「マリーシアの王」ルイゾン。万事に抜け目ない男が来日するまで

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2020年07月29日 11:22  webスポルティーバ

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第8回ルイゾン(前編)>>後編を読む

 今回の主役、ルイゾンが日本でプレーしていたことを覚えている人はきっと少ないだろう。2002年W杯の世界チャンピオンの一員だが、日本ではたったの6試合しかプレーしていないからだ。にもかかわらず、私がこの列伝のひとりに選んだ理由は、彼が典型的なブラジル人プレーヤーであり、そのストーリーはとても興味深いからだ。

「典型的なブラジル人選手」という場合、ふたつのタイプに分類される。

 ひとつは華麗で絶対的なテクニックを持ち、足技で人々を魅了するタイプ。もうひとつは狡猾で、チャンスを絶対に見逃さず、なりふり構わず自分のものにしていくタイプ。前者の代表がロナウジーニョやジーコならば、後者の代表がルイゾンだ。

 90分懸命に走ったりはしないが、ここぞという時には、最高のタイミングで、最高のポジションにおり、結果を出す。相手を挑発し怒らせファウルを誘い、大げさな演技でPKを勝ち取る。

 日本では決していい顔をされない狡猾さだろうが、サッカーで勝利するには時にはこういったことも必要だ。ブラジルではこれをマリーシアという。日本人選手に一番足りないものとして、ジーコも口を酸っぱくして繰り返しているマリーシア。ルイゾンは、いうなれば”マリーシアの王”だ。

 それを物語るエピソードがある。

 2002年日韓W杯、ブラジルの初戦の相手はトルコだった。楽に勝利できると思っていた油断もあってか、ブラジルはトルコに先制され、焦っていた。ロナウドがゴールをしてどうにか同点にしたが、ロナウドの調子が悪かったのは目に見えていた。

 そこでルイゾンがロナウドに代わって入った。試合が1−1のまま終わるのかと思われた87分、トルコのアルパイ・オザランが彼を止めようとユニホームに手をかけた。場所はペナルティエリアからゆうに3メートルは離れていた。

 しかし、ルイゾンはこの絶好のチャンスを逃がさなかった。大げさに前方に飛び、ペナルティエリアの中へと倒れ込んだ。韓国人の審判はまんまとその手にひっかかり、ブラジルにPKを与えた。これをリバウドが決め、ブラジルは初戦で勝利することができた。

 ブラジルのエース、ロナウドは2002年のW杯本大会を前に、膝にケガを抱えており、誰もいいパフォーマンスをできるとは思っていなかった。当時の代表監督ルイス・フェリペ・スコラーリは、もしロナウドに何かあった場合、その代わりとなれる選手を探していた。

 そこで白羽の矢が立ったのがルイゾンだ。彼はW杯予選の重要な最終戦で代表入りし、そこで見事2ゴールを決めていた。彼のようにここぞという時に力を発揮でき、マリーシアを駆使する選手が、時に勝敗を左右することがある。監督たちはそのことをよく知っている。

 ルイゾンの方もW杯のメンバーに入るため、ピッチの外でも努力をしていたのかもしれない。

「緊急来日直前にジーコが語った」はこちら>>

 ルイゾンは典型的な流れ者型プレーヤーだ。17年間のキャリアの間に17回移籍し、16のチームでプレーしている。W杯直前に彼はグレミオに移籍している。グレミオは、当時の代表監督スコラーリが住むポルトアレグレに本拠地を置くチームだ。自然と代表監督の目に留まることも多くなるだろう。万事に抜け目ない彼が、そこまで計算しなかったとは言い切れない。

 結局、ルイゾンはW杯で2試合、計40分しかプレーしなかったが、それでも世界王者の称号を手に入れた。どんなにちょっとしかプレーしなかろうが、「俺はロナウドやロナウジーニョと同等だ」と、ルイゾンは堂々と言ってのける。彼はいつも歯に衣を着せず、思ったことをそのまま口にする。

 ルイゾンはサンパウロのすべてのビッグチーム、サンパウロ、サントス、パルメイラス、コリンチャンスでプレーし、リオでもフラメンゴ、ボタフォゴ、バスコ・ダ・ガマと、4大チームのうちの3つでプレーしている。

 これらのチームのライバル意識は非常に強く、通常その間の移籍はタブーとされている。それを彼は何度となく繰り返している、これほどライバルチームへの移籍が多い選手はルイゾン以外いないだろう。彼の利便性と肝の太さを物語っている。

 実際、彼はマリーシアを武器に多くのタイトルを勝ち取っている。W杯優勝に加え、リベルタドーレス杯優勝2回(バスコ・ダ・ガマ、サンパウロ)、ブラジル全国リーグ優勝(コリンチャンス)、クラブW杯第一回大会優勝(コリンチャンス)、コパ・ド・ブラジル優勝(フラメンゴ)。また、個人としては2000年のリベルタドーレス杯と1996年のコパ・ド・ブラジルの得点王になっている。

 そんなルイゾンがなぜ日本に来たか。それにはこんな背景があった。

 2005年、ルイゾンはサンパウロで不満な日々を過ごしていた。シーズン頭にボタフォゴから移籍したものの、監督のエメルソン・レオンは彼を評価せず、ベンチに残される日々が続き、その後、ベンチにも入らなくなった。

 そこに、日本で名古屋グランパスを率いていたネルシーニョ(現・柏レイソル監督)から誘いが来た。レオンに相談すると、「行けばいいんじゃないか」と軽くあしらわれたと、後にルイゾンは語っている。

 グランパスから提示された報酬も悪くなく、彼は州リーグの終わる7月に日本に移籍する契約を交わした。ところがだ。契約を交わした直後に、彼の天敵だったレオンがチームを去り、代わりにパウロ・アウトゥオリが監督の座に就いた。

 アウトゥオリはルイゾンを高く評価し、レギュラーとして起用。ついにはその年のリベルタドーレス杯で優勝を果たした。決勝2戦目にはルイゾンがゴールを決め、優勝に貢献している。そしてリベルタドーレス杯のあとに待っているのは世界一を争うインターコンチネンタルカップ(現クラブW杯)だ。南米ではヨーロッパ以上にこの大会が重要視されており、選手がたどり着きたい最高峰の大会のひとつだ。

 彼はそのままサンパウロに残りたかったが、グランパスとの違約金は莫大な額で、サンパウロはそれを払ってはくれなかった。ルイゾンは日本に行くしかなかった。サンパウロはインターコンチネンタルカップの期間だけ、ルイゾンをレンタルさせてくれないかとグランパスに打診したが、これも断られた。

 2005年夏、ルイゾンは日本に渡った。
(つづく)

ルイゾン
本名ルイス・カルロス・ボンボナート・グラール。1975年11月14日生まれ。グアラニ、パルメイラス、ヘルタ・ベルリン(ドイツ)、サンパウロなどを経て、2005年、名古屋グランパス入り。その後サントスなどを経て2006年に現役を引退。ブラジル代表では2002年W杯で2試合に出場している。















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