「ドーハの悲劇」前夜。カズはスタジアム客席から采配に注文をつけた

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2020年07月21日 11:41  webスポルティーバ

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ベニート・ビジャマリン(セビージャ)

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 レアル・ベティスのホーム、ベニート・ビジャマリンと言われて思い出すのはオフトジャパンだ。

 1993年9月15日。日本発ロンドン・ヒースロー空港経由でセビージャ空港に到着したのは試合の1時間前。タクシーで直行し、大慌てでスタンドのゲートをくぐれば、両軍の選手がすでに正面スタンド前に横隊していた。

 日本代表対ベティス。

 カタールのドーハで開催される1994年アメリカW杯アジア地区最終予選まで、1カ月という時期だった。監督のハンス・オフトが最終合宿の地に選んだのは、スペインのコスタ・デル・ソルにあるノボ・サンクティペトリというリゾート地。選手たちは、セベ・バレステロス氏が設計したゴルフ場内の、18番フェアウェー脇に並ぶバンガローコテージを宿にしていた。

 報道関係者は、ゴルフ場に併設されたホテルに滞在したのだが、現地に着くなり、筆者は仰天した。そのちょうど1年前、開場直前だったこのゴルフ場を、取材のために訪れていたからだ。こんな偶然はそうあるものではない。

 ベティス戦は合宿中に3試合行なわれた練習試合の初戦だった(2戦目はグラナダ、3戦目はカディス)。注目されたのは左サイドバック。それまでスタメンだった都並敏史(現在は解説者)が、Jリーグの戦いで負傷したため、その代役探しが課題となっていた。

 ベティス戦に左SBとしてスタメンを飾ったのは江尻篤彦(現東京ヴェルディ強化部長)。所属チームのジェフ市原(現ジェフ千葉)では、ウイングあるいはサイドハーフとして出場していた選手を、オフトは1列下げてテストした。

 日本は開始早々、長谷川健太(現FC東京監督)、井原正巳(現柏レイソルコーチ)と繋ぎ、高木琢也(現大宮アルディージャ監督)が先制点を挙げた。だがその直後、注目の江尻がPKを献上。同点とされてしまう。テストは、前半の45分をもって終了した。オフトは江尻をベンチに下げ、センターバック的な選手である勝矢寿延(現セレッソ大阪スクールコーチ)をピッチに送り込んだ。トライを辞め、安全策に転じたという印象だった。

 どういうわけかこの試合を欠場し、筆者の隣でスタンド観戦していたカズこと三浦知良(現横浜FC)は、江尻が早々にベンチに下がる姿を見て「こんなに早く代えちゃダメなんだよ。テストにならないだろ」と、その采配に注文をつけていた。

 ベティスはその時、スペインリーグの2部にいた。日本戦のメンバーが、ベストメンバーだったのか記憶にないが、躍動感のなさを技術で補う、とてもおっさん臭いサッカーをしていた。

 それでも3−2のスコアで日本代表に勝った。日本が1カ月後に行なわれたアメリカW杯アジア最終予選を勝ち抜き、本大会出場を決めていたら、ベニート・ビジャマリンに足を運んだ地元の観衆は、何を思っただろうか。

 日本戦の観客は2000〜3000人といったところだったが、次に訪れた時、スタンドは4万7500人の観衆で満杯に膨れあがっていた。ボスマン判決の内容が施行された1996−97シーズン。ベティスは開幕して5週目をトップで迎えた。相手はその時4位のデポルティーボ・ラ・コルーニャ。

 メディア受付のゲートに行けば、態度のよろしくない係員が「お前はチノかホンコン、それともハポンか? 今日は記者席満員だから入れないよ」と迫ってきた。さらに「それでも試合を見たいんだったら3500ペセタ(当時のレートで約4000円)払いな。あっ今日はもう売り切れだ。6000ペセタぐらい出せばダフ屋が売ってくれるだろ」とまで言い出す始末だ。

 ほどなくすると、ちゃんとした広報担当者が現れ、無事、入場することができたのだが、広報は失礼を気に掛けてくれたのだろう、こちらにペットボトルの水を差し出し、さらにニコッと笑い、何かが入った小さな袋を2つ手渡した。

 ひまわりの種だった。スペイン人にとっての観戦のお供である。試合中、観衆はかなりの確率でそれを口にしている。目を奪われるのは、殻を剥き、実を取り出す口と舌の動きの素早さだ。リズムよく殻を取り出しペッと捨てる。

 何を隠そう、筆者はこの技を身につけようと密かにトレーニングした。その結果、その半年後ぐらいには、スペイン人と遜色ないスピードで、ひまわりの種を処理することができるようになった。試合への集中力も自ずと増した。

 ベティス対デポルティーボ。ベティスのサッカーは高級だった。その3年前、日本代表と3−2の試合をしたのと同じチームにはとても見えなかった。スタメンには、アルフォンソ・ペレス(スペイン代表)、フィニディ・ジョージ(ナイジェリア代表)、ロベルト・ヤルニ(クロアチア代表)などが名を連ねていた。

 しかし、この試合で圧倒的な存在感を発揮したのは、このシーズン、パルメイラスからデポルティーボに加わったリバウドだった。ベニート・ビジャマリンに足を運んだ理由は、実はリバウド見たさにあったのだ。

 ベニート・ビジャマリンの建て替えが始まったのは、その次のシーズンの後だったと記憶する。1998−99シーズン。再び現地を訪ねることになったので、スペイン在住の知人に連絡すると「”ベニート・ビジャマリン”はいま改装中。試合は”マヌエル・ルイス・デ・ロペラ”で行なわれます」とのこと。

 いったいそのスタジアムはどこにあるのか。場所が不明なので、試合の前日、タクシーの運転手に行き先を告げ、その運転に身を任せた。すると着いた先は改装中のベニート・ビジャマリンだった。クラブの関係者に「マヌエル・ルイス・デ・ロペラ」はどこですかと問いかければ「アキ(=スペイン語でここ)」と言うではないか。実際、正面スタンドに掲げられたプレートには「ベニート・ビジャマリン」と書かれてある。

 つまり、改築前のスタジアム名がベニート・ビジャマリンで、改築後のスタジアム名がマヌエル・ルイス・デ・ロペラだった。

 新スタジアム=マヌエル・ルイス・デ・ロペラは、バックスタンド側だけ完成していた。ベニート・ビジャマリンも半分残った状態にあった。

 ベティス・サポーター歴ウン十年という長老は、こう続け。胸を張った。

「ベニート・ビジャマリンを来年壊して新しいスタンドを造り、すでに半分できたスタジアムと合体させるのだ。完成すれば7万人のスタジアムに生まれ変わるんだ(実際は6万720人だった)」

 建設現場の風景があまりにものんびりとしていたので、「ホントに来年完成するんですか?」と突っ込めば、長老はニヤッと笑い「その次の年かも」と、すぐさまトーンダウンした。

 建築中のスタンドに目をやれば、鉄骨が使われている形跡が見られなかった。鉄筋を束ねてその代用にしていた。観客がジャンプすると揺れるスタジアムが外国にはよくあるが、マヌエル・ルイス・デ・ロペラも揺れる可能性大だ。

 その予想は当たった。2005−06シーズン。ベティスは初めてチャンピオンズリーグの舞台を踏んだ。そのホーム、マヌエル・ルイス・デ・ロペラで行なわれたグループリーグ第4週、チェルシー戦。その1週前にスタンフォード・ブリッジで行なわれたアウェー戦に4−0で大敗していたベティスだが、ホーム戦では意地を見せ、モウリーニョ率いる金満クラブに1−0で勝利した。その前半28分。ベティスが先制点を奪った瞬間だった。推定震度は2。完成して間もないスタンドなのにゆらゆらと揺れた。予想していたとはいえ、驚かされた瞬間だった。

 驚きはまだある。マヌエル・ルイス・デ・ロペラは、この時まだ4分の3しか完成していなかった。正面スタンドを背にして右手のゴール裏は、ベニート・ビジャマリンのままだった。

 完成したのはなんと2017年8月。さらに驚いたのは、スタジアム名がマヌエル・ルイス・デ・ロペラではなくなっていたことだ。ベティスファンは2010年、スタジアム名について選挙を行なった。その結果、選ばれた名前はなんとベニート・ビジャマリンだった。

 ちなみに、収容人員6万720人は、スペインでは、カンプノウ、サンティアゴ・ベルナベウ、メトロポリターノに続く、4番目の規模のスタジアムになる。

 セビージャのホーム、ラモン・サンチェス・ピスファンの収容人員は4万3883人なので、セビージャ市の両スタンドを合計すれば、10万5000人を超える。さらに、セビージャにはオリンピコという、1999年の世界陸上や、2002−03シーズンのUEFAカップ決勝などを開催した、約6万人収容のナショナルスタジアムがある。セビージャ市の人口が約68万人と言われるので、人口に対する座席数の割合は約25%に迫る数字になる。

 これはセルティック・パーク(セルティックのホーム)、アイブロックス(レンジャーズのホーム)、ハムデンパーク(2001?02のCL 決勝等を開催したことがあるナショナルスタジアム)を有するグラスゴーといい勝負ではないか。

 ちなみにベティスのユニフォームであるグリーンの縦縞は、セルティックの横縞のグリーンにあやかっているのだそうだ。

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