていたのですか!

堀江 戦前の日本には皇室に対して、失礼な行為をすることが犯罪となる、いわゆる「不敬罪」というものがありましたからね。北朝の子孫である皇室に、南朝の正統後継者を自称する熊沢家が、自分たちの正当性を認めてくれと迫る行為は、常識的に考えて、かなりリスキーでした。南朝のほうが、北朝よりも「正統」という考えもあったからです。

 ただ、当時の宮内大臣・田中光顕(たなか・みつあき)は「史料不備」を理由に、熊沢家の要請を却下したのでした。国が調査に乗り出すための正統性が、史料からはうかがえない。つまり、史料が揃っていないという意味で「不備」……これが何を指すかわかりますか?

――え……いったいなんでしょう?

堀江 その話の前に、当時の熊沢家から国に寄せられた「主張」を整理しておきましょう。この時点では「私(たちの誰か)を天皇にしてくれ」とかではないのです。「ウチの家の先祖が眠る古い墓を宮内庁の管轄にしてくれ」とか、「その程度」ではありました。

 しかし、こうした熊沢一族による請願の影には、それによって皇族に準ずる扱いくらいは受けたいという野望は絶対にあったと思いますよ(笑)。わざわざ資金と手間暇を投入して、宮内大臣・田中光顕に直訴するくらいですもん。

 ただね、田中大臣のいう「史料不備」の意味が問題なんですね。これをハッキリいっちゃうと、「あなた方の系図は偽物ですよ」ということです。

――ええっ! 偽物なんですか?

堀江 熊沢家に伝わる家系図はなんと約60種類もあるそうです。これにはウラがあります。江戸時代くらいには、土地の名士の一族が自分たちの系図を「盛る」ことがはやったのです。偽の系図作成のアルバイトをしている貧しい学者や僧侶に、資産家だった熊沢家の先祖が依頼。系図屋は南北朝のあるプリンスに血統がさかのぼれるという偽系図を作ったのではないかなぁ、というのが僕の推理です。

 しかしそれが60種となると、熊沢家は血統というものに非常に関心が高い一族だったといわざるを得ません。そして、ここからが一番のポイントです。系図に細かな違いがあるにせよ、熊沢家の初代は後亀山天皇の皇子で、「小倉宮」という方だとされています。もちろん実在しています。

 ただ……小倉宮は「恒敦(つねあつ)」のお名前で知られる方で、熊沢家の家系図に書かれてある「実仁親王」というお名前では一般的とはいえません。いくら熊沢天皇やその支持者が、実仁親王は「恒敦」の異名だと主張しても、その史料的な確証はないのです。

――それだとちょっと苦しいですね。

堀江 しかも、「実仁親王」といえば、一般的には北朝の後小松天皇(第100代)の皇子で、同じく北朝の称光天皇(第101代)として即位した方のお名前として知られているのでした。小倉宮はたしかに南朝関係者ですが、実仁親王といえば北朝関係者になる。

――家系図の記述が矛盾しているのですね。

堀江 そう。前提部分で、派手に転んでしまっている。さらにダメ押しのように、当時すでに熊沢一族の手元には、先祖がかつて皇族の身分であったことを保証するような物品の類は何一つ残されていなかったのです。熊沢家の中にも「史料不備」の本当の意味を察する人々はおり、いったん、「民間から皇族へ」という一族の悲願は、下火となります。

 しかし、熊沢一族の中でも「民間から皇族へ」の夢を見ることがやめられない人がいました。それが例の「偽天皇」熊沢寛道の養父にあたる熊沢大然(くまざわ・ひろしか)という人物でした。

――家系図の誤りを指摘されてもなお?

堀江 彼らにとっては宗教みたいなものなので、真偽はもはや関係なかったのかも。明治末年頃から、熊沢大然たちは歴史学会に照準を定め、熊沢家がらみの史跡を皇室の史跡として認定してもらうように運動を繰り広げるようになります。

 ただし相手が政治家ではなく専門の学者ですと、家系図の不備は致命的で、門前払いをくらうのがオチでした。ところが明治39年(1906年)、歴史学会からお墨付きを得ることは諦め、熊沢家のお手製ですが「調査書」を添付した「皇統認定の請願書」を、複数の華族たちの推薦と共に、帝国古蹟調査会なる団体に提出するというように熊沢大然たちたちは運動の方向性を変えることにしました。「推薦者」の中には、千家尊光(せんげ・たかみつ)男爵もいました。

 千家といえば、出雲大社の権宮司(ごんのぐうじ)を代々務めるお家柄で、平成26年(2014年)には高円宮家の次女・典子さんが嫁がれたことで一躍有名になりましたね。

――セレブリティたちをも取り込んじゃったんですね。

堀江 そして、請願書は明治天皇の側近中の側近である徳大寺実則(とくだいじ・さねつね)が受け取るところまで行ったことが確認されています。徳大寺は名門の公家出身で、明治天皇のもとで内大臣、そして侍従長を兼任しています。そして天皇だけでなく、宮中全体から厚い信頼を得ていました。

――そんな身分の高い人にまで届いてしまったのですね……。

堀江 かなりの異例と言えると思います。明治時代当時の宮中は、身分制度が非常に厳しいのです。たとえば、「天皇がお目覚めになった」という毎朝の連絡事項ですら、天皇のそばで寝ずの番をしていた権典侍(ごんのてんじ)など上位の女官が自分より少し下位の女官に、その女官はさらに自分より少し下位の女官に……といった形で伝言しあって、初めて宮中全体に情報がいきわたるという具合でした。

――身分が低い者が、身分の高い者と直接やりとりすることは許されない?

堀江 なにかにつけてそうなんです。というか、身分の高い者も、低い者との直接接触が禁じられているのです。

 だから請願書を上位の人に気軽に渡せるような雰囲気は、宮中には絶対にありません。熊沢家には宮中にはなんのコネもない状態。つまり無位無官の者が天皇の侍従長に請願書を渡すとなると……それはそれは莫大なお礼金の類が、何人もの仲介者に発生していたと思われます。

 それでもこの頃、明治時代の歴史学会で、北朝と南朝、どっちが正統の皇室か? という問題が盛んに議論されていたといいます。判断は明治天皇に委ねられ、天皇は「(ご自分の先祖にあたる)北朝ではなく南朝が正統である」と宣言しているんですね。これは歴史的な事実です。

――ええっ、じゃ、熊沢家は……。

堀江 そう、これをチャンスだと感じたようです。大金を費やしてでも、このビッグウェーブを逃すな! と思ったに違いない。だからこそ、なんとか明治天皇の最側近である徳大寺侍従長にまで請願書を届けるよう画策し、そして成功させるに至った。

 いいところですが、次回に続きます。

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