村上春樹が描く「異界」のルーツを辿る ノンフィクション『猫を棄てる』の読み方

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2020年05月24日 10:01  リアルサウンド

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 本書『猫を棄てる 父親について語るとき』でまず注目したいのが、その成り立ちだ。『文藝春秋』2019年6月号が初出であるノンフィクションの書籍化にあたっては、イラストレーター・漫画家の高妍(ガオ・イェン)による挿絵が加わることで作中に広がる世界をイメージしやすくなり、サイズは新書判とコンパクトな仕上がり。版元である文藝春秋の特設サイトでは感想文コンテストが行われたりと、まだ村上作品に馴染みのない層を意識しているだろう、手の取りやすさと興味の引き方が印象的だ。


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 そんな本書で〈父親に関して覚えていること〉という書き出しから語られるのは、語り手の〈僕〉こと村上春樹が知る、亡き父・村上千秋の人生であり彼との思い出である。〈僕〉がよく覚えていること、その1つがかつて猫を棄てようとした時の光景だ。小学校低学年くらいの頃、飼えない事情でもあったのだろうか、〈僕〉は父と共に1匹の雌猫を捨てるために海岸へと出かける。〈かわいそうやけど、まあしょうがなかったもんな〉と、猫を置いて帰宅する親子。すると家には、棄てたはずの猫が習性からか先に戻ってきていた。そこでの父の〈呆然とした顔〉と〈やがて感心した表情に変わり、そして最後にはいくらかほっとした顔〉は忘れがたいものがあった。


 こうした何気ないことが記憶に残るほど穏やかな日々も、不穏な非日常の世界と無関係ではなかった。〈僕〉がよく覚えているもう1つのこと、それは毎日朝食の前に父が菩薩を収めたガラスケースに向かい、長い時間お経を唱えている姿だ。習慣の理由を父に聞いてみる〈僕〉。すると、〈前の戦争で死んでいった人たちのため〉〈そこで亡くなった仲間の兵隊や、当時は敵であった中国の人たちのためだ〉という答えが返ってきた。


 浄土宗の寺の次男として1917年に生まれ、20歳で徴兵されて中国に渡った彼が何を見て何を思ったのか。わずかに知っているのは父がある日〈僕〉に打ち明けた、自分の所属する部隊によって捕虜の中国兵が処刑された時の様子だ。この話を聞いた当時を〈僕〉は、こう振り返る。


〈いずれにせよその父の回想は、軍刀で人の首がはねられる残忍な光景は、言うまでもなく幼い僕の心に強烈に焼きつけられることになった。ひとつの情景として、更に言うならひとつの擬似体験として。言い換えれば、父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものを――現代の用語を借りればトラウマを――息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。人の心の繋がりというのはそういうものだし、また歴史というのもそういうものなのだ〉


 この言葉から思い浮かぶのが、「異界」だ。


 これまで村上春樹の小説で、非日常の世界は「異界」として表現されてきた。たとえば、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』でクローゼットの奥に広がる、人間の腐肉や腐ったゴミを食べて生きる邪悪な生物「やみくろ」が住む地下世界。『1Q84』で高速道路の非常階段を降りると出現する、巨大な力を持つ善悪不明の存在「リトル・ピープル」によって、月が2つになるなど不可解な現象が起きている1Q84年の世界。異界に足を踏み入れてしまった主人公たちは、迫りくる脅威を克服するもしくはそこから逃れることで、何とか生還しようと試みる。村上が「ひとつの情景」「疑似体験」として受け止めた父の回想は、このような村上作品における異界のルーツに思えてならない。


 では、村上春樹自身はどのように父から受け継いだトラウマと向き合ってきたのか。その過程は、〈僕〉が〈ひとりの平凡な人間の、ひとりの平凡な息子に過ぎないという事実〉を伝えるのが目的だという本書で詳しく語られはしない。だからといって、平凡であると伝えようとする文章が退屈というわけではない。村上の抑えた筆致から浮かび上がる、父・千秋の平凡な人物像の内に秘められた苦悩や葛藤は、十分に読み応えがある。


 書かれていない過程を知る手がかりは、村上春樹がこれまで書いてきた小説の中にある。村上が息子の学業での成功を望む父に反して、〈好きな本をたくさん読み、好きな音楽をたくさん聴き、(略)あるいはガール・フレンドとデートをしていたりする方が、より大事な意味を持つ〉と考えていた頃のような若者が主人公となるデビュー作『風の歌を聴け』。暴力がもたらす恐怖や不条理を徹底的に描き、壮大な物語に昇華した『ねじまき鳥クロニクル』。父親から受けた呪いを振り払おうと15歳の少年が旅に出る『海辺のカフカ』など、ノーベル文学賞候補ともいわれる世界的な作家にとっつきにくさを感じていた人も、本書を入口に作品を興味深く読むことができるようになるはずだ。


 村上春樹の著作で最初に何を読めばいいのか?今後誰かに聞かれることがあれば、私は真っ先に『猫を棄てる 父親について語るとき』を挙げる。


(文=藤井勉)


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