超一流の走りを簡単に実行するストーナー。病と闘い、憧れのチームへ

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2020年07月09日 11:31  webスポルティーバ

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MotoGP最速ライダーの軌跡(3)
ケーシー・ストーナー 中

世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り返っていく。 3人目は、ケーシー・ストーナー。類まれな才能で圧巻のレースを繰り広げたその歩みをたどる。

 2007年の開幕戦カタールGPで、ケーシー・ストーナーは最高峰クラス初勝利を挙げた。

 MotoGP昇格1年目の06年は、ホンダサテライトチームから参戦し、一度だけ2位を獲得。だが、それ以外の16戦は表彰台に届かず、年間ランキング8位でシーズンを終えていた。

「ファクトリーマシンに乗れば絶対に負けない。彼らと同じタイヤを使うことができれば、転倒もしないし、トップ争いができる」

 ストーナーは、常々そう漏らしていた。サテライトチームゆえ、マシンスペックやタイヤ性能などでファクトリー勢よりも一段劣る環境に甘んじざるを得なかったのは、たしかに事実である。とはいえ、彼の言葉は己の能力を棚に上げた鼻っ柱が強い負け惜しみと受け取られるのが常だった。

 しかし、実際にホンダサテライトチームからドゥカティファクトリーへ移籍した最初のレースで、ストーナーはあっさりと優勝を飾った。しかも、2位のバレンティーノ・ロッシとのタイム差は2.838秒という大差である。このリザルトが意味しているのは、前年の言葉が苦し紛れの言い訳などではなく、単に事実を指摘していたに過ぎないということだ。彼はそれを自らの力で証明してみせた。

 以後のレースでも、ストーナーは圧倒的な速さを発揮し続けた。

・第3戦トルコGP−6.207秒
・第4戦中国GP−3.036秒
・第8戦イギリスGP−11.768秒
・第11戦U.S.GP−9.865秒
・第12戦チェコGP−7.903秒

 上記はいずれも、07年に彼が優勝したレースでの2位とのタイム差だ。この数字を見れば、いかに容赦ない勝ちっぷりだったかがよくわかる。レース序盤で前に出ると、あとは淡々と後続を引き離し続ける一方的な展開がほとんどで、派手なバトルになることは滅多になかった。

 例えば、ブレーキングでコーナー奥まで深く突っ込んでライバルの機先を制したり、派手に暴れるマシンをねじ伏せるように操って抑えこんだりすれば、見た目にもわかりやすくライダーの天才性をアピールできるだろう。だが、ストーナーの場合、あまりにもスムーズで危なげなく走っている(ように見える)。

 当時の彼に対する「電子制御任せで走っている」「図抜けたマシンパワーのおかげ」などといった事実と異なる揶揄(やゆ)や、「走りにおもしろみがない」などという難癖に近い批判の声が出たのは、この危なげない(ように見える)ライディングにその理由の一端があったのかもしれない。

 その実、彼の絶妙なスライドコントロールや繊細なスロットル操作は外から見てもわかりにくい。タイヤエンジニアやライバル選手たちがデータをみると目をむくような操作を行なっていたことは、後年になってよく指摘されるようになった。これは、ちまたでよく言われる「ファインプレーをファインプレーのように見せないのが、名選手の名選手たるゆえん」という俚諺(りげん)とも通じるところがあるかもしれない。

 そんなストーナーの特性が象徴的に表れたのは、第13戦サンマリノGPだ。

 アドリア海に面したイタリア有数の観光地リミニ近郊にあるミザノ・サーキットで開催され、この年からレースカレンダーに復活したGPだった。バレンティーノ・ロッシの住むタヴッリアからも近く、ロッシが少年時代に初めてレーシングマシンを走らせたのはこのサーキットだったという。

 それだけにこの会場は他のどのサーキットよりもロッシファンの占める割合が高い。ロッシ自身も、カレンダー復帰初年だけに必勝態勢でミザノの週末に臨んだ。

 しかしロッシは、決勝レースでマシントラブルによりあえなくリタイア。思いもしなかった事態に、満場のロッシファンは水を打ったように静まりかえった。そんな中を、真っ赤なドゥカティのマシンを駆るストーナーはまるで何事もなかったかのように淡々と独走を続け、それまでのレース同様に後続に大差をつけてシーズン8勝目を挙げた。

 この勝利でストーナーは25ポイントを加算して271点。一方、リタイアでノーポイントに終わったロッシは186点。シーズンはまだ5戦を残しており、計算上はさまざまな可能性も想定できたものの、ずば抜けた速さで独走優勝を続けるストーナーの勢いを見れば、チャンピオンの帰趨(きすう)は事実上決したに等しかった。

 実際にストーナーがチャンピオンを決めたのは、その翌々戦の第15戦日本GPだ。レースで優勝したのはストーナーのチームメイトのロリス・カピロッシ。ドゥカティにとって、03年のグランプリ復帰から5年目での王座獲得。日本のツインリンクもてぎという完全アウェーの地で達成した格好だった。

 ストーナーは6位でゴールして、タイトルを決めた。ちなみに、この王座獲得は、彼らにタイヤを提供してきたブリヂストンにとっても、最高峰クラス初制覇という記念すべきものだった。

 ストーナー、ドゥカティの圧倒的なパフォーマンスを前に、翌08年は多くの有力ライダーたちが続々とブリヂストン陣営に鞍替えした。結果、09年にはついに、MotoGPクラス全体が公式な競技規則としてブリヂストンのワンメイクルールを採用するに至った。

 08年と09年、ストーナーは多くのレースで優勝争いに加わったものの、チャンピオンには届かない結果が続いた。08年は6勝を含む11表彰台で年間ランキング2位。09年は優勝4回、2位1回、3位3回という成績でランキング4位。

 09年の第6戦のことを記しておこう。

 6月中旬に行なわれたカタルーニャGPでストーナーは3位に入った。しかし、決勝後の表彰式とそれに続く記者会見に登場したときの彼の顔色は、明らかに普通ではなかった。

 レース直後の選手たちは、流れる汗をタオルで拭いながら上気した表情で質疑応答に応じるのが通常だ。だが、この時のストーナーは、いつもの彼に珍しく疲れ切った様子で、顔色も青白く苦しげだった。そして、決勝レースの最中にヘルメットの中で嘔吐(おうと)していたことを明かし、体調不良を理由に会見場を中座した。その後数戦は継続してレースに参戦したものの、サマーブレイク開けの8月からは精密検査と休養のため、3戦を欠場した。

 復帰したのは10月上旬のポルトガルGP。ストーナーは、精密検査の結果、極度の疲労や体調不良の原因が、乳糖不耐症(にゅうとうふたいしょう)によるものと判明したことを明かした。消化酵素の一種が十分に機能しないことにより消化器などの不調を起こす疾患だった。

 体調管理を行ないながら挑んだ10年は、9戦目で表彰台を獲得した。だが、優勝したのは終盤3レースのみで年間ランキングは4位。やや生彩を欠くシーズンだった感は否めない。

 ストーナーはこの年限りでドゥカティを去り、翌11年はホンダファクトリーのレプソル・ホンダ・チームへ移籍した。心機一転の環境で、ストーナーにとって、同郷のオーストラリア人ミック・ドゥーハンが1994年から98年まで圧巻の5連覇を達成した、まさに憧れのチームに加入することを意味した。 (つづく)

【profile】ケーシー・ストーナー Casey Stoner
1985年10月16日、オーストラリア・クイーンズランド生まれ。イギリスやスペインのロードレース選手権参戦を経て、2002年からは世界選手権入り。06年にMotoGPクラスにLCR所属でデビュー。07年にはドゥカティのファクトリーチームに移籍し、初の年間王者を獲得する。レプソル・ホンダチームに移った11年にもシリーズチャンピオンに輝いた。12年に二輪界から引退した。

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