「名前を呼ぶのは愛の行為だ」なまえのないねこに重ねる恋の風景【読書日記22冊目】

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2020年06月22日 19:11  ダ・ヴィンチニュース

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2020年6月某日

いま、編集部注目の作家

「恋人できたい(願望)」

 と呟くと、そこそこの数の「いいね」がついた。

「恋人が欲しい」「つくりたい」というのとはニュアンスが少し違って、「できたい」のだ。「欲しい」や「つくりたい」ほどの積極性を持たずして、たまたま空から降ってきてほしい。

 好きな人を地獄の果てまで追いかけたいというかつてのおぞましい魚雷根性も尽きて、最近は平穏無事に暮らしたいという想いが強い。名前のない関係も悪くないけれど、糸の切れた凧同士が約束も交わさずにずっと一緒に居続けることなど不可能で、そういう、惑星の軌道がたまたま近くなったから一緒にいるという関係に疲れてしまったのが本音なのだ。

 だから恋人が「欲しい」のだけど、もう長いこと恋人がいない身としては「付き合う」ということ自体がよくわからなくなってしまった。たとえば「週に1度会おう」と約束して会えればそれでいいような気もするから、気持ちとしてはやっぱり「できたい」なのだろう。

 でも、恋人というものは、たぶんきっと特別だ。言葉を交わして約束することの強度と、それに伴う親密さがある。最近、周りの友達が「夫婦」や「恋人」を楽しんでいてとてもいいなと思うし、素直に羨ましい。そして、その光景には「こんな世界があるんだな」と思わせる眩しさがある。できれば私もそうなりたい。でも、恋人が何かもわからないのに恋人が務まる気がしない。身の丈に合っている気もしない。私があんなに眩しい光の世界に足を踏み入れることなどあるのだろうか。

 そんなことをぐるぐると考えながら本屋を回遊していたとき、一緒に暮らしている猫のみいちゃんそっくりの猫が表紙になっている絵本を見つけた。かわいすぎる。私はみいちゃんのこととなると理性が飛んで、財布がガバガバになってしまう。正気じゃないので恋だと思う。そうして探していたはずの本のことなんてぽーんと忘れて、気づけばレジで会計をしていた。そのとき買った絵本のタイトルは、『なまえのないねこ』(小峰書店)だった。

『なまえのないねこ』は文字通り、名前のない猫が自分の名前を求めて街をさまよう物語だ。

 街の猫たちはみんな名前を持っている。たとえば、靴屋の猫はライオンのような風貌だから「レオ」、お寺の猫は長生きするように「じゅげむ」といった具合に、きちんとした由来も。

 主人公のなまえのないねこは、物語の主役なのにいつも画面の端っこから覗き込むようにしてこちらを見ている。名前がないから主役になりきれないのかもしれない。名前とは言葉で、意味で、無意味なものは世の中に存在しないも同然のように扱われる。子ども向けの絵本において、そんな解釈は大げさだろうか。

 主役になりきれないなまえのないねこの表情も何とも言えない。「悲しい」でも、もちろん「うれしい」でもなく、名前があることに純粋に驚いたような顔をして、まんまるの目を見開いている。(そしてやっぱりみいちゃんに似ていてかわいい)

 街の猫たちもリアルでありながら人間のような豊かな表情を湛えていて、私は絵のことはてんでわからないけれど、そうした魅力は絵が単にうまいだけでは捉えられない気がする。絵を描かれた町田尚子さんもきっと猫好きなのだろうと勝手ながら想像する。

 ねこの視点から見れば寂しくて悲しい物語なのにも拘わらず、絵本からは画面いっぱいに充満したあたたかな多幸感がビシバシ放たれている。まるで、ねこが見た世界がそのまま私たち読者に開かれているようだ。

 名前を探して旅するねこは、犬にも花にも名前があり、人々から名前を呼ばれていることに気づく。自分の好きなものの名前を自分に名付けようとしてもしっくり来ず、「野良猫」として「しっし!」と蹴散らされ、さまよううちに雨が降り始めたシーンにはさすがに胸のあたりがきゅっとした。

 しかし、ベンチの下で雨宿りしているねこを、ひとりの女の子が見つけて事態は急展開を迎える。ねこを家に連れ帰ることにした女の子が自分の家に帰る道すがら、ねこを“ある名前”で呼ぶ。そのとき、ねこはこう悟る。

そうだ。わかった。ほしかったのは、なまえじゃないんだ。
なまえをよんでくれるひとなんだ。

 この一節を読んだとき、私は「この話は恋の物語だったんだ」と思った。

 かつて、名前のない関係だった人とのことを思い出す。私は彼が好きで、彼は私を好きではなかった。私が彼を名前で呼ぶたびに怪訝そうな顔をし、彼は私を一度たりとも名前で呼ばなかった。私は彼に好きだと言ったことはなかった。関係に名前がないから、言う権利がないと思った。だけど、彼の名前だけは執拗に呼んだ。嫌な顔をされるのがわかっていて、まるで「好き」の代わりみたいに。そして、それは恐らく「好き」の代わりだったのだ。

 女系家族社会の結婚形態は男の通い婚で、夫は夜になると妻の宿を訪れ、互いの名前を呼び合って戸を開けたと聞いたことがある。当時の女は夫にしか名前を教えなかったから、正しい名前を呼ばないと戸を開けてもらえない仕組みだったという。

 つまり、名前を教える相手は親密な存在であり、名前を呼ぶ行為は関係の証明と言っても良い。もちろん、現代において名前を教えることはそう特別なことではないけれど、名前を呼ぶという行為には一定の親密さや関係を確かめる名残があるのではないだろうか。

 二次創作とも言うべき拡大解釈のもと、最初から読み返してみると、ねことの距離がより一層縮まる気がした。街の猫たちは、恋人や夫婦など、親密かつオープンな関係を持つ人たちに置き換えられる。彼らの多幸感を受けて、まんまるに目を見開くねこは私自身だ。ねこが悲しい顔をしなかった理由が今ならわかる気がする。ねこは目の前の眩い光景を見て、何が起きているのかわからず、「こんな世界があるのか」とおしなべてピュアに驚いていたのではなかろうか。憧れながら、手の届かないものだとも思っていたのではなかろうか。

 私には名前があるけれど、いつも画面の端っこで目をまあるくしている。憧れの光の世界を眺めている。自分には不釣り合いな気がしているから悲しいとまでは思わない。でも、素直にいいなとは思う。

 なまえのなかったねこには迎えが来て、名前を呼ばれて物語は幕を閉じる。

 私にもいつか名前を呼ぶ人が現れて、あんなに眩しい光の世界に足を踏み入れる日は来るのだろうかとぼんやり考える。

 でも、誰かに迎えに来られるキャラでもないし、迎えに行くほどは自信がなくて億劫だ。

「欲しい」や「つくりたい」ほどの積極性を持たずして、恋人は、雨のように降ってきてほしい。

文=佐々木ののか 

【筆者プロフィール】ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。6/25に初の著書『愛と家族を探して』(亜紀書房)が発売予定。

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