葛西純自伝連載『狂猿』第11回 ジャパニーズデスマッチの最先端、伊東竜二との対戦は……?

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2020年05月31日 15:21  リアルサウンド

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デスマッチファイター葛西純

■再び大日本のリングへ


 伊東竜二の呼びかけに応える形で、俺っちはZERO1-MAXを辞めて、フリーとして大日本プロレスのリングにあがることになった。デスマッチ自体も数年ぶりだし、しかも後楽園ホールのメイン。カードは「伊東竜二・金村キンタロー・MEN’Sテイオー vs 葛西純・BADBOY非道・佐々木貴」に決まった。試合前から、もうテンション上がりっぱなしのモチベーション上がりまくり。入場した時のファンの歓声が「お帰りなさい」的に聞こえたし、ゴングが鳴って試合がはじまってからも体が素直に動く。デスマッチに対して「これだ!」という感覚になったし、我ながら本当に水を得た魚だなって思った。


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■伊東竜二対葛西純のはずが……


 伊東とデスマッチで対戦するのは、このときが初めて。あのヒョロヒョロだった伊東がどこまでやれるのかと期待していたけど、正直に言って「まあ、こんなもんか」という手応えだった。この試合は佐々木貴が伊東竜二に3カウントを取られて負けてしまった。俺っちは試合後にマイクを持って、「伊東竜二、おまえの呼び掛けで戻ってきた。そのベルトに挑戦させろ!」と叫んだ。すると、横から出てきた佐々木貴がマイクを奪って、「ベルト狙ってんのはお前だけじゃねぇんだよ。伊東、俺にベルト挑戦させろ!」と言い出した。会場中のファンが大ブーイングだった。この時の俺っちは、佐々木貴というレスラーは知っていたけど、ほぼ初遭遇。どこか会場で会って挨拶をしたことはあったけど、世間話もしたことがなかった。


 佐々木貴は、俺っちが大日本に戻ってくる少し前にDDT(DDTプロレスリング)を辞めて、デスマッチに身を投じて、伊東竜二の持っているデスマッチヘビーのベルトに挑戦しようと目論んでいた。貴からしてみたら、せっかく流れを作ってたのに、いきなり葛西純が大日本に乗り込んできたから面白くなかったんだとは思う。


 ただこの時のお客さんは、完全に葛西純と伊東竜二のタイトルマッチを望んでいた。「佐々木貴? 誰だよオメェは!」「引っ込んでろこの野郎!」というヤジが飛び交った。あとから聞いたんだけど、このとき会場でブーイングをしていた観客のなかに、まだデビューする前の竹田誠志がいた。竹田も貴に向かって「顔じゃねえぞ!」とヤジっていたらしい。俺っちは、デスマッチに対する気持ちは誰にも負けてねぇということを確信したから、伊東とシングルをやって、その違いを分からせてやりたかった。


 それから俺っちは伊東とのシングルマッチを狙って、大日本プロレスに継続参戦するようになった。お客さんの支持はあったし、伊東竜二対葛西純のデスマッチを早く見たいという声も大きくなっていたから、これはもう次のビッグマッチとなる横浜文体で組まれるだろうな、とタカをくくっていた。いざ、文体のカードが発表になったら、伊東のタイトルマッチの相手は佐々木貴だった。え? あんなに観客からブーイングを食らっていたのに、大日本のフロントは何にもわかってねぇな。じゃあ俺っちは誰とやるんだと思ってカードをみたら、”黒天使”沼澤邪鬼とのシングルマッチが組まれていた。


 ヌマは2年後輩で、俺っちがまだ大日本にいたときに接点はあった。でも、そこまで仲が良かったわけじゃなく、普通の先輩と後輩の間柄で、プライベートで一緒に遊びに行ったりとかはなかった。ただ、当時からデスマッチ志望というのは聞いていて、俺っちがZERO-ONEに行ってる間に「沼澤邪鬼」という名前になって、デスマッチをやっていることは知っていた。俺っちを伊東とやらせないで、ヌマとシングルというのは、大日本側になにか思惑があるのかもしれない。だったら、伊東と貴にはできない試合を、俺っちとヌマでやってやる。そう考えて、カミソリを出すことにした。


 カミソリというアイテムは、以前から使ってみようと案を練っていたものではあった。実際に、非道さんとシングルが決まったときに出してやろうと思っていた。伊東と貴の試合は、どれだけ血みどろになろうが最後はやっぱり爽やかに終わるだろう。じゃあ俺らは対極の、ドロドロした本当に生きるか死ぬかの試合を見せてやる……。


■死を覚悟させた綺麗な夕日


 文体の試合の前日、カミさんとまだ2、3歳くらいだった長男と一緒に『スーパービバホーム』というホームセンターへ行って、板と発泡スチロール、それにカミソリの刃を買い、大日本の道場に運び込んで「カミソリボード」を作った。それを積んで車で帰っている時にカミさんが「あんなの試合に出して大丈夫?」と珍しく話しかけてきた。「まぁ死ぬことは無いだろうけど、大ケガでもしたらバッシングされるよ? とにかく、コレは今回だけにしてね」と言われた。それで家に帰ってきて、今度は息子をベビーカーに乗せて、家族3人で近所のスーパーまで夕飯の買い物に行った。その時に見た、街に沈む夕日がすごく綺麗で、ふと「もしかしたら、こうやって家族3人で夕日を見るのも今日が最後になるかもな」と思った。さっきのカミさんの一言が引っ掛かって、試合前にはじめて死を覚悟した。


 文体当日。俺とヌマのシングルは第5試合目に組まれ、試合形式は「MADNESS OF MASSACRE『狂気の殺戮』有刺鉄線ボード&カミソリ十字架ボード+αデスマッチ」と銘打たれた。覚悟していたとはいえ、カミソリボードの威力は凄まじく、お互いに血みどろの展開になった。最初は歓声を送っていたお客さんも、だんだん静かになっていき、最後はドン引きだった。でも、自分的にはドン引きさせるつもりでやった試合だし、それはそれで勝ったと思った。伊東と貴のメインイベントのほうがお客さんは沸いていたかもしれないけど、その試合形式は「蛍光灯300本マッチ」。あの頃、大日本でデスマッチをやっているレスラーだったら、誰でもある程度はできる。だけど、俺っちとヌマがやった試合は、2人にしかできない試合。だから客がドン引こうが何しようが、今日は俺らの勝ちだと思った。


 試合後に、俺っちは沼澤邪鬼と「045邪猿気違’s」というタッグを結成することにした。ヌマは、当時の大日本のなかで伸び悩んでいるように見えたから、スタイル的にもデスマッチの考え方も近い俺っちと組んだほうが方が上に行けるだろうと思った。ヌマは、俺っちのタッグパートナーとしてすごく優秀だった。ドロドロのデスマッチもできるし、コミカルな試合もできる。地方へ行ってはじめてのお客さんを沸かせる試合もできるし、もちろんメイン級の壮絶な試合もできる、ただ、ヌマの性格の優しさが出てしまうこともあった。俺っちに対して一歩引いてしまうというか、葛西純を立ててやろうという気持ちが出てくるから、パートナーとして対等の関係になりきれない。


 ただ、この当時は「デスマッチ新世代」と呼ばれた先輩たちがすでに一線を引いていたから、葛西純、伊東竜二、佐々木貴、沼澤邪鬼の4人がジャパニーズデスマッチの最先端だったし、試合のクオリティはどんどん上がっていったと思う。だが、俺が目指していたのは伊東とのタイトルマッチ。この頃は、コメントを求められると「伊東から取ったベルトじゃないと意味が無い」とよく言っていた。そもそも俺っちは、ベルトやタイトルというものに対して、そんなにこだわりがない。このタイミングでベルトを持てば発言権が増すとか、団体として面白くなるんじゃないかというのはあるけど、そのための道具でしかない。だから、ベルト取ったら飲み屋にまで持っていっちゃうとか、年賀状にどうしてもベルトを持った写真を使いたいとか、そういうレスラーの気持ちがイマイチわからない。


■カミさんと抱き合って泣いた日


 タイトルは二の次、とにかく伊東を追い込んで、そろそろ一騎打ちか、というムード高まっていた頃、俺っちの体に異変が起きた。


 WWSという、ポーゴさん(ミスター・ポーゴ)がやっていた興行に出て、試合が終わって伊勢崎でメシを食って、電車で家に帰ってきた。疲れがひどくて、帰宅するなり寝た。真夜中になって猛烈に腹が痛くなってきて目が覚めた。脂汗流しながら寝ているカミさんを起こして「めっちゃ腹痛いんだけど」と言ったら、「夜中で病院もやってないから、明日朝起きてまだ痛かったら近所の内科に行ってきな」と諭された。「そういうレベルじゃねえんだけどな……」と思いながら、胃薬だけ飲んで寝ようとしたんだけど痛くて寝られない。


 そのまま朝になって、カミさんに頼み込んで総合病院に連れてってもらった。受付に「どうにもこうにも腹が痛いのですぐに見てもらえないか」て言ったら、「順番がありますし、ちゃんと自分の足で歩けてるくらいだから大丈夫でしょ? しばらく待っていてください」と言われて、受付のベンチに横になりながら1時間くらい待っていた。ようやくお医者さんに診てもらえて、「ちょっとレントゲン撮ってみましょうか」と言われて撮ったら、「それじゃこっちも」みたいな感じでCTも、MRIも撮った。あれ、CTとかMRIなんて予約がないと撮れないんじゃないのかな、なんて思ってたら、検査しているうちに、どんどん医者や看護師さんが増えてきて、ただ事じゃない雰囲気になっていた。


 検査が終わって、医者に呼ばれた。「結果から言えば、腸重積、腸閉塞(へいそく)。小腸に赤ん坊の拳ぐらいの腫瘍ができていて、その影響で虫垂炎も患っている。即入院で、即手術です」と告げられた。


 一般的にこういう腫瘍は大腸にできることが多く、小腸というのはすごく珍しいケースだと説明された。


 「最悪の場合、その腫瘍がガンの可能性もあります。とりあえず良性か悪性かは、腫瘍を取って調べない限りは分かりません……」。


 俺っちはこんな風貌だけど、根はネガティブだから、医者にそう言われた途端に「これはガンだ。終わった」と思った。入院する病室へ連れて行かれて、看護士さんにベッドの用意してもらって、「では、お大事に」と言われて看護師さんがいなくなった瞬間、カミさんと抱き合って号泣した。「もう俺は先が無いかもしれないから、息子を頼む」ぐらいのことを言った。カミさんが帰ってしばらくしたら、病院へ来たときに対応してくれた受付の人が血相を変えて来て、「本当に申し訳ありませんでした。普通の人は、あんな痛みがある状態で自分の足で歩いて病院に来ないので……」と謝られた。俺っちは痛みに強いほうではないんだけど、痛みに慣れてしまうのもよくないな、と思った。


 入院中は、さすがに伊東のこともデスマッチのことも考えなかったし、プロレスに対する気持ちもポーンと抜けた。生きるか死ぬかという心境だったし、どちらかといえば死を覚悟した。念願だったプロレスラーにもなれて、お客さんの前で試合をして、普通の人では経験できないことを散々やってきたから、ここで死んだとしてもいい人生だったな、と自分を納得させた。ただ、家族を残して先に逝くのは申し訳ないと思った。


 結果的に、腫瘍は良性で、ガンではなかった。とはいえ、しばらくは静養しなくてはならない。


 プロレスラーとしては「内臓疾患で長期欠場」という立場。お見舞いには大日本の選手も来てくれたし、珍しく登坂(栄児)さんも来てくれた。金村(キンタロー)さんは、『葛西純エイド興行』を開催してくれて「欠場中の生活費に充てろ」と、売上金を全部くれた。本当にありがたかった。欠場中に入ってきたお金はそれぐらいで、貯金はすぐに底を突いた。仕方ないので、買ったばかりで全然乗ってなかったステップワゴンを売って生活費の足しにした。


 この頃は、タイミング的にもZERO1-MAXを辞めて、いちばんカネが無い頃だった。フリーとしてして大日本にあがりはじめたときも、それだけじゃ食えないからこっそりバイトもやっていた。倉庫の仕分け作業とか、パン工場で、イチゴのヘタを取ってショートケーキにひたすら置いていく作業とかもやった。どこかでプロレスファンが見ていたら嫌だなと思ったけど、生きてくためには仕方がない。それでもプロレスを辞めよう、という気持ちには全然ならなかった。欠場中に、さらにモチベーションは高まった。生きて、試合ができるんだから、ここから死にもの狂いでやってやる。デスマッチでのし上がって、有名になって、家族に一軒家を建ててやる。


 ハングリー精神というより、「いつか見ていろ」という気持ちで復帰を目指していた。


■葛西純(かさい じゅん)
プロレスリングFREEDOMS所属。1974年9月9日生まれ。血液型=AB型、身長=173.5cm、体重=91.5kg。1998年8月23日、大阪・鶴見緑地花博公園広場、vs谷口剛司でデビュー。得意技はパールハーバースプラッシュ、垂直落下式リバースタイガードライバー、スティミュレイション。


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