第163回芥川賞はどうなる? ノミネート5作品を徹底読解

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2020年07月11日 11:01  リアルサウンド

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 さきの6月16日、第163回芥川賞(2020年上半期)の候補作が発表された。区分上は2020年代最初の芥川賞であり、文学の将来をうらなう意味でも注目される選考である。今回ノミネートされた5作品と著者について簡単に紹介するのが、ここで求められていることだ。


高山羽根子「首里の馬」(『新潮』2020年3月号)

 高山氏は、今回唯一のノミネート経験者である。これまでの「居た場所」(2018年冬季号)、「カム・ギャザー・ラウンド・ピープル」(2019年5月号)に続く、3回目の候補作入り。いずれも受賞作として遜色ないクオリティの作品でありながら、惜しくも選考に漏れることが続いており、今回いよいよの受賞が期待されている。


 本作の舞台は、沖縄。主人公・未名子は「資料館」と「スタジオ」というふたつの空間に出入りしながら暮らしている。前者は「順さん」という年老いた女性民俗学者が収集した沖縄の歴史についての個別具体の膨大な情報のひっそりとした置き場所。そして、後者はおもに「日本語を母語としない者」たちに向けて、オンラインモニター越しにクイズを読み上げ、答えさせるという抽象的で奇妙な仕事場である。


 ある台風の夜、一頭の宮古馬が未名子の家の庭に迷い込む。その日をさかいに、未名子の人生は少しずつ景色を変える。なかでも作品後半、一見して無関係に思える「資料館」と「スタジオ」というふたつの空間が感動的なかたちで結びつく展開には唸らされた。どういうわけか、高山氏の小説では毎度、すこし不思議なことが、こともなげに気に起こる。この作者独自の魅力である。


岡本学「アウア・エイジ(Our Age)」(『群像』2020年2月号)

 2012年、群像新人文學賞を「架空列車」で受け、以降、おもに『群像』に良作を発表してきた岡本学氏の候補作。初ノミネートであるものの、今回の候補者の並びでは(このあとに紹介する作家らがデビュー作&第2作での候補作入りなので)どちらかといえばベテラン作家になるだろう。その年齢感は本作のテーマとも密接に関連している。


 あらすじはこう。40歳を過ぎ、生き飽きた気分だという大学教員の「私」は、学生時代にバイトしていた映画館に置かれていた「映写機の葬式」への招待をきっかけに、1枚の古い写真を盗み出す。写真には赤と白に配色された塔が写っており、余白に「our age」と読める文字が書かれている。写真のもとの持ち主は、いかにも「殺されそうな女」と周囲から評されたバイト先の同僚「ミスミ」。写真は彼女の母の遺品らしく、学生時代の「私」はその塔を探すのを手伝っていた。


 失意の中年が「塔」の発見をつうじて再起するという大筋には、(年齢的なものだろうか)正直あまり乗れない。随所に見られるペダンティックと取られかねないふるまいも、ややひっかかる。だが、作品後半のレトロな探偵小説的展開には、それでも引き込まれた。そして、明らかになった塔の正体について、作中の「私」さながら、わたしも画像検索して「おお!」となったことを白状する。


三木三奈「アキちゃん」(『文學界』2020年5月号)

 三木三奈氏の第125回文學界新人賞受賞作=デビュー作。さきに言うなら、本作はなるべく事前情報を入れずに読むほうがいい(なぜそのほうがいいのか、についても知らないうちに読むのがいい)タイプの小説である。ノミネート作のなかでは、もっとも広い読者にリーチする可能性がある小説だと思う。


 大人になった「わたし」は、小学5年生の頃の級友「アキちゃん」を回想する。そこでは、人前では「わたし」をあだ名で呼ぶのに、2人になると「オマエ」って呼ぶから嫌、といった具合に「アキちゃん」への憎しみが語られる。呪いで「アキちゃん」を痛い目にあわせたり、その兄に接近し弱みを握ろうとしたりする。


 小学生の人脈なので、基本的に限られた世界の話だが、ときおり垣間見える親たちの経済事情(彼/彼女らにとっては、これが大問題なのだ)による「階級」が、物語の背景にある社会構造をのぞかせる。そしてなにより、さきほどから伏せている作品後半の仕掛けにより、(場合によっては)読者の偏見が暴き立てられる。絶妙にコントロールされた語り口だ。が、通史的にみると、村田沙耶香『コンビニ人間』(2016年)や、今村夏子『むらさきのスカートの女』(2019年)といった近年の芥川賞受賞作の語り口を連想してしまう。この点が受賞にプラスに働くのか、あるいは逆か、が気になる。


遠野遥「破局」(『文藝』夏季号)

 「破局」は、2019年に「改良」で文藝賞を受けた遠野遥氏の第2作。前作で「女装」に惹かれる主人公を理不尽に襲う暴力、とりわけ「男性」性の暴力を扱った遠野氏が、次は加害者(となる)男性の側から問題にアプローチを試みたのが今作と言えるだろうか。


 ラグビー経験者で、筋トレを日常とする大学生・陽介が肉を食い、公務員試験突破を目指し、母校の高校でコーチとして後輩を指導する。そして、麻衣子と灯というふたりの女性との恋愛を赤裸々に、けれどもドライに語っていく。そこには「私はセックスするのが好きだ」という報告や、観覧車を見ながらの自慰の描写も含まれており、あまりにもな記述を可笑しみつつも、読んでいるうちにさすがに辟易してくる。しかも、当人は真面目でやさしく、正義感の強い人間と自己規定しているらしい。多弁でありながら遠近法のずれた一人称の語りは、読者に一定の不快感を募らせることに成功している。


 「私」は、作品ラストで断罪される。だが、自らを客観視できない「私」を除いて、この男に「破局」への道以外が残されていないことは(そもそも、それがタイトルなのだし)自明である。この点、ストーリー上の意外性が減じているのは悩ましい。とはいえ、さきの三木氏「アキちゃん」と同様、社会的な問題をタイトに小説化し、なおかつ面白さと両立してみせる新世代の作家らの巧妙な手つきには、やはり強く心を惹かれた。


石原燃「赤い砂を蹴る」(『文學界』2020年6月号)

 演劇ユニット・燈座で活動する石原燃氏のデビュー小説。いちおう触れておくと、すでに報道されているとおり、石原氏は作家・太宰治の孫、同じく作家・津島佑子の娘に当たるらしい。とはいえ、作品を読めば、そうした言い回しは自然と慎まれるのではないだろうか。


 「私」は母の友人だった芽衣子の帰郷に同伴し、ブラジルを訪れる。そこには、ヤマと呼ばれる日系移民たちの農場がある。「私」は画家であった母・恭子を癌で亡くしたばかりで、そこに幼くして風呂で溺死した弟の記憶が重なる。一方、芽衣子もまた異郷の地・日本で、アルコール依存の夫の死や、姑の「躾」による流産を経験してきた。彼女らの人生の周囲には、堕落と死が充溢している。本作は互いに共感できたり、できなかったり、それでもゆるやかに連帯しながら、それぞれが人生の呪いに向き合う、ふたりのロード・ノベルだ。旅のムードを象徴する一文を作中から引用しよう。「私と芽衣子さんは、間違いなく同志だった。父親がいないからといって、ひとくくりにはできない。でも、なにか同じものと戦っている、そういう感じ」。


 ちなみに、今回のノミネートで彼女を知った方は、ぜひ本作と併せて、石原氏が津島佑子のコレクション『悲しみについて』に寄せたエッセイ「人の声、母の歌」(2017年)を読んでほしい。それは「母」に向けられた、フィクションのベールを纏わない剥き出しの言葉であり、翻って、本作=フィクションの役割を考えるきっかけになるに違いない。



 以上が今回の候補作である。選考結果が発表されるのは、きたる7月15日(水)。余白に記すつもりで書くと、わたしは石原燃「赤い砂を蹴る」を、次いで高山羽根子「首里の馬」を推している。どうなるだろう。


■竹永知弘
日本現代文学研究、ライター。おもな研究対象は「内向の世代」。1991年生。@tatatakenaga


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