「結婚してブラジルに渡ろう」ウソと虚栄にまみれた女スパイと謎の男【藤沢つづら詰め殺人事件:後編】

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2020年07月25日 20:02  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

(前編:ミイラ化した全裸死体ーー離婚した女二人の同居生活、消えた女と庭の遺体

近所で不審がられた3人暮らし

 住んでいた家の庭から、つづら詰めの遺体となって発見された檜山逸子さん(45)は、近く弟と住む予定があった。

「逸子は淋しがり屋だから私の宅に5坪ほどの建て増しをして引き取りつもりで設計までしていたんです。それが『美津代が同居して淋しくなくなったから止めてくれ』と言ってきました」(弟の証言)

 藤沢駅前の不動産仲介業者の伝手で、逸子さん宅にて同居を始めたのは鶴岡美津代(当時35)。54年春のことだ。彼女の人目を惹くルックスと、派手な身なりや言動は、淋しがり屋で物静かな逸子さんにも魅力的に映ったのか、やがて何をするにも二人連れとなった。しだいに、近所づきあいや組合費の徴収、挨拶、留守を頼みに来るのも美津代が行うようになり、近所には美津代がこの家の主だと思われていたようだ。

 そのうち家には美津代の“叔父”で、炭鉱の経営者と称する横山太郎(48)が入り浸りになり、逸子さんは次第に奇怪な行動をとるようになったらしい。近所の住民は、当時こう声を潜めて話した。

「美津代は買い物に出かけても八百屋やたばこ屋で大声で満州時代の自慢話をするが、逸子さんはニコニコして黙って聞いていた。逸子さんは身なりが派手になり、厚化粧をしだした。そのうち横山と美津代と逸子さんで夜、雑魚寝をしているという話も広まっていた」

「美津代さんは、戦争中にはスパイだったとか、馬賊の宣伝工作をしたとかいって、飛行服を着たアルバムを見せていましたが、不思議な女でした。感心しない男が出入りするようにもなりました。横山という男などは朝からドテラ姿でやってきたり、20歳前後の学生風の男が来て泊まったり……もっとも、その学生はだいぶ家の金品を持ち出して美津代に貢いだらしく、父親が『あの女のために、すっかりグレた』と怒っていました」

 戦時中の活躍を近隣に吹聴していた美津代は、近所の者たちに不審がられていた様子だ。「美津代は何か麻薬関係があるのではないか」といううわさまで囁かれていた。

 そんな彼女は明治維新の志士、西郷隆盛平野国臣と親交のあった家に生まれた6人きょうだいの3女。3歳までは“お屋敷のお姫様”として福岡で育った。7歳の時に一家は上京し、小学校を優秀な成績で卒業したのち、女学校に入学。ここでも成績は79人中の2位だった。『じゃじゃ馬』とあだ名されるほど派手な存在だったらしい。

「成績は確かによかった。美貌で先生間にも人気があったようだ。友達交際もいい。1年ちょっとで退学したが、快活なお嬢さんタイプと思った。体が弱く学校は良く休んだ。ただ金銭関係がルーズで借金しても平気で返さぬことは度々あったと思う」(当時の教諭)

「東郷元帥の死について作文を書き一等賞を受けて朗読させられたことがある。才気走っていた。人形遊びをするような少女らしいところはなかった」(美津代の姉)

 のちに美津代はフィリピン戦線の特派員から帰って来た男性と結婚するが、わずか半年で離婚。離婚後に中島飛行機立川工場に勤め始めたところ、その才気を買われ、陸軍少将の秘書となる。少将とともに満州に渡り、スパイ工作に従事していたともいわれており、その頃が美津代の生涯で最も華やかな一時期であり、「この時代こそ、美津代にウソと虚栄を植え付けたのだ」と彼女を知る者は言う。

 終戦後にふらりと福岡に戻って来た彼女は、人を言葉巧みに騙して金品を持ち去るようなことを繰り返し、周囲を落胆させたようだ。

 「美貌の女スパイ」として暗躍していた美津代はその後、横浜の芸者置屋にて“その子”という名で芸者となっていた。ここから、嘘の経歴を語っては人を欺くようになる。

 太郎に身受けされ、同じ町の別の芸者置屋で働き始めるも、自分を“作家・小糸のぶ”だと名乗り、「花柳界をテーマにした作品を執筆している」「新聞記者は友人だ」などと、原稿用紙の束を見せながら女中たちを騙し、23万円相当の料理その他金品を詐取。わずか半年で行方をくらまし東京へ。銀座のクラブで女給として働くも、翌年には辞め、藤沢市の特殊飲食店で働き始めた。こうした店に“売春婦”と呼ばれる女性が置かれていた時代のことだ。店では「妖気ただよう女」として知られていたともいう。

 流れ流れて移り住んだ藤沢で、美津代が住む家を探しているなか、出会ったのが、逸子さんだった。美津代は逸子さんに出会ったとき「両親がブラジルに広大な土地を持っているので、渡航費用を稼ぐために藤沢市内でカフェーを経営している」と嘘をついて取り入った。ふたりで大島や日光を一緒に旅するようになり、間もなく“美津代の叔父”と称する太郎もその家に入り浸るようになる。ふたりは逸子さんの財産に狙いを定めて動き始めた。太郎は妻子がいるにもかかわらず独身と偽り、逸子さんに結婚を持ちかけたのだ。

 逸子さんから見れば、美津代は同居をきっかけに親密になった女友達。両親はブラジルで農業をやっているという。その叔父だという太郎から、繰り返し結婚を迫られ、徐々に逸子さんは気持ちが傾いてゆく。それにはふたりの手の込んだ工作も影響した。美津代らは、太郎の父親の名で「逸子さんとの結婚を承諾する」という内容の手紙を逸子さんの弟に書き送ったほか、晩餐会に招かれた太郎がその会場に向かう途中で逸子さんとのエンゲージリングを購入。会場では妻として逸子さんを皆に紹介するなどして、徹頭徹尾、逸子さんを騙し抜いた。

 さらには「ブラジルへは毎月20万仕送りしている」「結婚してブラジルに渡ろう」と甘言を使い、逸子さんをその気にさせ、3人でブラジルに行く計画を練り始める。渡航費用にするためと嘘をつき、美津代が逸子さんの株券を売り飛ばし20万円をだまし取ったのだ。逸子さんもここでようやく、自分が騙されていることに気づいた。怒った逸子さんは、美津代をなじり、太郎に結婚を迫り続ける。楽しげだった3人の関係はこじれにこじれ、口論が絶えないまま、年が明けた。そして……。

「55年の正月の終わり頃ですかねえ、急に隣がシーンとしちゃったんです。留守なら、いつも美津代が用心を頼みに来るのに、こなくなった。変だなあと思っていると10日ほど経って横山が一度やってきました。『ここの行方不明の人はどうなったか? 一人は知っているが、何かご存知か?』と聞いていました」(隣の住民)

 こうして行方不明となった逸子さんは、翌年の夏、自宅の庭に埋められたつづらの中から遺体で見つかった。直ちに全国に指名手配が行われた美津代は、逸子さん殺害後、名古屋や広島、松山や小田原など各地を転々とし、寸借詐欺や、病院の医療費を踏み倒して姿を消すなど犯罪を繰り返していた。広島で出会った男・栗原は美津代に惚れ込み、こうした事件の尻拭いを続けていたという。

 美津代が見つかったのは、遺体発見の4日後。東京・新宿百人町の旅館に栗原と投宿しているところを「前夜から手配の女に似ている客がある」と通報され、駆けつけた警察官に身柄を確保されたのだった。太郎も20万円の詐欺罪で逮捕されていた。1年半の逃避行のうちに肺結核が進行していた美津代は、取り調べが続く警察署において、毎夜のように喀血していたが、日中の刑事の追求には、頑として否認を続けていたという。

 さて、逸子さんの3度目の遺体捜索のきっかけとなったのは、その家に買い手がついたことだけではない。藤沢市内の土木工事労働者から「あの庭にゴミ捨ての穴を掘らされた」という証言があったことも大きい。逸子さん殺害に関わった者は、美津代と太郎だけではなさそうだ。遺体の入ったつづらを部屋の中で引きずった形跡もない。庭に深さ約180センチもの穴を掘り、つづらを地中深くに埋める作業を、女性一人で、近隣に気付かれずにやり遂げるのは難しい。状況的には美津代の単独犯と見るには無理があるが、関わった人物は謎のまま、すでに60年がたった。

 藤沢駅のそばで、こうした事件があったことすら、人々の記憶には残っていないことだろう。

(参考文献)
・「週刊読売」1956年8月5日号
・「週刊サンケイ」1956年8月5日号

このニュースに関するつぶやき

  • いやいや、横山太郎は殺害には関わってないだろうに。 もし殺しに関わってたら、隣人に『ここの行方不明の人はどうなったか? 一人は知っているが、何かご存知か?』なんて聞くかっての。
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