肉眼で追えぬ!ロンドン五輪の激闘が日本フェンシング躍進の礎となった

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2020年07月15日 11:22  webスポルティーバ

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PLAYBACK! オリンピック名勝負———蘇る記憶 第35回

スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。

◆ ◆ ◆

 2012年ロンドン五輪のフェンシング男子フルーレ団体で、日本は史上初の銀メダルを獲得。このメダルは、08年の北京五輪で個人銀を獲得して日本フェンシングの歴史を変えた太田雄貴が大きな目標として目指してきたものだった。
 日本のフルーレは、03年にウクライナ人のオレグ・マツェイチュク氏をヘッドコーチに招聘(しょうへい)して以来、着実に力を伸ばしてきた。

 07年、北京五輪出場権獲得を懸けたランキング争いが激化する中、太田が9月に世界ランキングを5位に上げた。日本はこの頃、団体戦でも力を伸ばし、ワールドカップで2勝して、団体として一時世界ランキングトップに立っていた。

 ただし、五輪で実施される団体戦は、規定で男女計6種目(フルーレ、エペ、サーブルのそれぞれ男女)中4種目のみ(東京五輪は6種目実施予定)。北京五輪では、男子フルーレ団体は行なわれない順番だった。

 当時、太田と一緒に戦っていたのは、個人戦で北京五輪に出場した同い年の千田健太や、先輩の福田佑輔と市川恭也。特に福田は、五輪イヤーになって不調に陥っていた太田に貴重なアドバイスを与えた存在で、対戦相手を想定した練習パートナーになっていた。

「ロンドン五輪では先輩たちと一緒にメダルを目指して戦いたい」。太田はそう話していた。

 しかし、北京五輪後は国内男子フルーレの勢力図が変わりつつあった。マツェイチュクコーチの指導もあり、若い選手たちが力を伸ばした。07年の世界ジュニア・カデ選手権(13〜16歳)では三宅諒が、08年世界ジュニア選手権では淡路卓が、それぞれ日本人初の優勝を果たしていた。

 太田と千田にその若い2人が加わった新たな日本チームは、10年世界選手権で3位になると、11年にはワールドカップ優勝を果たし、世界ランキングを3位に上げた。ロンドン五輪前はランキングを7位に落としたものの、3月のワールドカップ・ドイツ大会では3位を獲得。メダルを視野に入れた状況で、ロンドン五輪に挑戦した。

 7月末に行なわれた個人戦で、太田は初戦でいきなり北京五輪優勝のベンヤミン・クライブリンク(ドイツ)と当たったが、15対5で圧勝。3回戦は、世界ランキング1位のアンドレア・カッサーラ(イタリア)と接戦を繰り広げ、延長戦の末に14対15で敗退したものの、大舞台で強さを見せた。千田と三宅は2回戦敗退だった。

 団体戦の初戦の相手は、世界ランキング2位で前年の世界選手権王者、中国だった。

 フェンシングの団体戦では、1チーム3選手が相手チーム3選手と総当たりで計9試合を行なう。1試合は5点先取、もしくは3分経過で次の試合に移る。合計45点先取で勝利となり、時間内に45点に届かない場合は得点が多いチームが勝ちとなる。

 1番手の千田は、個人戦優勝のレイ・シェンに5対4で滑り出し、次の太田も10対8と優勢を維持する展開。3番手の三宅は0対2のロースコアで10対10と並ばれたが、第4試合では千田がマ・ジャンフェイから10ポイントを奪い、20対13と再びリードして波に乗った。

「接戦にもつれ込むと少し分が悪そうだが、前半で大きなリードを作ることができれば勝機はある、というのがチーム全員の共通認識でした」

 日本は、そう話していた太田が狙っていたとおりの展開に持ち込んだ。落ち着いた戦いでリードを保つと、最後の太田も確実な試合運びをして、45対30で決着をつけた。

 勝てばメダルが確定する準決勝の相手はドイツ。ドイツは12年に入ってからワールドカップで2勝を挙げて、世界ランキング3位。戦いは、ロースコアの接戦になった。

 第3試合の三宅の試合が終わった時点で8対8。4試合目で千田がセバスティアン・バッハマンからリードを奪うと、次の三宅もペーター・ヨピッヒ戦で差を広げた。この4点差を、太田がクライブリンクを相手に5点差にした。三宅とバッハマンの7試合目が終わった時点のスコアは31対25。日本は勝利に近づいていたように見えた。

 だがドイツは、最後の2試合で、北京五輪王者のクライブリンクと世界選手権4回優勝のヨピッヒが出てきた。8試合目、クライブリンクが千田に5対3とし、得点差を詰める。そして、最後の9試合目では、ヨピッヒが太田を追い詰め、残り1分53秒時点で34対34の同点になった。

 そこから互いに点を取り合い、残り9秒で38対40と相手にリードを許す展開。だが、太田が1点を返すと、残り2秒からのバトルでさらに1点を重ねて追いつき、ギリギリで勝負を振り出しに戻した。

 延長戦は1分間1本勝負。どちらに転ぶかわからない白熱した試合となった。

 開始6秒でドイツの青ランプが点灯。ヨピッヒはガッツポーズを決めたが、日本の白ランプも点灯しビデオ判定の結果、ドイツの得点は認められなかった。残り47秒で再びドイツの青ランプが点灯。勝負は決まったかに見えたが、「ヨピッヒがマスクを下げる反則『ヘッドダウン』をした」という太田のアピールが認められ、この得点も取り消し。

 3度目のバトルでは、残り47秒に赤と青の2つのランプが光った。ガッツポーズをする太田とヨビッヒ。3度目のビデオ判定の末、太田のポイントが認められ、41対40で日本がついに勝利した。

「肉眼では、ヨピッヒ選手の勝ちのようにも見えました。でも、映し出されたスロー映像で見た時は『僕の勝ちだ』と認識しました。あとは、審判がどう受け取ってくれるか。映像が再生されるたび、会場からは僕に対する声援が上がりました。試合展開は想定内でしたが、最後は本当に運も味方をしてくれました」(太田)

 決勝の相手はイタリア。団体戦の世界ランキング1位のチームだ。三宅がアンドレア・バルディーニに5対3とリードして滑り出し、2試合目の太田はジョルジョ・アボラを相手にリードを維持。しかし、3試合目の千田がカッサーラに逆転され、13対15となった。

 それでも、太田が6試合目に個人戦で敗れたカッサーラと戦い、7対5と健闘。29対30と1点差まで詰めた。その後、千田と初登場の淡路がともに粘りを見せ、37対40の3点差で最後の太田に期待をつないだ。しかし、太田は09年世界王者のバルディーニに5ポイントを先取され、39対45で敗れた。

「相手が一枚上手だった。残念ですが、試合内容は決して恥じるものではありませんでした」

 試合後にこう述べた太田は、さらに続けた。

「北京(の個人銀)は初めてのメダルで、訳のわからないまま獲得したような感じでした。でも、今回は狙って獲ったメダル。3人(千田、三宅、淡路)にとっては初めての五輪のメダル。特に(千田)健太は、前年の東日本大震災で被災した地域の出身で、『メダルを獲って気仙沼へ行くぞ』という話をして力が入っていました」

 太田は最後に次のように語った。

「これから20年後か30年後かわからないけれども、フェンシングが柔道やレスリング、競泳のように日本の基幹種目になるようにしたい。長期的に考えたとき、今回の銀メダル獲得で、頼られる競技団体になっていくためのスタート位置につけたのではないかと思います」

 振り返れば北京五輪で、日本フェンシング界は生き残りをかけて臨んでいた。マチェイチュクコーチの指導で力をつけた男女フルーレに全力を傾注し、銀メダル、7位入賞を果たした。その後は、他の種目にも有力な外国人コーチを招聘するなど総合的な強化を進めた。結果、ロンドンではマグロ・アンドレアコーチが指導する女子フルーレも菅原智恵子が7位、池端花奈恵が8位、団体も7位という成果につながった。

 16年リオデジャネイロ五輪は団体戦の出場権を得られず太田一人が戦った男子フルーレだが、翌17年世界選手権では新世代チームで挑み、西藤俊哉が個人2位、敷根崇裕が個人3位と活躍。この世界選手権では、女子サーブル団体戦も4位を獲得した。19年には男子エペで見延和靖が世界ランキング1位になり、山田優が2位につけた。団体では世界5位と大躍進。現在まで続く流れを作ったのは、ロンドン五輪チームのメダル獲得だったのだ。

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