GHQも呆れるニセ天皇の嘘八百! それでも野望を捨てぬ熊沢天皇に最強のブレーン現る!?【日本のアウト皇室史】

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2020年06月20日 20:02  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「天皇」のエピソードを教えてもらいます!

――前回までは、内大臣府には相手にされなかったニセ天皇こと「熊沢天皇」が、アメリカの雑誌で大々的に取り上げられ風向きが変わってきた、というお話をしていただきました。しかし、GHQが熊沢天皇の「我こそ真の天皇」という主張を本気にしたというのは驚いてしまいますよね……。

堀江宏樹(以下、堀江) まぁ、信じたかどうかはわかりません。GHQは天皇制の廃止をも画策していましたから、熊沢天皇をなんらかのカタチで使えると踏んだだけかもしれません。

 しかし、熊沢の嘆願を無視していたGHQが、がぜん興味を示しだしたのは事実です。ただ、GHQは合理主義でした。GHQの使者は「あなたが南朝の正統後継者であることを示す文物はないのか?」という、熊沢にとってはイタいところを突いたといいます。しかし、熊沢はまったく焦りませんでした。使者に対面する際、熊沢に同席していた親戚(=熊沢の妹の夫が嫁ぎ先)の浅井作左衛門の証言があります。

 浅井の証言によると、福島の“ある寺”に“南朝の御神宝”を全部保管してあったが、彼の祖父の代に寺の坊さんに裏切られ、外部の者がお宝を(“キリストの遺書”などを保管していた、と主張したことでオカルト関係で有名な)水戸の竹内家に持っていってしまった……などといったことを熊沢がスラスラ答えていたそうなんですよ。

――なめらかなトークはともかく、ものすごく苦しい言い訳ですよね(笑)。

堀江 今、寺の名前はど忘れしたけど、調べればわかる! とも言っていたそうです(笑)。

 熊沢寛道は寺に入っていた時期があったのだとか。つまり僧侶として活動していた過去もあったようで。この時に鍛えられたのが、誰に対しても臆することなく、堂々としゃべれるトーク力だったようですね。しかし「熊沢信者」相手ならともかく、これではあまりに内容が薄い。聞く人が聞けば、ウソを言っているのはバレバレでした。GHQは早々と熊沢天皇に興味を失います。

 さて、1946年(昭和21年)から1954年(昭和29年)にかけて、昭和天皇は全国津々浦々を巡幸、敗戦にうちひしがれた人々を励まして回るという前代未聞の大旅行を決行しています。この時の民衆の姿を見て、いかに天皇が日本の人々から必要とされているかを痛感したGHQは、天皇制廃止も、天皇家の交代もあってはならないことだとして、熊沢家の主張を退けるに至ったのでした。

 敗戦によって天皇の権威は地に落ちたように思われました。しかしまるで不死鳥のように、自らの行動によって天皇のカリスマは復活していったのです。

――戦後、天皇の存在は「国民統合のシンボル」となりましたが、その適格者であることを昭和天皇は身を以て証明なさったのですね。

堀江 そうです。しかし熊沢天皇が昭和天皇の全国巡幸を追いかけ、対面を迫るようなことがありました。まぁ、全部断られるのですけれど。

 こうした天皇家に近づこうという活動にも資金が要ります。熊沢寛道は自分の持っていた土地を地価の3分の1程度で売り飛ばして、活動資金を得たなどと言っていましたが、実際は熊沢一族に泣きついて、金を借りていたようです。

――「天皇宣言」をしたばっかりに、どんどん大変なことになっていっているのがわかります……。

堀江 昭和24〜25年ごろ、困窮した熊沢寛道が、親戚の熊沢栄一郎に金の無心に現れた時、「君は悪いやつらに利用されている。熊沢天皇などと自称して回られても困るんだ。たいがいにせい!」などと怒られ、なんの反論もできない姿を親戚の家の子に目撃されています(『天皇の暗号』)。

 それでも仲間は現れました。正統の天皇を自称する熊沢の主張に、もともと先祖が南朝に仕える武士だったという吉田長蔵(よしだ・ちょうぞう)という、歴史好きのインテリが感化されてしまい、熊沢天皇のブレーンとして活動を共にするようになっていたのです。天皇を訴えるという大それた行いは、吉田の入れ知恵でした。

――吉田は熊沢を利用したのか、それとも逆に熊沢に利用されていたのか……。

堀江 吉田長蔵は、学問的に熊沢の主張のあやふやな部分を補強して回ったりしていました。後には熊沢の名前で論文を書いて発表したり、自分の名義では『熊沢天皇の真相』などの著書も書いています。まあ、吉田長蔵の文筆家としての活動は、「熊沢天皇のブレーン」という肩書あってのことでしたから、持ちつ持たれつの共犯関係だったのかもしれません。

 しかし、メディアに露出していったことがきっかけで、仲間を装った思わぬ「刺客」が現れることもありました。

――それって、もしかして有名人にすりよって、自分が有名になろうとする悪い人のことじゃ?

堀江 当たりです。熊沢は友だち(フレンド)のフリをした敵(エネミー)こと、フレネミー作戦に引っかかってしまったのですね。

 昭和23年(1948年)11月、熊沢のもとを「弁護士・法学博士」の肩書を持つ瀧川政次郎なる人物が尋ねてきました。この時、瀧川は熊沢の主張は「日本史の大問題」などと言い、「いずれ(南朝の宮廷があった)吉野へもご一緒しましょう」と言って去ったそうです。それから約1年後、実際に熊沢寛道と瀧川政次郎は吉野(奈良県)へ旅行することになります。そして、瀧川によるルポ記事『熊沢天皇吉野巡幸記』が「文藝春秋」(昭和25年1月号)に掲載されたのでした。これは熊沢天皇にとっては、非常にイタい、問題の記事となります。

――どんな記事だったのでしょうか。次回につづきます。

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  • 有栖川宮詐欺事件よりも前にそういう事件も有ったのですね
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