GT-R LMニスモは失敗例ではない。ニッサンは挑戦を誇りに思うべき【日本のレース通サム・コリンズの忘れられない1戦】

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2020年05月30日 14:51  AUTOSPORT web

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2015年ル・マン24時間レースを戦うニッサンGT-R LMニスモ
スーパーGTを戦うJAF-GT見たさに来日してしまうほどのレース好きで数多くのレースを取材しているイギリス人モータースポーツジャーナリストのサム・コリンズが、その取材活動のなかで記憶に残ったレースを当時の思い出とともに振り返ります。

 今回も2015年のWEC世界耐久選手権第3戦として行われた第83回ル・マン24時間レースについて。ライブ配信番組『NISMO TV(ニスモTV)』のコメンテーターを務めていたコリンズには、ニッサンの戦いはどう映ったのでしょうか。

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 2015年のル・マン24時間でニッサンチームは厳しいスタートを切った。クラッチのトラブルがあり、そのせいで23号車ニッサンGT-R LMニスモはレースのスタートに姿を見せず、20分後にガレージから出て、レースに加わった。

 出だしでつまづいた感のあったニッサン勢だが、以降は順調に走行を重ねた。21号車と22号車の2台は予定どおりのスタートを切ると、前を走るLMP2マシンをたやすく交わしていった。

 その様子はオンボード映像も交えてライブ配信され、素晴らしいシーンの連続となった。このとき、私は決勝スタート前の予想が間違っていたかもしれないと思い始めた。マシンはある程度の速さを発揮していたし、スタート直後の1時間で起きたトラブルはマシンのドアが開いてしまうというものだけで、3台のGT-R LMニスモは順調な走りを見せていた。

 しかし、レース開始から3時間が経過したころ、私はレース折り返しまでに3台ともトラブルでストップするだろうとふたたび考えるようになった。赤・白・青のトリコロールカラーをまとった21号車はガレージで長時間の修理を受けていたからだ。

 そして、この光景はお決まりのものになり、3台中1台はいつもガレージで修理されているのではないかと思うようになった。3台全車がコース上にいるほうが珍しい状態になってしまったのだ。

 それと同時に、私は少し苛立ちを覚え始めた。この年、私はYouTubeでライブ配信されるニスモTVのコメンテーターを務めていたため、個人的にみすぼらしく感じていたニッサンのホスピタリティから動けず、各所で繰り広げられていたエキサイティングなバトルを見逃していたからだ。

 コース上ではLMP1を戦うポルシェとアウディによる激戦が繰り広げられていたし、LMP2の戦いもスリリングだった。私が少し手助けしたストラッカ・童夢もフィーチャーされる機会こそ少なかったが、トップ10圏内を着実に走行し、バトルにも絡んでいた。

 そしてサルト・サーキットに夜の帳が下り始めたころ、私はようやくニッサンのスタジオを離れるチャンスを得た。最終シケインの近くにある『Radio Le Mans』ブースで、2時間30分に渡って解説を務めることになったのだ。

 このスタジオは遥かに快適だった。ニッサンのスタジオは時間が経つにつれて暑さが増していたのも要因だが、ラジオブースで入手できる情報とデータの内容もはるかに優れていたのだ。

 私は見ごたえあるレースの解説を務めることが大好きだ。だからル・マン24時間の各所で繰り広げられるバトルについてコメントすることは、アメリカ製でお世辞にも品質がいいとは言えず、しょっちゅう故障してしまう3台のFFレイアウトLMP1マシンについてコメントすることよりも、はるかに心踊るものだった。

 ラジオブースでのシフトが終わると、私はニッサンのホスピタリティまで歩いて戻った。夜になってからル・マンを歩くと特別な空気を味わえる。場内にはマシンのサウンドがコンクリート製の建物に反射して響き、あらゆる方向から人が歩いてくる。この空間には特別なエネルギーが宿っていると思っている。

 あの空間は、とてつもなく騒々しく混沌とした環境だが、一方で奇妙な平和と静けさも同居する空間でもあった。矛盾しているように聞こえる内容だが、これもル・マンが見せる魔法のひとつなのだ。

 この独特の空気にもう少し浸るべく、私は少し遠回りしてニッサンのブースへ帰る前にピットガレージに寄り道したのを覚えている。そしてピットで、ニッサンのLMP1プロジェクトでコンサルティングを務めていた親友のリカルド・ディビラと一緒に1杯のコーヒーを飲んだ。

 ディビラは大きな笑みを浮かべて、私のことを“失礼な”名で呼び、無作法な冗談を言っていた。これが彼のいつものやり口だ。

 そんなお決まりの言葉を交わした後、ディビラはGT-R LMニスモに何が起きているのかを話してくれた。私はカフェインをたっぷり摂り、彼との会話を楽しみながらも少し混乱を覚えて、ガレージを後にした。だが、3台のマシンそれぞれになにが起きているのかを知ることができた。

 GT-R LMニスモはハイブリットシステムを使わずに戦っており、エネルギー回生システムも使えないことから、マシンに備えられた小型ブレーキには予想よりもオーバーヒートする事態に陥っていた。

 マシンが抱えていた不具合はこれだけではなかったので、ガレージでは作業が絶え間なく行われ、メカニックたちは疲弊しているように見えた。その一方でエンジニアたちは手持ちぶさたに見えた。ガレージにマシンがある間、彼らの前にあるテレメトリースクリーンは真っ白なのだから当然だ。

■緊張感が張り詰めるフィニッシュ


 当時ニッサンが使っていたガレージの向かい側にあるピットウォールには大きな文字で“#eatsleepRACErepeat(食べて寝てレースする。その繰り返し)”というスローガンが掲げられていた。

 ただ、そのスローガンはレーススタート前、あるメカニックによって“寝て”の部分が、“作業、作業、作業”に上書きされていた。

 この上書きされたスローガンは、まさにニッサンガレージのムードを言い表すものだった。メカニックたちは何日も続けて全力で作業をしていた。彼らはマシンをなんとしてもチェッカーまで運ぶべく、手を緩めることはなかった。

 それからまもなく、21号車GT-R LMニスモをドライブしていた松田次生がミュルザンヌコーナーで右フロントタイヤを失うアクシデントに見舞われた。ドライブしていた次生はマシンをピットへ戻すべく、できる限りの努力をしたが、願いは叶わずリタイアを余儀なくされた。

 また、残された2台もつねに苦戦を強いられていたうえ、決勝スタートから12時間後もパフォーマンスは変わらなかった。そのためニスモTVのコメンテーターである私は話題を探すのに苦労した。

 放送スタッフと私はマシンが順調にレースを戦うか、あるいは全車がそろってリタイアすることを望んでいた節もあったが、そのどちらにもならなかった。もし全車がリタイアすれば、エキサイティングで見ごたえあるLMP2(ニッサンエンジンを積む車両が多かった)に話題を切り替えられたのだが……。

 見ごたえあるレースを解説するのがたまらなく好きな身として、速さが足りず苦戦する2台のLMP1マシンについて話すことは、まったくエキサイティングとは言えなかった。

 その結果、私はプロダクションディレクターと短い議論を交わし、パドックの後ろに駐車されていたチームバスで仮眠を取ることを許された。ただ身長が高い私にとって、このチームバスで割り当てられた寝床は狭すぎ、起き上がるたびに頭を天井にぶつけた。おそらく天井までの高さは50cmもなかっただろう。

 なんども頭をぶつける羽目になった私は眠りにつくことを諦め、『Radio Le Mans』の早朝シフトを担当することにした。そしてニッサンのガレージに戻る頃には、完全に太陽が昇っていた。

 レースを戦い続けていた2台のGT-R LMニスモはタイミングモニター上でもレースを戦っている状態だったが、私がチームバスで仮眠していた時間よりも長い時をピットで過ごしていた。

 ただ私たちは仮眠を許されたことで、活力を取り戻すことができた。またレースは夜明けを迎えたことで、ニッサンにとってのプライオリティはフィニッシュまで生き残ることに変化した。彼らが無事にチェッカーまでたどり着けるかどうか。私はまたエキサイティングな気分で実況に臨むことができた。

 しかし、夜が明けたあともニッサンが嵌っていた“パターン”に変化はなかった。マシンがガレージを離れてコース上にいると速さを発揮することもあるが、また問題を抱えて戻ってきて、長時間の修理を余儀なくされるのだ。

 結局、レースを戦い続けていた2台とも、コース上よりもガレージで過ごす時間のほうが長かった。だが、メカニックは毎回懸命に作業を行ってマシンを送り出すのだ。

 そしてあるとき、22号車GT-R LMニスモをドライブするハリー・ティンクネルが予選で3台のニッサン勢が記録したどんなタイムよりも速いラップを叩き出した。レースラップで比較してもLMP2マシンよりを十分に上回るセクタータイムだったが、LMP1のトヨタ勢よりは6秒も遅いものだった。

 またレース終了まで5時間というタイミングで、ストラッカ・レーシングの童夢S103がギヤボックストラブルでリタイアする瞬間を見るのは辛かった。ストラッカ・童夢は強力かつ安定した走りをみせていたが、以前にもトラブルが出たトランスミッションに足元をすくわれ、完走を果たすことはできなかった。

 そしてレース終了まで残り2時間、ヤン・マーデンボローが操っていた23号車GT-R LMニスモがギヤボックストラブルで戦線離脱を余儀なくされた。これで残るニッサン勢は1台のみとなり、チーム内の緊張はさらに高まることになる。

 そして、ニコ・ヒュルケンベルグ/ニック・タンディ/アール・バンバー組19号車ポルシェ919ハイブリッドが395周でトップチェッカーを受け、レース優勝を決めた直後、最後まで走り抜いたミハエル・クルム/アレックス・バンコム/ティンクネル組22号車GT-R LMニスモが153周遅れでフィニッシュラインを超えた。

 残念ながら22号車GT-R LMニスモは規定を満たせず、完走扱いにはならなかったものの、ル・マン24時間でチェッカーを受けることができたのだ。

■ニッサンはGT-R LMニスモを誇りに思うべき


 プロダクションクルーやメカニック、エンジニアと同様に私の仕事も終わった。我々はたくさんビールを飲んで、この24時間をふり返った。誰が言ったのか思い出せないのだが「これはパーティであるべきだったのに、まるで葬式のように感じる」とその雰囲気を評した。

 チーフデザイナーを務めたベン・ボウルビーは失意のなかにあるように見えた。私は彼のところへ行って一緒にビールを飲みつつ、「レースは災難だったが、マシンのコンセプトは証明された」と伝えた。

 なぜなら、ティンクネルが出したレース中のベストラップは、どのLMP2マシンよりも速かったのだ。レースを戦ったGT-R LMニスモはハイブリットシステムが機能しておらず、四輪駆動ではなく前輪駆動で、車重もLMP2マシンよりも重く、かつパワーも小さかったのに、それでもLMP2より速さをみせたのだ。

 今日に至るまで、私がビールを飲みながらボウルビーと交わした言葉は正しかったと信じている。彼のアイデアは優れたもので、マシンが適切に製造されていれば、素晴らしいパフォーマンスを発揮しただろう。

 このル・マン24時間を終えたあと、ニッサンは問題が解決されるまでGT-R LMニスモでのレース参戦を見合わせると決定した。改良された2016年仕様のマシンは、フライホイール式ではなく、バッテリー式のハイブリットシステムを搭載して製造とテストが行われた。

 しかし、このハイブリットシステムと改良されたリヤのインパクト構造に問題が発生し、プロジェクトは中止された。

 GT-R LMニスモのプロジェクトは、今では決まりの悪い失敗例と捉えられているが、ニッサンはGT-R LMニスモを誇りに思うべきだと私は考えている。コース上では成功しなかったが、マシンには革新的なアイデアが詰まっており、自動車産業ではほとんど見られないタイプの勇気を示したのだから。

 もしプロジェクトが続いて、マシンの改良が的確になされていたら、2016年にニッサンはル・マン24時間で十分な結果を残しただろうし、歴史はより丁寧に彼らを扱っただろうと私は確信している。

 その年のル・マンの後、レースに出ることがなかったもう一台のマシンは童夢S103だ。レース後、ストラッカ・レーシングは、ザイテック製シャシーへ乗り換えたのだ。ストラッカは童夢のシャシーをベースに新たなLMP1マシンを作ると発表したが、そのプロジェクトが結実することはなかった。

 童夢S102とS103は本当の実力を決して見せることができなかったが、あのデザインは本当に優れていると思っている。いつか童夢がふたたびル・マンに戻ってくることを、私は心待ちにしている。

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サム・コリンズ(Sam Collins)
F1のほかWEC世界耐久選手権、GTカーレース、学生フォーミュラなど、幅広いジャンルをカバーするイギリス出身のモータースポーツジャーナリスト。スーパーGTや全日本スーパーフォーミュラ選手権の情報にも精通しており、英語圏向け放送の解説を務めることも。近年はジャーナリストを務めるかたわら、政界にも進出している。

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