「ひょっとして……本物の天皇?」熊沢天皇、トークで世間をけむに巻く! 昭和天皇を“訴える”暴走へ【日本のアウト皇室史】

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2020年07月04日 20:02  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「天皇」のエピソードを教えてもらいます!

――前回は南朝の正統後継者を自称する熊沢天皇のもとに、味方の顔をしたアンチが送り込まれてきたところまでお話を伺いました。

堀江宏樹(以下、堀江)「弁護士・法学博士」の肩書を持つ、正真正銘のインテリ・瀧川政次郎という人物ですね。南朝の正統後継者を自認する熊沢の主張は、「“日本史の大問題”だと思う」などと持ち上げ、熊沢を安心させてしまったのでした。

 しかし、瀧川政次郎は辣腕弁護士としての顔もあり、相手から自分に好ましい証言を取り付けることなどお手のモノだったのです。瀧川の恐い素顔に気づきもしない熊沢天皇こと熊沢寛道と瀧川が、吉野(奈良県)に出かけたのが昭和24年(1949年)のこと。

 翌年のお正月、「文藝春秋」(昭和25年1月号)に瀧川の名前で発表された「熊沢天皇吉野巡幸記」は熊沢天皇を真正面から攻撃、バカにしたアンチ記事でした。瀧川は、「熊沢氏の主張に対しては、法学者として私は真向から反対である」とはっきり書いています。そもそも彼は、原稿を一流の雑誌に発表したいという野心があった「だけ」みたいなんですね。文筆家として名をあげたいインテリの“餌”に、哀れにもされてしまったのが熊沢天皇だったのでした。

――芸能人はファンより、アンチが出てきてからが正念場とも言いますが……。

堀江 彼は芸能人を目指しているわけではないんだけど(笑)、熊沢天皇の「芸風」を、史料やその行間から分析すると、世俗を超越したような空気感の持ち主だったことがわかります。そして、いくら家系図の不備を指摘されようが、自分は南朝の正統後継者であるという主張がブレない。だからこそ、周りが「ひょっとして……」と思ってしまうのですね。熊沢天皇がトーク力に恵まれていたということはすでにお話しましたが、その才能は瀧川も認めています。

 昭和24年、瀧川と旅行した吉野・川上村の村役場集会所で、熊沢天皇は講演会を行っています。お涙頂戴の語り口で、南朝の衰亡を語るくだりに会場は多いに盛り上がったようですが、「要するに素人芸で、言ふことが野暮くさい」と瀧川には言われたい放題でした。夕食は村長さんのおごりでしたが、旅館の主人から頼まれて、スケッチブックに揮毫(きごう)させられることになりました。

――揮毫というのは、文化人に好きな言葉を書いてもらうアレですか?

堀江 そう。すると熊沢天皇は調子にのってしまって、(熊沢の先祖にあたるということになっている)「後醍醐天皇遺詔」……つまり、後醍醐天皇ラストメッセージとして、次のようなポエムを書いたのでした。

『朕が六百年の後、世は火の海泥の海となりて、日本天皇危し  大延35年10月29日』

 大延という年号は、熊沢天皇の正式名である大延天皇由来の偽元号で、かってに年号を作って、それを自分で使っちゃってるわけです(笑)。第二次世界大戦で日本が負けたのは、北朝の天皇家のせいともほのめかしていますね。たぶんブレーンの吉田長蔵に、揮毫を求められたら、こういうことを書け、といわれていたのでしょう。「遺詔」なんて専門的な言葉ですしね。

 ところが、ここにも吉田以上のインテリである法学博士・瀧川からの「その御遺詔はどの書物にあるのですか?」といった鋭角のツッコミが入るのでした。これに対し、熊沢は「ある書物にあるということです。真偽は知りませんが」などと苦し紛れの回答をするしかできなかった。

 さらに「後醍醐天皇が予言できるわけがない。現代文で書かれているわけもない」などと次々とツッコミ爆撃をくらうと、「文章は私が現代語にあらためました」とか(笑)。

――やめて! とっくに熊沢天皇のライフはゼロよ! というやつですね。

堀江 後醍醐天皇のラストメッセージなどとウソを言ってまわるのは、二度としてはいけないとか、「国法的にも道徳的にも許されざる罪悪である(「熊沢天皇吉野巡幸記」)」……とまで叱られてしまったのでした。

――うーん、正論ですけど、イジメられてるみたいで、聞いていてつらいですね。

堀江 あとね、周囲は熊沢天皇がらみで本や記事を書いて原稿料が出るかもしれませんが、熊沢天皇自身にギャラは大して入らなかったようです。だから困窮して金を親戚に借りにいって、さらにそこでも罵倒されるという。

 例のインテリで「アンチ」の瀧川からは、吉野旅行最終日に「あなたは、今後どうするのか? このあたりでもう諦めたら」とアドバイスされています。そして、吉野にある北山宮という神主のいない神社で宮司として過ごす将来を勧められています。リングにタオルが投げ込まれた状態ですね(笑)。熊沢も目に涙しながら、その申し出を「吉田長蔵にも相談してみる」と言っていたのですが……。

 しかし、熊沢天皇のブレーンの吉田長蔵は、その申し出を断りました。それどころか昭和26年(1951年)1月には、昭和天皇を天皇不適格者として訴えています! 具体的には昭和天皇が新憲法の定める「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」として不適格とする訴えを裁判所に提出しているのです。もちろん、却下されてしまいましたが。

 吉田は熊沢でまだまだ稼げると思っていたのかもしれませんが、訴訟の失敗や、熊沢天皇という存在について世間が急速に関心を失っていることを察すると、いよいよ熊沢を見捨てることになりました。

 次回、熊沢天皇シリーズ、驚愕の最終回です。

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