打率3割を残しながら、33歳の若さで引退した“クセ者”【元木大介・最後の1年】

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2020年05月27日 12:30  ベースボールキング

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ここ一番での打撃が光った巨人・元木大介
◆『男たちの挽歌』第19幕:元木大介

 その男は、今季から巨人一軍ヘッドコーチになった。

 25日、元木大介は巨人球団公式インスタグラムでインスタライブを行い、1時間近くファンと軽快なトークで交流した。コーチ就任時は大物OBから“タレントコーチ”なんて批判されていたが、いまや各チーム取材規制で球団独自の情報発信力が求められる中、そのラーメン屋……じゃなくてテレビで鍛えたタレント性は貴重だ。

 実は本連載も、今週は「王貞治編」を予告していたが、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため図書館が約3カ月休館となり、資料が揃わず元木大介編に変更してお送りすることとなった。なお、小学6年生の時に後楽園球場で、その王と記念写真を撮ってもらいYGマークに憧れたのが元木である。

 「大きくなったら巨人軍に入れよ」と王から挨拶がてら声をかけられた大阪の野球少年は、やがて上宮高校へ進み、甲子園で歴代2位タイの通算6本塁打を放つ高校野球史に残るスラッガーへと成長する。


◆ 憧れの巨人と浪人生活

 そして、イケメンで女性人気も高かった甲子園のアイドルは、ドラフト会議前に巨人入りを熱望したのである。だが、1989年(平成元年)のドラフトは野茂英雄や佐々木主浩が顔を揃えた歴史的な豊作年。巨人は早くから六大学の三冠王スラッガー大森剛(慶大)の獲得へ動いていたが、17歳の元木の実質的な逆指名に球団内部も揺れる。

 元木のスター性や話題性は、この年限りで引退する中畑清の後釜三塁手として、申し分のない逸材だ。だが、蓋を開けたら1位大森で、夢破れた元木はダイエーホークスの外れ1位指名を受けるも、これを拒否してハワイでの浪人生活へ。

 ちなみにハワイといっても華やかなワイキキビーチではなく、街灯もない島の裏のさびれた地区。テレビの『大相撲ダイジェスト』日本語放送が唯一の楽しみで、人恋しさに日本人の新婚カップルに話しかけたりもした孤独な青春の記憶。

 肝心の野球は地元少年野球コーチの大工のおじさんに頼んで、マシンとボールを借り、だだっ広いフェンスもないグラウンドで打ち続ける。試合は地元の草野球チームで、無名の大学チームと試合をする日々。せめて肩が弱くならないようにピッチャーを希望した。そんな生活を半年ほど続け、ようやく90年ドラフトで悲願の巨人1位指名を受けるわけだ。


◆ 終わることなきサバイバルの始まり

 しかし実質的な1年のブランクもあり、プロのサイズとスピードに戸惑う。だが、元木にはクレバーさがあった。冷静に現実を見て長距離砲への夢を捨て、つなぎ役の右打ちを覚えモデルチェンジを試みたのだ。チャンスに強い打撃と、どこでも守れる内野の便利屋、時に外野守備にも就き、さらに夜はチームの宴会部長として次第に出番を増やしていく。

 いい車に乗って、高級な酒を飲みたいという、若手時代から一昔前の昭和のプロ野球選手のような人生観だったが、スポンサーをつけて飲むことはしなかった。時間に縛られ、気を遣うくらいなら自分の金で飲んでいた方が断然いい。東京の遊びをそれなりに楽しみながら、元木は周囲に流されない強さとしたたかさを持っていた。

 その頃、90年代中盤以降の巨人は長嶋政権の大型補強時代だ。清原和博、石井浩郎、広沢克巳(現・広澤克実)といったベテラン、さらに逆指名で同学年の仁志敏久。96年から3年連続でマント、ルイス、ダンカンと終わりなき助っ人三塁手補強まで。だが、ことごとくハズレ助っ人というなんだかよく分からない強運ぶりも発揮して、キャンプでは毎年のようにリタイア第1号元木が鉄板ネタとなりながらも、シーズン終盤には気が付けばレギュラーとして起用されている。

 チームが4番打者タイプばかり集めていた時期、一軍で生き残るために考え方を変え、プレースタイルを変え、やがて元木は長嶋監督から“クセ者”と重宝されるようになる(ちなみにミスターには結婚式の仲人も務めてもらった)。

 チャンスで打席が回るとワクワクするという強心臓ぶりに、大観衆の前で顔色を変えずに隠し球を決める図太さを併せ持つバイプレーヤー。98年、99年にはオールスターにファン投票で選出され、キャリアハイは26歳で迎えた98年の打率.297、9本、55打点。この年の得点圏打率.398はリーグトップの勝負強さだった。


◆ 首脳陣と世代の交代

 2000年代もFA移籍の江藤智を始めとして次から次へとライバルがやってきたが、97年からは6年連続100試合以上出場と、その地位を確立、年俸も1億円を超えた。だが、03年限りで原辰徳監督が退任して、堀内恒夫監督が就任すると、徐々に立場が危うくなっていく。

 当時、松井秀喜のメジャー移籍でチームは柱を失い、主力の清原和博はオーナーや監督と度々衝突しており、周囲のベテラン選手たちも含め世代交代の気運が高まる。

 一方で大型補強は続いており、03年オフにはダイエーから同い年の三塁手・小久保裕紀が移籍してくる。様々な要因が重なり出場機会を失い、追い打ちをかけるように自身の春季キャンプ二軍スタートを新聞報道で知った。結局、04年はわずか55試合の出場に終わり、翌05年に33歳の元木大介は「最後の1年」を迎えるわけだ。


◆ 余力を残した中で選んだ引き際

 プロ15年目の2005年(平成17年)は開幕からベンチスタートが続き、ペナント中盤に一時盛り返すも、7月5日に中日戦で走塁の際に右太ももに強い痛みを感じ、治療のため二軍落ち。ファームでは8月16日に実戦復帰したものの、その時期の巨人は激震に見舞われていた。

 8月4日の広島戦では清原が7番起用を不服とし、ホームランを打った後にベンチ前で出迎える監督やナインを素通りする、ハイタッチ拒否事件を起こし、8月下旬には事実上の構想外を通告される。春先に外野守備を巡りコーチと衝突したタフィ・ローズも右肩の治療を理由に二軍に降格すると、そのまま帰国して退団と、優勝争いから脱落したチームは急激な若返りを図っていた。

 自著『クセ者 元木大介自伝』(双葉社)によると、9月25日に「明日、帝国ホテルに行ってくれ」と二軍マネージャーからの電話が鳴り、翌26日にその場で球団代表から来季の構想から外れていることを告げられたという。3年前に本人にインタビューをした際、元木は当時の様子をこう振り返った。

「あぁ、クビだなと思ったから。ベテランだったら分かるよ。そういうの、自分が若い時から見てるんだから。先輩方が辞めていく時に、なんで一軍に呼ばないんだろうと不思議に思ってたら、その年限りでクビになってるみたいな。最終年はもう終わりだなと思った。イライラしたけどね。まだできるよって」
 
 そう、まだ33歳。この年も出場こそ41試合と少ないが、120打席で打率.305(OPS.708)をマーク。12月に34歳の誕生日を迎えるが、技術はもちろん体力的にもやれる自信はある。オリックスの仰木彬監督からは「大阪に来い」と誘いの電話も貰った。それでも、元木は1年浪人してまでこだわった巨人で終わることを選んだのである。新人時代に「ダイスケ」とやさしく声をかけてくれた原辰徳に最初に報告。お世話になった先輩や可愛がった後輩にも直接電話で伝えた。


◆ 愛されたクセ者

 10月4日の朝、二軍ミーティングの前に若い選手たちに引退の挨拶、ユニフォームやバットを欲しがる若手にあげると、胴上げで送り出された。そして、翌5日。奇しくも父親の誕生日だったこの日、シーズン最終戦の本拠地での広島戦に「5番一塁」で先発出場する。

 結果は4打数0安打だったものの、最終回にはショートの守備にも就いた。ここでも最後はマウンド付近で胴上げされ、グラウンドを一周してお別れ。この日の東京ドームは、「背番号2」のグッズを掲げて声援を送る観客の姿が目立ったが、ファンも巨大戦力の中で15年間もたくましくサバイバルし続けた、“クセ者”元木を愛したのである。

 思えば90年代、巨人戦が地上波テレビ中継されていた最後の時代に主力を張った松井秀喜、高橋由伸、上原浩治、二岡智宏、仁志敏久、清水隆行といった生え抜きスター選手たちで、東京ドームで引退試合をしてユニフォームを脱げたのは、この元木くらいなものである。

 引退後はラーメン屋でしくじって……じゃなくて、クイズ番組などでテレビタレント的な活動が増えた際も、プロ入り時の恩師・藤田監督の「球場にくる時にはちゃんとネクタイを締めていくものだ」という教えを守り、球場取材時はスーツを着用する野球に対する真摯さを持ち続けた。

 そして、2018年オフに三度目の指揮を執る原監督の元で13年ぶりに復帰。19年の5年ぶりの巨人リーグVに貢献すると、20年から一軍ヘッドコーチに昇格した。気が付けばレギュラー起用されていた選手時代と同じく、振り向けばダイちゃん状態。大将を支える“クセ者”ぶりは健在だ。 

 さて、元木は規定打席不足ながら打率3割を打ちユニフォームを脱いだが、過去にはなんと30本塁打を放ちながら、引退した偉大な選手もいた。元木少年も死にたいくらいに憧れた、1980年の王貞治である。

(次回、王貞治編に続く)




文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)

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