愛子天皇「あり得る」「不自然なことではない」 最後の将軍の孫・喜久子さまが語ったこと

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2020年06月07日 10:00  AERA dot.

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写真1988年、東京・日本橋で日本の美「かざりの世界」展を鑑賞する高松宮妃喜久子さま。 (c)朝日新聞社
1988年、東京・日本橋で日本の美「かざりの世界」展を鑑賞する高松宮妃喜久子さま。 (c)朝日新聞社
 皇位継承問題について、政府は「立皇嗣の礼」後、本格的に検討する方針だ。高松宮妃喜久子さまは、愛子さまが誕生した18年前、女性天皇の可能性について語っていた。AERA 2020年6月8日号から。

【写真】賢所参拝のため皇居に入る愛子さま

*  *  *
 緊急事態宣言が5月25日に解除された。延期された秋篠宮さま(54)の「立皇嗣(りっこうし)の礼」はいつになるのだろう。「新たな開催は早くても今秋以降」という報道も目にした。

 政府は「立皇嗣の礼」の後、皇位継承策について本格的に検討する方針だ。菅義偉官房長官は4月30日の記者会見で「立皇嗣の礼の実施時期を見極め、対応していきたい」と説明した。やはり秋以降になるのだろうか。

 ここから、高松宮妃喜久子さまの話をする。「え、何で?」と思う方も多いだろう。昭和天皇の弟である高松宮さまの妻で、2004年に92歳で亡くなった喜久子さまの話をなぜ、と。

 結論を言うなら喜久子さまは、最晩年に「女性天皇」を語っていたのだ。一般論としてではなく、愛子さまを念頭に「あり得ること」と語っていた。女性・女系天皇に冷たい安倍政権だが、喜久子さまという「中の人」が女性天皇を「あり得る」と言っていた。そのことを知っておいてほしいのだ。

 喜久子さまは1911(明治44)年、東京生まれ。父は徳川慶喜の七男・徳川慶久公爵、母は有栖川宮實枝子女王。30(昭和5)年、大正天皇の三男・高松宮宣仁親王と結婚。その翌々月から夫と欧米26カ国を回る。著書に『菊と葵のものがたり』。

 以上が簡単なプロフィル。「最後の将軍」の孫だなんて、歴史上の人物のようだ。実際、私が喜久子さまを知ったのは平成で、まだご健在だったが、すでに「史料の登場人物」だった。

 週刊誌の記者として皇室関係の取材を始めたのは93年、陛下(60)と皇后雅子さま(56)の婚約から。皇室関連の本を読む中、最初に喜久子さまの名を見たのは、元侍従長の書いた『入江相政日記』。「東宮様の御縁談について平民からとは怪しからんといふやうなことで皇后様が勢津君様と喜久君様を招んでお訴へになつた由」(昭和33年10月11日)とあった。

 東宮様とは上皇さま(86)、皇后様は香淳皇后、勢津君様は秩父宮妃勢津子さま、喜久君様が喜久子さま。美智子さま(85)という民間出身女性との間で、長男の縁談が進んでいる。母親がそのことを愚痴る相手の一人が喜久子さま、という記述だ。

 元日本テレビプロデューサー・渡邉みどりさんの著書『美智子皇后の「いのちの旅」』にも喜久子さまは出てきた。渡邉さんが総合演出をした「皇太子ご夫妻銀婚式に捧ぐ」に登場したという記述だ。放送は84年、上皇さまと美智子さまの銀婚式の特別番組で、美智子さまが結婚当初よりやつれたことについて喜久子さまは、「いちいち気をおつかいになるから、お太りになれないんですよ」と述べたと書かれていた。

 失礼を承知で正直に書くが、この2冊で私は喜久子さまを「怖いおばあさま」と認定した。拍車をかけたのが02年4月、陛下(当時は皇太子さま)と雅子さまの記者会見だった。

 前年12月に愛子さまが生まれたことを受けての会見だった。最初の質問は「懐妊、出産に際しての率直な気持ち」で、2問目はこうだった。<高松宮妃喜久子さまが月刊誌の寄稿で、(略)「好もしい出産の順序として、俗に『一姫二太郎』とも申します」と書かれましたが、手記を読まれて両殿下はどのようなご感想をお持ちですか>

「婦人公論」に掲載された喜久子さまの手記「<敬宮愛子さまご誕生に想う>めでたさを何にたとへむ」にこと寄せて、生まれたのが「男子」でなかったことを聞いていた。記者の戦略としてはわかるが、酷な質問だ。雅子さまの「適応障害」が発表されたのは、この2年後。世継ぎ問題が大きく影響したに違いない、と今なら言える。

 会見当時、雅子さまがどこまで追い詰められていたかはわからない。だが、国民の中には「男の子でなかった」ことへの複雑な思いが確かにあった。だから私は喜久子さまの「一姫二太郎」を会見で知り、ますます「怖いおばあさま」と認定した。が、恥をしのんで告白するが、手記は読んでいなかった。

 令和になり、活躍する雅子さまを書くことが増え、資料をあれこれ読んだ。中に喜久子さまの手記もあった。読んですぐ、「怖いおばあさま」でないことがわかった。「一姫二太郎」と書いた後、「もっとも、『二太郎』への期待が雅子妃殿下に過度の心理的負担をお掛けするようなことがあってはなりません」としていた。雅子さまの置かれた状況の過酷さをわかっていたと思わせる表現だった。そこから続く文章は、そっくり引用する。

「それにつけても、法律関係の責任者の間で慎重に検討して戴かなくてはならないのは、皇室典範の最初の條項を今後どうするかでしょう。女性の皇族が第百二十七代の天皇さまとして御即位遊ばす場合のあり得ること、それを考えておくのは、長い日本の歴史に鑑みて決して不自然なことではないと存じます」

 根拠として、日本に「幾人もの女帝がいらっしゃいました」と推古天皇らの名をあげ、外国には「女王のもとで国が富み栄えた例もたくさんございます」としていた。「最初の條項」が定めた「男系男子による皇位継承」でいいのかと問題提起し、平成の次の次の代で女性天皇はあり得るとはっきり書いていた。

 喜久子さまを誤解していたと反省し、関連する本を読んだ。喜久子さまは観察眼にたけ、率直で明るい女性だとわかった。

 著書『菊と葵のものがたり』の中に、『高松宮日記』について語る対談が2編入っている。夫の死後に見つけた日記を出版したものだが、喜久子さまは「宮内庁の反対を押し切っての出版だった」と語っている。対談相手の一人、阿川弘之さんが「妃殿下が、宮内庁にはこれの出版を差し止める権限があるのですかとお聞きになった。それはありませんという宮内庁の返事で、それなら私出すわよとおっしゃって」と語ると、喜久子さまは決断した理由をこう語った。

「あの戦争で若い命を捧げた人々、傷ついた人々、口では言い表せないほどの辛酸を嘗(な)めた人々が大勢いる、ということです。(略)それが書いてある。そういうことをきちんと知って戴きたい。そのためにもぜひ出版したかった」。戦争体験者としての強い思いはもちろん、広報マインド、プロデューサーマインドも伝わってくる本だった。

 喜久子さまには、子どもがいない。同書の最後に「スペイン宮廷の思い出」というエッセイがあり、アルフォンソ13世から「早くお子様をお作りになるように」と言われ、恥ずかしかったと書かれている。当時は新婚だったが、「私達は陛下の御期待にそわぬまま今日に至っている」と続けていた。

 喜久子さまの妹・榊原喜佐子(さかきばらきさこ)さんの著書『大宮様と妃殿下のお手紙』に、子どもが話題になると喜久子さまが不機嫌になることがあったと書かれていた。ほかにも、子どものいない姉夫妻を慮(おもんぱか)る文章はいくつもあった。

 喜久子さまの雅子さまへの気遣い、女性天皇を肯定する気持ちには、そういう背景があったのかもしれない。そんなふうに思ったりする昨今だ。(コラムニスト・矢部万紀子)

※AERA 2020年6月8日号

このニュースに関するつぶやき

  • 女系には触れてないのにさらっと容認してる体で書く世論操作記事。
    • イイネ!2
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  • 持統天皇は天皇の娘で夫も天皇、息子も皇子という血筋だったから中継ぎ天皇やったのでは?
    • イイネ!21
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