不屈のFWワシントン。プロ復帰は無理と言われても心臓疾患を克服した

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2020年07月07日 11:22  webスポルティーバ

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あのブラジル人Jリーガーはいま
第7回ワシントン(前編)>>後編を読む

 残念なことに、プレー中に亡くなるサッカー選手は後を絶たない。原因の多くは心臓発作だとされる。

 だが、心臓疾患を抱えていたにもかかわらず、それを克服してピッチに返り咲いた選手がいる。それも、ただサッカーができるようになっただけではない。再びトップレベルの選手として、いや、もしかしたらそれまで以上に優秀な選手となって帰ってきた。

 ワシントン・ステカネロ・セレケイラ。日本の皆さんにはワシントンでおなじみだろう。

 決してあきらめない闘志を持った彼のことを、ブラジルの人々は、「コラソン・ヴァレンチ」――ブレイブハートと呼ぶ。

 かつて私は、浦和の喫茶店で、ワシントンと何時間もいろいろな話をしたことがあった。たまにやって来る日本の子供たちにサインをしながら、彼は、「もし心臓病でなかったら、自分のサッカー人生は違うものになっていただろう」と言った。

「この心臓は切っても切り離せない私の一部だ。もちろん病気などないにこしたことはない。しかし、そのおかげで私は強くなれた。『手術をしてプロに復帰した者はいない』と言われた時、私は精神的にも身体的にも強くなろうと決めた。絶対にあきらめたくなかった」

 ワシントンは1993年、18歳の時にカシアス・ド・スルのトップチームでプロとしてプレーを始め、いきなり45試合で59ゴール(3シーズンで)という好成績を叩き出す。ゴール数が試合数よりも多い効率のいい選手に、ポルト・アレグレの名門インテルナシオナルが興味を持ち、契約を交わした。

 しかし、移籍してからのワシントンはケガが多く、おまけに糖尿病が見つかり、インスリンと薬を定期的に摂取する必要があった。ワシントンは数ゴールを残して、ピッチから消えてしまう。翌年はサンパウロから100キロ離れたカンピナスの小さなチーム、ポンチ・プレタに売られたが、ここでも調子は上がらず、すぐにより小さなパラナへと移籍した。

 この頃のワシントンはスランプに陥っていた。2年前のゴールゲッターの面影はなく、ブラジル中が1998年のフランスW杯に盛り上がる中、ワシントンは自分のチームを見つけられずにいた。この頃のことをワシントン自身はこう語っている。

「実際、私自身も何が起こったのかは説明できないでいた。3年間ほど、私は私ではなかった気がする」

 ただ、彼はどこにいっても常に自分のベストを尽くした。パラナ州リーグで得点王になり、ブラジル全国リーグでもゴールを決めた。それでもパラナが降格することは防げなかったが、ここで手を差し伸べてきたのが、一度彼を手放したポンチ・プレタだった。

 ブラジルの中堅チームは万年財政難に苦しんでいる。にもかかわらず、ポンチ・プレタはワシントン獲得に破格の100万ドル(約1億2000万円)を払った。彼らはワシントンに賭けたのである。彼が調子を取り戻せば、世界にも通用する選手であることを、わかっていたのだ。

 ワシントンは言う。

「この二度目のポンチ・プレタへの移籍から、何かが変わった。自分を再び取り戻した気がして、より軽やかに、より落ち着いてプレーできるようになった。3年の眠りから再び目覚めたような気分だった」

 1年目の2000年、ポンチ・プレタで16ゴールを決め、サンパウロ州リーグの得点王となった。同じ年にはコパ・ド・ブラジルで12ゴールを決め、セリエBのポンチ・プレタを準決勝にまで導いた。翌2001年のブラジル全国リーグでは18ゴールをマーク。これは得点王のロマーリオにたった3点差だった。

 1年目はセリエBのチームだったが、その翌年はセリエAに昇格し、6位にまで上った。これはポンチ・プレタの史上最高順位であり、同時にセリエBのチームがAに昇格して出した最高成績でもある。歴史的快挙だった。

 ポンチ・プレタの3シーズンで、ワシントンは60ゴールを決めた。1年平均20ゴール。世界は天性のストライカーをここに再び見出した。典型的な背番号9。常に敵に脅威を与える存在。彼は今でもポンチ・プレタの英雄である。

 2001年の4月25日には26歳にして初めてセレソン(ブラジル代表)のユニホームにも袖を通す。日韓W杯予選のチリ戦だった。ワシントンは2001年に日本で開催されたコンフェデレーションズカップも、レギュラーとして戦った(ちなみに彼の代表での初ゴールは、奇しくも東京ヴェルディとの親善試合であった)。

 ポンチ・プレタがワシントンに投資した100万ドルは決して無駄ではなかった。チームの成績もさることながら、2002年4月、彼らはワシントンをその5倍の値段でトルコのフェネルバフチェに売ったのである。

 フェネルバフチェもワシントンの獲得には満足だった。彼らは大金を払ったが、すぐにそれが何倍になってくると踏んだからだ。それは正しい見解だった。順当にいけば――

 彼のフェネルバフチェでの最初の試合は2002年7月16日。オーストリアのトラウンセティンとの親善試合で、チームは16対1で勝利し、ワシントンは4ゴールを決めた。リーグが始まると17試合で10ゴールを決め、得点王争いにも加わる勢いだった。

 ところが2002年の11月27日、ワシントンは練習後に突然、心臓に激しい痛みを感じた。

「実はその少し前から胸に違和感はあった。それでも練習を続け、土曜日には試合にも出てゴールも決めた。しかし胸の痛みは消えなかった。日曜日には休み、月曜に練習に戻るとまた胸が痛み、火曜日にはそれが耐え難いほどになった」

 当時のことをワシントンはこう振り返る。すぐに病院に行き検査をすると、心臓の左心房の近くの冠状動脈に血栓が見つかった。ワシントンが下された診断は「サッカーを続けることは難しい」というショッキングなものだった。フェネルバフチェは驚き、彼に給料を払うのを止めた。

 ワシントンはデリケートな手術を二度している。一度目は心臓に続く動脈にカテーテルを通して血栓を取り除き、二度目も血管に管を通して膨らませ、血が通うようにした。

「試合で胸に痛みを感じた時には、すでに心筋梗塞を起こすかもしれない危険な状態だった」

 手術を執刀したアルゼンチンの医師はそう教えてくれたという。

 しかし病気も彼を立ち止まらせることはできなかった。ワシントンは決してあきらめず、サッカーを続けるために新たなチームを探した。

 手術から約半年後の2003年5月に、彼はアトレティコ・パラナエンセと契約を交わした。ところがその19日後に受けた診断で、医師たちはまた、彼の心臓はプロのプレーには耐えられないという結果を出した。パラナエンセは契約を取り消そうとした。しかし、ワシントンはサッカーを続けたい一心で食い下がった。

「半年間無給でもいい、試合にも出なくていい。ただ練習にだけは参加させてくれ」

 まさに「コラソン・ヴァレンチ」である。

 検査を受けながら、彼は練習を続けた。手術からちょうど1年後の2003年11月、ワシントンは普通にチームメイトに混じって練習をしていた。そして12月の検査で、ハイレベルのサッカーをしてもかまわないという診断が出た。翌2004年の1月には彼がパラナエンセの一員に正式になったことが発表された。信じられないリベンジである。

 当時のチームの会長マリオ・セルソ・ペトライアはこう語る。

「プレーを見てたった3秒で、彼は完全に復活したと私は確信した。彼は私にこう言った。『会長、私はかつて両足を骨折して二度とサッカーはできないと言われたが、復活した。糖尿病が見つかった時も同じことを言われたが、ピッチに戻って来た。今はまた心臓だ。しかし必ずまたハイレベルな選手に戻ります』と。

 この強さと闘志は、他の選手にはないものだった。私は彼を信じた」

 2004年2月、彼は再びピッチに戻ってきた。14カ月のブランクなど微塵も感じさせず、復帰たった52分でゴールを決めた。試合を中継していたテレビのアナウンサーは感極まって「ゴールのために生まれた男だ!」と絶叫した。

 ここからワシントンは止まらなくなった。2月15日には2ゴールを決め、その翌週も2ゴール、翌々週も2ゴールを決め、チームは連勝。結局パラナ州リーグで10ゴールを決め、ワシントンは得点王争いの2位につけた。ワシントンは以前のレベルにまで復活した、いや、モチベーションが高い分、それ以上だったかもしれない。

 復活後の最高の舞台は、その後のブラジル全国リーグだった。初戦で名門サントス相手にゴールを挙げると、なんとその後33ゴールを決め、リーグ得点王となった。2位のアレックス・ディアスを12点も引き離しての堂々たる戴冠であり、全国リーグの最多得点記録でもあった。

 また、ビッグクラブではないパラナエンセを全国2位に導き、ブラジル中を驚かせた。病に打ち勝ち、29歳で得点王に輝いたワシントンは、世界中の注目を集めた。
(つづく)

ワシントン
本名ワシントン・ステカネロ・セレケイラ。1975年4月1日生まれ。ポンチ・プレタ、フェネルバフチェ(トルコ)、アトレティコ・パラナエンセなどを経て、2005年、東京ヴェルディに移籍。2006、07年は浦和レッズでプレー。その後もフルミネンセ、サンパウロで活躍し、2011年、現役を引退した。


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